韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について日常から気づくことを書き残しています。思考の軸は、インドの哲人クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)。5年目ブロガー。21年冬Amazonペーパーバック出版。これからもぼちぼち続けていきたいと思います。コメントや批評全てご自由に。

あなたの「偏見」を聴かせてください。

f:id:olewakbh:20190603004050j:image

© 2015 Warner Bros Entertainment Inc. All Rights Reserved.

*映画: her 世界でひとつの彼女より。

*好きな映画ですが、本文とは関係なさそうです;;

 

【※注意:前書き必読】

この記事は、どうしてもツイ(140字)に収める自信がなくて逃げるようにパソコンに向かっている自分を自分が見つめながら、苦笑いで書いているそんな内容の記事であって、

…と訳分からないことを言いながら、そのすっきりしないもしくは怪しい詐欺話に引っかかるかもという警戒感を抱かせながらもとにかく読ませるために、ゆるいタイトルを偽って間違って知らないうちにクリックさせる裏の意図がばれないようわざとピリオドを入力しない前書きによる「このくだらない前置きは一体いつ終わるのか」という疑問が、ただでさえ少ない読者をもなくしてしまう可能性を意識せざるを得なくなった焦りを逆手にとって他の記事にもこのような前置きがあるかもという誤解をわざと招くようなウザさを演出することで、同情でももう一回クリックしてしまったら私の勝ち。

(はぁ、はぁ、最後は呼吸混乱状態...。思考=言葉の私としては夜中のマラソンのような前置きでした;;運動は苦手なのでもう二度としません。お騒がせしました。それでもすっきりしないもやもやの方がございましたら、コメントにご意見を残してください!😆)

 

そんな前置きは、置いといて(置いとくなら最初から置くなということですが、そういう自虐孤独漫才も本当に置いといて;;;)

 

今日は「偏見」について思うことを書いてみました。

 

もし途中で眠くなったり、イラっとしたり、嫌な上司の匂いがして「胃がきりきり」してきたら、スマホの画面はそのまま(焦り;)で「吉澤佳代子」の「胃」をお聴きください。

きっと、彼女の可愛い歌声が鎮痛薬となるでしょう。

 

「吉澤佳代子」の「曲名:胃」

(患者様へ ※記事閲覧前後で1日2回服用(?)をおすすめします)

https://music.amazon.co.jp/albums/B01BCMPRH0?do=play&trackAsin=B01BCMPVVC&ref=dm_sh_1aYusrqfcRpK70sPAKLfP8G3i

 

 「偏見」という言葉があります。

その「偏見」という言葉を書く前から頭に思い浮かぶもの。

それは皮肉にも彼自身(偏見氏のこと;)の意志とは関係なく、読み手の「偏見」が最初から反映されていると感じます。

 

そうです。

最初から「偏見」を「偏見の目」でみている自分がいます。

私たちは、こうやってブログをみる(?)時もその書き手に対する偏見を頼りに、ブログを読み、理解してます。

 

書き手が専門職であればあるほど、多くの読者を持っていればいるほど、そして多くの「いいね(ここでは★ですが)」があればあるほど、読む「価値のある記事」もしくは「良い記事」だと思ってしまう偏見を持っています。

(⇦結局、自虐を拒否してしまった書き手の「読み手」への露骨な心理攻撃?)

 

しかしそれは裏返すと私たちは偏見がないと他人へ近づくことができないことかなとも感じます。

 

こんな物騒な世の中、そして同じネット時代。

何の情報もなくありのままの姿をそのまま受け入れることなんて...。

下手すると詐欺に遭ったり、クソ(?)記事に大切な時間と感情を奪われるかもしれません。

 

...その通りです。

 

私たちは物騒な現実からも、そして目に見えない、さらに物騒だと思い込むネットからも自分の身を守らないといけなくなりました。

そしてそういった日常を毎日送らないといけません。その毎日によってさらに強くなる偏見と偏見そして偏見。

 

その偏見はある意味、

自分を守る盾でもあるのかなと思ったりします。

 …。

f:id:olewakbh:20190603005109j:image

© 2015 Warner Bros Entertainment Inc. All Rights Reserved.

*映画: her 世界でひとつの彼女より。

*本文とは関係なさそうでも無い?

 

しかし、ふと気づくのです。

いつの間にか自分が…

偏見を守ろうとしながら、

「あなたを守ろうとしている」ことを、

... いや、「あなたを理解しようとしている」ことを…。

 

そしてその偏見が自分に言うのです。

「この人とは何か通じるものがある」

「この記事を書いた人の話がもっと聞きたい(願望露出?)」

「まるで私の鏡のよう...」

 

フェミニズム・男らしさ・こどもの習い事・育児について…。

 

私は、数多く(これで24記事:数えたりはしないで下さい;)の記事で「偏見」について、そしてそれがいかにいけないことなのかを熱心に語りました。

 

偏見に訴えるその記事をもう一度読み返して、やっと自分の言葉に隠れていた「偏見」に気づきます。

...

自分が訴えたかったのは、もしかしたら「偏見」に気づいていない「自分」だったのかな...って。

 

それで時には強い口調で、

時には自虐の笑いを使って、

そう...、誰よりも知っている、

「自分への撫で方」で言い聞かせていたのかな…って。

 

そして自分はまるで「偏見に囚われていない人を演じる」ことで、

「自分への気づき」を少しでも遅らせたかったのかな...って。

それは、気づく自分が怖い。またそういう自分として見られるのが怖いという「偏見」だったのも気づかないまま... … …。

 

 

★ご覧の通り、私に読者は2名(感謝しかありません)しかいません。

そして一日閲覧数も多くて20程度の貧弱なブログです。🙇‍♂️

それにもちろん私は特定分野に詳しい専門家でも、育児に長けたベテランでも何でもありません。それをどう考えるか=どんな偏見を持つかは、これを読む方の自由=自分次第です。

 

しかし、

その理由が同情であれ、検索の間違いであれ、私のブログとこの記事を読んでいる方を「閲覧数1」という数字の「偏見」でみないこと。

 

たとえ1日の閲覧数が「あなたの1」で終わっても、その価値に喜び、そして感謝への気持ちを感じる素敵な「偏見」が自分にできればなと思うそんな日です。

 

「偏見」は「自分」でもあること。

そして自分を見つめることは「あなた」を見つめることでもあること。

それに気づく不思議な夜、「あなたと自分の偏見」そしてその「距離」について考えます。

 

But with you my dear
I’m safe and we’re a million miles away

でも あなたと一緒なら
何も心配ない100万マイルかなたでも。

*映画: her 世界でひとつの彼女より。

 …。

 

最後までご覧いただき、ありがとうございました。(*^^*)

 

※あなたの大切な偏見をお聴かせ下さい。今ここでいつも待っています😇

「ブログ」と「チラシ配り」は似ている

 

「ブログは一方通行」

ツイッターは両方」

 

という偏見(?) が定着してしまい、どうしてもツイッター発信がメインになっている昨今です。

 

ツイッター

@lcpam2

https://mobile.twitter.com/lcpam2

←言い訳を利用し、間接広告をする古い手口です。

ご注意下さい。

 

 

信号待ちの横断報道で...ふと、

「チラシ配り」と「自分のブログ」 が似ていることに気づきます。

 

「都会行バス」が一日1~2本あるかどうか(バス停が古くて時刻表がよく見えない;)の田舎、しかもバス停から徒歩16分(距離感が一番難しい; )の「畑のど真ん中」で、

 

「私の話」という「チラシ」 を一人で配っています。

 

「もっと赤く刺激的な言葉を使うべきか」

「論争を招きやすい(突っ込みやすい)口調にするか」

「共感を呼ぶ言葉を慎重に入れるべきか」

「イメージしやすい、優しい(疲れない)画像をどこに入れるべきか」

「一方的な内容で、説教になっていないか」

 

思考が遅い私は、何時間、時には何日間も悩んで記事という「 チラシ」を作り上げます。

 

そして、悲壮な顔で、

パソコンからその「田舎の畑」 に向かうのです。そして到着。

 

風の音と、

ロマンチックな麦の揺れ。

ひょうひょう~動く薄金色のグラデーションと

微かにみえる鯉のぼり。

 

「あ。なぜかビールが飲みたい...」

...あ。景色に酔ってる場合ではない!

 

「あの…。よかったら、私の話を聞いてください...」

 

私の小さい声に、

遠くから腰を丸めて作業していた麦わら帽子のお爺さんがゆっくり腰をあげる。

 

「こんなところで、何しているかい?」

 

初めての声に、つい興奮した私は、

「実は、お話がありまして...。」

と挨拶も忘れチラシを見せる。

 

「愛について。子育てについて、そして私が見ている世界の理不尽さについて...」

畑のど真ん中で私は初めて会うお爺さんに、ありったけの話を並べる。

 

黙々と私のチラシをみていたお爺さんがいう。

「... 全部、どこかで聞いた話だね」

 

「いや、あの!全て私が考えた話なんです」

「全て私が思考して言葉にしたものです!」

「…それが感想ですか?」

「私、今日朝からずっとこんな田舎の畑で大変なんですよ!」

「そんな話を聞くために、ここにいるわけではありません!」

「もう畑はゴリゴリなんです。なのに」…。

 

チラシを握り締めながら、

鬱憤を吐き出す私にお爺さんは言う。

「キミ、その顔がおとうさんにそっくりだな...。」

「それでスッキリしたかい?」

 

それからお爺さんは、

「それで、おとうさんは、もう赦したかい?」

 

「いや、父じゃなく私自信です!」

「彼は赦す必要も資格もないんです!」

「私自信の問題なんです!」

 

「...。」

 

お爺さんは少し悲しい顔で言う。

「彼は何も言っていない。大変だ。忙しい...と言ったのは君じゃないか?」

 

「...。」

 

バスに乗ってパソコンに帰ってくる。

チラシを見たのは何人なのか。

 

腰を丸めてパソコンを睨むその姿を、

「娘を抱っこした麦わら帽子の自分」が

ゆっくりと眺めている。

 

...。

lcpam.hatenablog.com

 

 最後に、前回の記事「子供の習い事…」で初めてコメントを頂きました。

この記事はその思考と気づきによるものです。

akihitosuzuki様 ありがとうございます。

ありがとうございます。

 

子供の習い事と親の自己満足について

子どもとフェミニズムについて色々考える最近です。

 

今回は、子ども(=私たちの幼児期も含む)の価値観形成に莫大な影響を与える幼児期における親の接し方について、思うことを少し書いてみました。

根拠もなく、故に誤解満載の内容となります。

どうかお手柔らかに読んでいただけると嬉しいです。

 

f:id:olewakbh:20190425231405j:image

 

「いつか役に立つから」

「学んでおくとあなたのためにもなるよ」

「英語話せないとこれから生きていけない」

「すべてはあなたの未来のため」

 

聞き覚えのある言葉ではありませんか。

もしくは、正に今子どもと自分に言い聞かせている言葉かもしれません。

 

個人的な話になりますが、

私は親の勧誘(選択肢はない)で小学生の頃2年間弟とピアノレッスンに通わったことがあります。

弟はかなり器用で上達も速く、いつの間に同年代でトップレベルになりましたが、あまり指が速くなかった私は毎日先生に叱られながら(指を叩かれながら)、時には馬鹿扱いされ、それでも我慢し続けた記憶があります。

そのせいでしょうか。今もピアノを見ると、未熟な自分と痛い指の感覚、そして弟を思い出してしまうのです。

 

それから30年が経った今も時々親から

「その時、ピアノ学んどいて良かったでしょ?」と言われたりします。

 

私たちは、過去の出来事においてそれが重要であればあるほど、「自分の選択は正しかった」と確認したい(もしくはされたい)傾向があります。

 

過去の子育てで「親としての役割を果たした、その選択は正しかった」というある意味=自己満足を、正にその対象から確認したいのは自然な欲求かもしれません。

 

しかし、時には良かれと思ってやったことが当事者にはトラウマになることだってあります。

これは特にその行為と受け取る側との立場(主客)が反対の場合によく起こる気がします。

 

つまり「その行為は誰のためなのか」という問題。

 

その行為が「やりたい主体(子供)の気持ち」からではなく、「やらせたい客体(親)の気持ち」から成立していないのか。

 

これは、幼児教育全般に大きな判断基準となり得ます。

 

その習い事って

「やりたいのは自分なのか?子供なのか?」

 

このシンプルな問いを、私たち親はあまり真剣に考えていない場合が多いです。

 

行為の主体は、「目の前の子ども=足りない子ども」ではなく、親が思い描いている「未来の子ども=理想の子ども」になってはいないか。

 

「いやだ!これがやりたい!遊びたい!」

と叫ぶ子どもを、一人の人格ではなく、未来への備えもできない、精神的に未熟な「こども」として見てはいないか。

 

「子どもの成功と達成=自分の成功」

 

親は、一人の人間として1回の幼児期しか経験することができません。

 

誰もが経験するこの幼児期でのキーワードは大きく3つ。

「愛情」と「抑圧」そして「否定」

 

これらはいろんな形で幼児期の柱となり、個人の性格や価値観形成に莫大な影響をもたらします。

 

例えば、親に甘えられなかった「否定」された子どもはその「甘えたい感情」を「抑圧」する事で、「お利口さん」を演じ親に違う形で愛を受け取ろうとします。

 

「愛情」を求めるありのままの自分が「否定」される。感情の「抑圧」は、体と共に価値観として確立されて行きます。否定された悔しさと満たされない愛情。

 

「彼氏・彼女」「夫婦間」そして「子供」へと

その気持ちは年齢と社会的位置によって変化、対象を変えていきます。

 

....

 

ここまで書いてエネルギーが尽きてしまいました。最近チャージ後やたら電池消耗が激しいのはやはり年齢のせいでしょうか...

 

今日も素直になれず言い訳で逃げるおっさんです。

 

では、おしまい。

 

続き書きますので、あまり期待はしないでください。最後に、誰も気にしていないと思いますが、そこそこA氏後編、そこそこ悩んでます。

 

*参考*

子どもの精神発達についての研究「発達心理学」「遠藤利彦」の書籍や論文、そしてその他多数の本影響されまくり。

吐き気注意!「愛」について思うこと。

この内容は、ツイッターでのやり取りをきっかけに少し思考を加えたものです。読み手にとっては、納得しにくいところも多々あるかと思いますが、誤解なく(誤解されても仕方ないと思っていますが)読んでいただけると嬉しいです。

*関連イメージなどありません。途中で休みながら、ごゆっくりお読み下さい。

 

全人類に投げかけるような(?)、とてつもなく大きな問い。

 

 「愛とは何か」・・・

 

もちろん私には知識も視野も資格(?)も備わっていませんが、全人類(何十億単位)の中で1つのサンプル(これの価値は別にして;)として、「愛」について私がしてきた誤解と今も続いている思い込みについて書いてみました。

 

「ときめき」と「性欲」は「愛」なのか?

  

魅力的な異性に出会ったとき、私たちはいろんな形でときめきます。

そしてその人の言動が気になり、その人とのかかわりを増やそうとします。

 

そこで自分の感情を受け入れて(=認めて)素直にその感情に従うこと。そういう自分を大事にしながら、認めてあげることが「愛」なんでしょうか?

 

私はたった数回の恋愛を通してだけですが、2つの「愛」を見てきました。

 

自分が求む「愛」と、相手が求む「愛」

 

 全く違うこの2つは、ややこしいにも

同じ「愛」と呼ばれています。

 

もし自分が求む「愛」が、

「周りの環境の変化に屈しない強い生活力と包容力。疲れている自分を慰め、癒してくれる、なおかつ物事に前向きな母親のそのものに近い愛」だとしましょう。

 

しかし、そんな家父長制の理想ばかり求めていては、魅力的(この表現には個人差がありますが、異性として引かれる性的な魅力のこと)な異性と付き合うことは用意なことではありません。イケメンでもなく、同世代において優位に立つ要素が殆ど見当たらない私のような男性としては、ほぼ不可能に近いです。

>>>この思考自体がかなり男性的な思考であることをつい最近気づきました...。

 

…自分の「愛」を見つけられなくなると、もしくはその可能性が無限に低いと感じると、年齢と焦りと社会から求められる普通の基準(相当高いですが;)、そして最後は自分の意志(男性的な思考)によって、相手の「愛」にしがみ付きはじめます。

 (以下、男性目線です。吐き気にご注意下さい)

 

それは…女を口説くこと。

 

同男性間(ホモソーシャル)で優位に立つことができる「数の暴力(深度や深さではなく、単に経験数だけで優位に立つ構造又はそれを認め合う・・・馬鹿な行為)」をもって。

また紳士を演じることがまるで「男らしい男」の「掟=プライド」を守るかのように「愛」にしがみ付きます。

 ...

自分が求める「愛」はどこから来ているのか。

それを相手に求めている理由は何なのか。

その「愛」によって自分は本当に幸せになれるのか。

 

…「愛」に対する省察も気づきもしない(できない)まま、男は「性欲」と「愛」すら区別できず、自分の「愛」を隠し相手の「愛」を、まるで自分も求めていて、さらにその「愛」を与えることが自分の使命であるかのように演じるのです。

 

そして結婚。

 

時間が経つにつれ、互いが求む本当の「愛」が見えてきたとき。私たちは何かが違うことに気づき始めます。

 

相手から自分が求める「愛」が得られない、

もどかしさと戸惑いと不安。

 

今度こそ、自分が求める「愛」を与えてくれる相手を探そうとします。

 

しかしそもそも自分の「愛」が間違っていたことを、それが思い込みであるという大事な思考を「男のプライド=男性性」が邪魔します。

いや拒否します。

 

「男のプライド」は揺るぎないもの。

決して認めてはいけない「聖域」みたいなものだと思っているんでしょうか。

 

「俺は間違っていない!」

「悪いのは変わってしまった彼女ではないか!」

「あの可愛かった彼女はどこへ行ってしまったんだよ!」

そうです。やっと自己責任の逃げ道を見つけた男は、家事不参加と夜遊びを自己合理化することで、それをさらに行動で訴えるのです。

そしてツイッターに妻が変わってしまったと嘆くのです。

 

 

 「愛とは何か」・・・

答えは私の思考と共に、もしくは年齢と共に変わるかもしれませんが、 

今の私の答えは、「求め合う「愛」すべて」

 

「愛」について悩むことが大事だな…と思う最近です。

 

おしまい。

 

ツイッターでもお待ちしてますw

@lcpam2

https://mobile.twitter.com/lcpam2

コンビニと育児は似ている。

f:id:olewakbh:20190416142739j:image

*四月のジューンベリー

 

...

 

「結局、また悪いのは私ね」

...

 

7時帰りの旦那は、子供に怒るなと言いながら、私に怒る。

... 

 

子供教育とか週末予定とか株利益とかも

いいんだけど。

... 

 

少し休ませて。

少しだけでいいから一人にさせて。

 

それから、

考えてみるから...。

 

 

☆☆☆

日々の育児で夫婦はスタッフ化する。

 

楽しかった日常のルーティンは、その対象が子供になる途端モンスター化する。

 

最大増員2名のスタッフは、互いのシフトを確認しながら必死にルーティンをこなす。

 

しかしこのシフトには最大の弱点がある。

それは、有休がないこと。

いや、休暇そのものがないことだ。

 

... 

それが何を意味するのか。

親にならないと分からないのだ。

いや分かる必要がなかったが正しい。

 

あと少しで10連休のゴールデンウィーク

保育園も10連休...。

 

100年に一度の大型連休が、

100年に1度の子育てに重なる。

それを2名いや...時々1名のスタッフで乗り越えないといけない。

 

現実を愚痴っても何一つ変わることはないけれど、こうやって書いてみることで何か新しい思考が出てくるかもしれないというまたもや虚しい期待。

 

「なら産まなきゃいいのに」

「周りに助けてもらえばいいのに」

「結局悪いのは夫婦じゃん」

 

小学校止まりの思考に言ってあげたい。

 

親として愚痴る自己防衛ではなく、

本気で思っている言葉。

 

産んでよかった。でも大変だと。

この二つは常に同時でありながら、

因果関係ではないことを。

 

....

 

「ほら、結局悪いのはあなた達じゃん」

 

...

もしあなたの親があなたを産んで大変だったと口をこぼしたら、あなたは同じことが言えるだろうか。

 

「私、産まなきゃよかったじゃん」って言えるだろうか。

 

...

 

誰も悪くない。

そして誰も悪い人になる必要はない。

 

...

 

悪役なんてない。

それが辛い理由だなんて

今更気づく。

 

...

 

そこそこA氏のお話。(前編)

 

そこそこA氏は、そこそこの大学を卒業し、そこそこ頑張って就職し、そこそこの会社で、そこそこのやりがいを感じながらそこそこの夢を持って仕事をしました。

 

そこそこの結婚相手もできて、そこそこのマンションでそこそこの暮らしも始めました。

 

そこそこのタイミングで結婚をし、そこそこのタイミングで子供が産まれ、産休をとりました。

 

そこそこではない育児は大変でしたが、

旦那もそこそこ手伝ってくれたので、

 

「頑張れば、認めてくれる人がいる!」

「頑張れば夢も育児も両立できる!絶対あきらめない!」

キャリアーウーマンとして覚醒したA氏。

 

そうなんです。意志もそこそこ持っていたA氏は、人生で一番頑張りました。

 

産休と育休後、そこそこのタイミングで復帰したA氏は、今度はそこそこではない全力で仕事をし、全力で家事と育児をしました。

 

すると、そこそこの給料が入ってきて、そこそこ仕事も育児も両立できるような気がしました。

 

しかし、そこそこだった仕事と風向きは、

時短と共にそこそこではなくなり、そこそこ肩身の狭い思いをしましたが、それでもA氏は全力で頑張ります。

 

そこそこ不当な人事異動でも、そこそこおかしい仕事配分でも、そこそこ帰りづらい雰囲気でもそこそこ不当な昇進でもA氏はまた頑張ります。

 

すると「そこそこA氏」は、いつの間にか「全力A氏」になっていましたが、社会は「そこそこのまま」で止まっていることに気づき始めます。

 

「おかしい」

「私が何か悪いことをしたわけでもないのに・・・」

「どうして毎日がこんなに大変で、こんなに怒っているんだろう」

「どうしてこんなに時間が足りなくて、どうしてこんなにつらいんだろう」

 

「全力A氏」は、全力で考えましたが、その答えを見つけることはできませんでした。

 

そしてそこそこの旦那から返ってくるのは、「そこそこの返事」だけ。

全力A氏は最後の希望を託して、全力のタイミングで二人目を妊娠します。

 

。。。

 

そして6年間全力でぶつけてきたA氏は、

子供が小学校に入ったとき、

そこそこの夢をあきらめました。

 

それからそこそこのバイトを探し、

そこそこの生活をし、

そこそこ家事をこなします。

 

そこそこだった旦那はそこそこの管理職となり、そこそこ帰りも遅くなり、ついにそこそこではなくなりましたが、そこそこA氏は気にしませんでした。いや気になりませんでした。

 

そこそこではない、かわいい子供たちがいましたから。

 

そこそこの学校に進学した子供たちが自分で物事が決めれるようになったとき。

そこそこA氏はそこそこではない、幸せな人生について考えるようになりました。

 

「どこで間違っていたんだろう」

「どうして私の人生はそこそこの人生になったんだろう」

 

でも、そこそこのテレビ番組でも、そこそこの近所付き合いでも、そこそこの旦那からもその答えを見つけることはできませんでした。

 

・・・

 

「そこそこA氏の話は・・・後編に続く」

82年生まれ キム・ジヨン 人生の重さについて

 

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

 …。ああ。

 

電車の中で言葉を失った私は、

ただ流れる風景を見ることしかできずにいました。

 

生きることの重さが…

性別だけで変わってくるという事実と、その事実に向き合ったことも、いや気づくことも出来なかった自分への嫌悪感が風景のように次々と自分を襲い掛かってきます。

 

理不尽な社会と、

見て見ぬ振りをする過去の自分と、

傷つきながら生きてきた彼女たち。

 

当たり前ではないことが、

当たり前のように思ってた時代と

その時代のせいにしている自分への幻滅が

走馬灯のように思い出を書き換えていく。

 

 …。あ。…。あ 

 

深くて短い、

言葉にならない重いため息。

 

我慢するしかなかった、いや選択肢すら与えられなかった多くの女性の人生が、

昔も今も、そしてこれからも続くことの重さ…。

 

それは私の母の重さでもあり、

妻の重さでもあり、

そして2歳になったばかりの娘の重さでもあることを、私は知ろうともしなかった。

 

私は傍観者であり、共犯者。

これからもずっと知らずに生きていったかもしれない…という恐ろしさと、期待すらされない諦めから来る彼女の虚しさを目の前にして、私は混乱しています。

 

一度も生理を経験したことのない男がそれが何十年も続くことの意味を。

妊娠と出産の不安と、仕事と自分の人生への不安を。

そして多くの彼女が当たりまえのように諦めるしかなかった現実と、男という思考の暴力に私はどれだけ真剣に向き合ってきただろうか。

 

泣き崩れている彼女の話を、

どれだけ真剣に聞いていたのか。

 

それが私と未来への不安であることも知らずに、ただ女性だけの感情かのように思い込んで適当に慰めたりはしていなかっただろうか。

 

言葉だけの夢とその場しのぎのジョークで笑い飛ばしていた私を彼女はどんな思いでみていただろうか。

 

…。あ。

 

 

★★★

今日、新しい人生をスタートした妻の生き生きとした姿には、

10年前の彼女でも、2児の母でもない、もう一人の彼女がいました。

 

居場所をみつけ、頑張っている姿に嬉しさとほんの少し寂しさを感じる夫です。

“It’s OK for me” 男らしくない自分の受け入れ方

あなたは「男らしい男」?

週末子供の遊び相手をしただけで、えらそうな顔をする男。 

帰りが遅いのは会社のせい。自分は浮気もギャンブルもしない真面目な父親だと言わんばかりの男。

夜遅くまで働くことが育児家事をしない免罪符だと思い込んでいる男。

子供が生まれたら犠牲は必要。ただそれは自分ではない。暗黙のプレッシャーで妻に専業主婦を強要する男。

子供の隣で平気でタバコを吸う男。

力仕事と運転だけがパパの立派な役割だと勘違いしている男。

 

5秒だけでもいいです。

自分はどれぐらい当てはまるんでしょうか。

 

あなたの間違った「男らしさ」によって、

家族は笑顔になっていますか?

それをあなたは幸せだと思っていますか?

 

 “It’s OK for me”

「格好悪くてもいい」

「男らしくなくてもいい」

「繊細で面倒くさいって言われてもいい」

 

「男らしい」という呪縛から自分を解放することで、「男らしくない自分」ではなく、「それでもいいんだ」というありのままの自分の姿に気づき始めます。

 

ネパール写真家のインタビュー「男らしさに対するネガティブな固定観念」の一部分を紹介します。

引用:A new photo series from photographer Jessica Amity shows that masculinity exists on a spectrum

サイト:https://www.huffpost.com/entry/men-reject-toxic-masculinity_l_5c6efc4ce4b0e37a1ed618ee

 

「UNISEX」「TOXIC Masculinity(男らしさの弊害)」・・・

 

男女平等と育児シェアは当たり前。

不要な固定観念で自分を苦しめる必要などない。

 

世界では、フェミニズムの拡大と性別ではない柔軟な役割分担への認識が広がりつつあります。

「私はそれなりに家事を手伝っている夫」とイクメンぶりを訴える前に、一度視野を世界に向けてみるのはいかがでしょうか。

  

Netherlands, Caspar

f:id:olewakbh:20190402084430j:image

“It’s OK for me to be insecure,”
「私は、不安な気持ちでもいい」

私は常に男性として自信にあふれ、支配的でないといけないと思っていた。

決して不安と恥を感じてはいけない。この男らしいというプレッシャーで、自分の不安をどうしたらいいのか分からなかった。

私は自分の弱さを受け入れることで、不安を理解し、コントロールできるようになった。

 

Lucas, France

f:id:olewakbh:20190402125254j:image

“It’s OK for me to be classified as a sensitive guy.”

「私は、繊細な男として分類されてもいい」

男は、繊細な感情を感じるとそれを無意識的に隠そうとする。まるでプライドを守るかのように。隠さずありのままの姿を見せることができることにプライドを感じるべきだと思う。

 

Dan, U.S.A.

f:id:olewakbh:20190402125249j:image

“It’s OK for me to be passive.”

「私は、手動的に行動してもいい」

私は対立を好まないが、対立することになるといつもタフに対処しないといけないというプレッシャーと促しを感じる。

だれか私に喧嘩を売ってきても私が男性だからという理由だけで戦うべきだと思われたくない。

 

Sam, Australia and the U.K.

f:id:olewakbh:20190402134642j:image

"It's OK for me to acknowledge that when we talk about ‘violence against women,’ we are talking about violence that is being perpetrated by men. "

「私は、男らしさの問題点を指摘する男であってもいい」

男中心のシステムを変える。その際に男が負うべき責任について話していい。

女性への暴力を話すとき、それが男によるものであることを認めてもいい。

 

 Bastien, France

 “It’s OK for me to be open-minded toward the relationships of men and women. Men and women can lead their lives on equal terms."

「私は、男女の関係で心を開いてもいい。男と女は、自分たちの人生を同じ条件で送ることができる」

 

あなたにとって

 “It’s OK for me”は?

 

それは、合理化や言い訳ではなく、完璧ではない自分を認めて受け入れることかもしれません。

 

男らしくなくても人生は十分楽しい。

いや、男らしくない人生の方が、より自由でより豊かで価値のあるものに溢れている気がします。

 

 

今日も何とか逃げ場を必死に探す、自己否定に弱い、30半ばのおっさんの話でした。

 

おしまい。

子育ては自分を治癒する最後のチャンスかもしれません。

「自伝的記憶」とは、自己の生活に関わる記憶のことですが、幼児期は幼児期の中で終わるのではありません。幼児期での経験は記憶としていろいろの形で貯蔵され、幼児期から老年期に至るまで長い間に必要に応じて想起され引き出されます。それは、その時の「今の自分」を位置付ける形で新たに再構成されてゆきます。このことは、一生を通して、自分の中で「幼児期」そのものが成長し続けていく過程に他なりません。

–  岡本 夏木  (幼児期 :子どもは世界をどうつかむか) –

 

・・・自分の中で「幼児期」そのものが成長し続けていく過程に他ならない・・・

 

前回記事の最後にも触れましたが、子育てをしていると不思議だなと感じる瞬間があります。

 

lcpam.hatenablog.com

  

上手く説明できませんが、子供の姿に自分の幼児期を重ねることが・・・たまにあります。たとえば、長男のパズルに思いっきり付き合おうとするとき、ふと昔親と遊んでもらえなった自分を重ねたり、子供のイヤイヤ連発に「それなら置いていくからね!」って冷たく言い放すときもそうです。

 

「あ・・・。昔同じこと言われたな・・・」って。

 

でも、記憶というのは面白いことに「否定的な出来事や思い出」は色鮮やかに・・・4Kレベルの鮮明さで残ってしまいます。

それで、親に否定された幼児期の自分が常に無意識の中で存在し、類似体験がある度に悲しい記憶と感情を引き起こしてしまう。それはまるでウイルスから自分を守るくしゃみ(?)のようなもので、ときには自己防衛的(傷つかないように)な役割を果たします。

 

もう二度と同じ感情は味わいたくない!という自分を守るための必死の行動。

 

f:id:olewakbh:20190306160834j:image

 でも、子育てをしていると、時々自分の幼児期にある無意識と同じシーンに遭遇することがあります。そのとき不思議にも記憶は30何年の時間を一瞬で越え、暗い感情と共に当時のシーンが綺麗に頭をよぎります。

 

「あ。そういえば、だめ!一言で相手もしてくれなかったよな・・・」って。

 

「・・・すごい!パパも一緒にやっていい?」

「いいよ!じゃ、これやってね。」

 

幼児期での経験は・・・その時の「今の自分」を位置付ける形で新たに再構成されてゆきます。このことは、一生を通して、自分の中で「幼児期」そのものが成長し続けていく過程に他なりません。

 

パズルを片手にいつの間にか、

自分の中の暗い感情が少し弱っていることに気づきます。

 

何気ない日常に。

やさしい言葉がけに。

救われる(治癒)のはもしかしたら、

自分(30年前の子供)なのかも知れません。

 

幼児期―子どもは世界をどうつかむか (岩波新書 新赤版 949)

幼児期―子どもは世界をどうつかむか (岩波新書 新赤版 949)

 

スティーブ・ジョブズとベニシアの言葉。

f:id:olewakbh:20190304141820j:image

 

何もかもやりたくないとき、誰かに頼りたいとき。

そして変化で、不安で潰されそうなとき。

 

言葉は、いつもよりも特別な意味を持つことがあります。

 

ここに、二人の言葉があります。

 

私は毎朝鏡に向かって、「もし今日が人生最後の日ならば、今日するつもりでいたことをやるだろうか?」と自問してきました。そして「ノー」という答えが何日も続くようならば、何かを変えるべき時が来たと気づくのです。

 

幸せは、その人の目の中にある。

 

彼の有名なスティーブ・ジョブズと、

ハーブ研究家のベニシア・スタンリー・スミスの言葉です。

 

それぞれ置かれた環境も地位も違っていて単に比較することはできませんが、どちらの言葉にも、人生に対する強い信念もしくは捉え方を感じることができます。

 

スティーブ・ジョブズは、私がまさに今見ている画面のように、人生の無駄を無くし、毎日をベストな日にするための日々を。

一方、ベニシア・スタンリー・スミスは、自分の思い次第に幸せになれる日々を語っています。

 

・・・毎日を人生最後の日だと思って生きていれば、いつかその思いが正しいとわかる日がやってくる。

ジョブスが17歳に出会ったこの言葉が、おそらくその根源にあったかもしれません。

 

 世の人は、毎日自分にベストを尽くして完璧を求めアップルとiphoneを作り上げたスティーブ・ジョブズの言葉として認識し素晴らしい、正に人生の名言だと思うかもしれません。仕方ありません。言葉はそういうものですから。彼の死後出版された「スティーブ・ジョブス」という自伝が大ヒットしたことでもその影響力が分かります。

 

余談ですが、最も売れた伝記を著した実績のあるウォルター・アイザックソンジョブズ本人が直接執筆をお願いしたという事実もまさにあの言葉通り。

 

でも、なぜか最近、私はジョブズの言葉に疲れを感じてしまいます。

 

それは若くない(自分の判断)がゆえに感じるやる気の無さによるものなのか、

強い信念を持たずに適当に生きてきた自分が否定されることへの拒否反応なのか、

それとも、ただ単に彼の人生に対する失望感からくるものか分かりませんが、

 

毎日ベストを尽くして素晴らしい製品を作り上げることって恐らく人類にとっては素晴らしいことかもしれません。日本の田舎に住んでいる私さえ毎日iPhone画面を見ていますから、その影響力は凡人の私は想像もできないものでしょう。

 

でも、便利で速くて全てが繋がっている生活によって、

私は不便だけと楽しい、遅いけど確実な、繋がっていないけど信じ合える生活を失いました。

  

一時期、私はこのiPhoneさえあれば全てが解決されると信じていました。

メールとネット検索、そして全ての情報をポケットに収まる小さいデバイスで解決できる。

iPhoneを手に入れてから、私は「知らないものへの不安」「無知な自分をさらけ出すリスク」も、「世間知らずと言われること」もなくなりました。

 

・・・逆に、知らないものは徹底的に探して結論を提案する性格で周りから時々褒めてもらうことも。それによってさらにアップグレード性能を求め、その繰り返しを続ける。

 

「より速く、より新しく、より多機能に」

・・・アップル社のホームページのキャッチコピーのような言葉がそのまま私を代弁していました。

 

素晴らしいデバイスが人生の無駄(時間も)を無くすと信じて10年。さて、

私の「人生の無駄」は、本当になくなったでしょうか。

私の人生はより効率でベストな人生になったのでしょうか。

  

野菜栽培の方法を検索してはその中から育てやすい野菜の苗だけを買うこと。

家事をできるだけ家電に任せて残りの時間にコーヒーを飲むこと。

おもちゃレビューの中からデメリットを考慮し、後悔しないおもちゃを買うこと。

見たことのないものをワン・クリックで次の日に発送してもらうこと。

アレクサに大きな声で「シンカリオンを再生して」って叫ぶこと。

 

・・・私の人生は、本当に良くなったと言えるのでしょうか。

 

土を触って試行錯誤して辿り着いた経験も、子供と一緒に家の掃除をすることも、

子供と一緒に衝動買いで失敗したおもちゃも、ゆっくり何かを待つことも、

そしてテレビではなく子供と会話することは、決して「人生の無駄」ではありませんでした。

 

得るものがあれば、失うものもある。

 

・・・人生の中で必ずと言って良いほど、対面する言葉。

 

得るものがあるからといって必ず失うものがあるとは思っていませんが、私は得ることだけに集中し、その代わりに失う可能性のある「価値のあるアナログ」に気づくことができませんでした。

 

・・・小さいスマホの画面をみることで、子供の素敵な笑顔をみることができないという「もったいないこと」を・・・

無駄な時間の中にある隠れている人生の意味を・・・。

 

 少し長いですが、ジョブズは晩年こんな言葉を残しています。

  

(略)・・・他の人の目には、私の人生は、成功の典型的な縮図に見えるだろう。

しかし、いま思えば仕事をのぞくと、喜びが少ない人生だった。

 

人生の終わりには、お金と富など、私が積み上げてきた人生の単なる事実でしかない。

病気でベッドに寝ていると、人生が走馬灯のように思い出される。

私がずっとプライドを持っていたこと、認められることや富は、迫る死を目の前にして色あせていき、何も意味をなさなくなっている。

 ・・・(略)・・・

 今やっと理解したことがある。

人生において十分にやっていけるだけの富を積み上げた後は、富とは関係のない他のことを追い求めた方が良い。

 もっと大切な何か他のこと。

それは、人間関係や、芸術や、または若い頃からの夢かもしれない。終わりを知らない富の追求は、人を歪ませてしまう。私のようにね。

 

神は、誰もの心の中に、富みによってもたらされた幻想ではなく、愛を感じさせるための「感覚」というものを与えてくださった。私が勝ち得た富は、私が死ぬ時に一緒に持っていけるものではない。

私があの世に持っていける物は、愛情にあふれた(ポジティブな)思い出だけだ。

これこそが本当の豊かさであり、あなたとずっと一緒にいてくれるもの、あなたに力をあたえてくれるもの、あなたの道を照らしてくれるものだ。

愛とは、何千マイルも超えて旅をする。人生には限界はない。行きたいところに行きなさい。望むところまで高峰を登りなさい。全てはあなたの心の中にある、全てはあなたの手の中にある。

・・・(略)・・・

 

死の間際に悟る人生の意味。

自分だけの世界で全てを勝ち取った人生を送ってから、晩年ベッドの上での僅かな時間で悟った人生の意味って・・・。それっぽい言葉すら、私には自己満足の言い訳にしか思えませんでした。

その影で長い時間辛い思いをしてきた家族と仲間と・・・晩年の自分。あの言葉はもし彼が生きていたら、世に出てきたでしょうか。

今も新しい人生の目標を掲げてひたすらそれを求め続けていたかもしれません。

 

・・・そして思う、ベニシアの言葉

 

インドへ行く前、私が求めていた幸せを庭にたとえて話してくれた人がいました。「その庭は外の世界にあるのではなく、あなた自身の内側にある」と。心の声を聞くということを、心の中に庭をつくるという言い方で私に教えてくれました。

生涯を通じてどんないい事や悪い事があったか、また何をやり遂げたかで人生を評価する人が多いけれど、

わたしは日々の生活がどれだけ満たされ幸せであったかで、人生を評価したいと思います。

Venetia Stanley-Smith(ベニシア・スタンリー・スミス) -

 

人生の答えは、有名な人の名言ではなく、

あなた自身の内側にあるかもしれません。

 

f:id:olewakbh:20190304141851j:image

 

赦せないお父さん。

f:id:olewakbh:20190214181941j:image 

 

「あなたらしい考え方だね〜。すごい!」
「何をやっているの?おもしろそうだね。」
「それを聞いてお父さんも嬉しいよ。」
「できるようになったんだ。すごい。パパにも教えて」

 

…思わず涙が出ました。

 

あの本には...
私が昔から聞きたかった...言葉が、

全て書いてありました。

 

いつも背中を見つめ我慢していた、

諦めていた言葉と愛情。

 

「僕はすごいんだ。何でもできるんだ。
だから大丈夫!」

いつの間にか自分に言い聞かせていた言葉。

 

本当は...

もっと...
声をかけてもらいたかったんだな

もっと今の私をみてほしかったんな。

 

大きくて巨大な世の中に、

太刀打ちできない圧倒的な父親の影に、

いつも一歩下がっては諦める毎日。

 

「お父さんって大変だ。大人は忙しいんだ」

 

そう。大人は世界を全て背負っているように思えました。だから、仕方ないんだと。

 

それから絶対父親のような人間にはなるまいと決める中学生の幼い目には、明るい未来より過去への、そして親への怒りがいつも漂っていました。

 

怒りは自分も知らないコンプレックスとなり、それはやがって自分そのものになっていました。

 

もしもう一度その時に戻れるなら、

私は幼い自分に何というんだろう。

 

「…赦してくれない?」

 

「どうして!?悪いのはあの人なのに...!」

 

「... 赦すのは、彼じゃなくて私」

「怒りで悲しい目をしている自分を赦してくれる?」

 

「... ...」

 

いつもの夕方7時。

 

「ただいま。」


「すごい!パズル一人でできたんだ!」
「パパにも教えて!」

 

パパでありながら、子供である、

「子育て」って不思議な経験です。

家電好き親父のジレンマ・・・とつぶやき。

家電好き親父のジレンマ・・・とつぶやき。

f:id:olewakbh:20190213163405j:image

 

私はよく「家電好き」って言われます。

私を知っているまわりの人は、家電購入の際に私に意見を聞くことも多く、購入後も操作方法などで質問を受けたりします。

 

確かに私は新しいガジェットに関する情報をチェックするのが好きで、革新的な機能があるものに遭遇してしまうと、「その機能を勝手に自分の生活に適用させては妄想を増やし、やっぱりこれは必要だ」という結論を間接的に自己誘発させる側面が強い人間です。

 

ですので、常に一緒に生活するしかない妻は、ある意味、その最大の「被害者」でもあり、「恩恵者」でもあるのです。

 

たとえば、アマゾンエコーという「AIスピーカー(+リモコンコントローラー)」

 

「家族に子供にもっと音楽を・・・」というミッション(自分が課した)からスタートしたアクションは…その後生活全般に大きな影響を与えています。

 

普通の人にとって、音声でエアコンをオン・オフしたり、天気予報や日程を機械音で聞くというのはあまり意味のないことかもしれません。そういうのって今の時代、リモコンで操作したり、スマホを見ればいいのです。もっと原始的なやり方では、雑誌でもずっとテレビをつけておけば分かる内容がほとんどです。

 

「FIRE TV STICK 4K」というデバイスも同じです。

プライム会員無料動画を音声検索しなくても安価でテレビで見る手段はいくらでもあります。

 

少しゆとりのある生活なら、じっくりソファに座ってみたい番組をリモコンで選べば良いという話です。

 

周りからは「ハイテク」「最先端家電」「IOT化」などいろいろ言われることが多いですが、その根本には、「不便さ=時間の無駄=人生の無駄」と「自分勝手な趣味と一方的な解決(何でも機械を使いたがる)方法」という潜在意識が大きく関わっています。

f:id:olewakbh:20190213164347j:image

そんな私にとって、家電を使った日常の自動化・時短化は、

究極的には「人生の無駄」を無くし、それにより得られた時間を「より価値の高いことに使うこと」を意味します。

 

たとえば、まだ完成してはないですが、「AWAIR」という空気質モニターをIFTTTと連動して室内の二酸化炭素が高くなったら、換気システムを強に変更し、濃度を下げては戻す。この一連の作業が私を一切介さず、センサーとソフトによって確実により正確に行われる。また、気になる明日の天気情報は、スマホをみなくても帰宅後アマゾンエコーでアレクサが元気な声で教えてくれる。これならスマホを見なくても済むし、その時間に子供の面倒を見ることもできます。

食事や家事中、子供が叫んだらアレクサに好きな動画をプライムで再生するように口頭で命令すれば、 食器洗いで泡だらけの手を急いで拭いてテレビリモコンまで走る必要もありませんし、それによりバタバタしてイラっとする必要も場面も少なくなります。という効率と無駄がなくなるという理論です。

 

そんな私ですが、

最近「人生の目標は効率だけではない」という言葉に感じるところも多くなりました。

 

「より価値の高いことに使うこと」を目指しているはずなのに、そのあまった時間に「それらのデバイスを管理したり、より魅力的で新しいデバイスの検索に時間を費やしている」のです。

そろそろ、「スティーブ・ジョブス」が妄想で作り上げた「狭いデバイスの世界」から抜け出さないといけないかもしれません。

 

彼の死後、世界が変わってスマホ時間を気にするようになったのはある意味人類にとって良い方向かもしれません。

f:id:olewakbh:20190213164441j:image

そして何より、つい最近患った「神経性難聴」という病気。

片方の耳鳴りがずっと止まらず、子供の高周波数の叫びに苦労(鼓膜がちぎれそうな感じ)しながら、3週間もの薬生活をおくりました。

 

医師からは「ストレスを溜めないように・・・」と言われたものの、

結局その最大の犯人が自分であることは言われなくても分かっていました。

 

・・・「人生の無駄」・・・

 

病気のおかげなのか。38歳という年のせいなのか。

「人生にはある程度の無駄は必要かもしれません」・・・

 

無駄は無駄と感じる瞬間、無駄になる気がする・・・そんなことでまたストレスが増えていく2児の親父です。

 

おしまい。

子育て世代の悲鳴。助けて!いや。分かってくれるだけでいいという切実な現状。

子育て世代の悲鳴。

助けて!いや。分かってくれるだけでいいという切実な現状。

 

「働く女性の数は年々増加しており、 平成 29 年の女性雇用者数1は 2,590 万人に達している。 また、 同年の雇用者総数に占める女性の割合も 44.5%と過去最高の数値となっている。子どもを育てながら働く女性も増えてきているが、一方で、仕事と育児の両立に悩む女性も多くいる。第一子出生前後の妻の就業変化状況を見ると、約5割の女性が出産・育児を機に退職をしており、その約4分の1の女性が退職理由として「仕事を続けたかったが、仕事と育児の両立の難しさでやめた。 」と回答している」

*引用 仕事と育児の両立支援に係る総合的研究会報告書(2018.3)より*

 

昨今の日本の育児システムは、子育て世代において「厳しい」という言葉では表現しきれないほどの大変さがある。特に、共働きで収入が決まっていて + 各両親からの援助が受けられない世代の苦労は、常に一般人の常識範囲を超えている。

たとえば、時短勤務(保育園送迎のための仕方ない選択)で急いで延長時間ぎりぎり(周りは殆ど残業中)に迎えにいく。末っ子は布オムツにウンチをしながら泣き崩れ、長男は不機嫌で保育園いやいやを叫ぶ。不機嫌な二人を車に半強制的に乗せてその泣き声を聞きながら時々お菓子の要求に対応しながら何とか帰宅する。帰宅後、自動反射的に「お腹すいた!ご飯!」って叫ぶ子供に理性を失わない程度で返事しながら、急いで夕ご飯の用意に取り掛かる。もちろん夕ご飯の献立は、前日までには考えておく必要があり、足りない食材はお迎えの前に買い物をしておくのは当たり前だ。

 

それからパパの帰宅。いやいや!MAXの二人を相手しながら保育園の洗濯物を確認し部分洗濯(オムツの選別及び手洗い)後に洗濯機に投げ込み電源をON。同時に家の片付けと夕食のテーブルセッティングに取り掛かる。食事を取る能力が明らかに欠けている2歳と4歳の食事補助をしながら自分の食事を済ませる(何を食べたか思い出せない)。コップの水をこぼし、納豆や魚などをテーブルに投げるのはもちろんで、時にはハイチェアから落ちて大泣きする。まぁ、座ってくれるだけでマシな場合も多い。

このような状況で、「子供の声にセンシティブに反応し、目を合わせて丁寧にコミュニケーションを取る」というNHK的な子育て指針がどれだけ現実離れしているかが分かるはずだ。

 

 共働きの帰宅後2時間は、

まさに戦場そのもの。

ざっくり帰宅後やることを並べると、

  • 夕食の準備
  • 皿洗い
  • 子供二人のお風呂
  • 歯磨き(1日1回のみ:保育園ではやっていません:親の選択肢なし)
  • 洗濯の室内干しセット
  • 明日の保育園準備

・・・つまり帰宅後約2時間(子供が寝るまでの時間)で全てクリアしないといけない。

 

もちろんその中には、親のお風呂やお茶タイムなどは入っていない。

「何をそこまで・・・少し気持ちに余裕を持った方がいいんじゃない。そのほうがいらいらも減るし、物事もスムーズにできる。バタバタ・大変なのは結局親の態度によるものだ」という人もいるだろうけど、上記項目をクリアしないままお茶なんか飲めないし、毎日食事を抜きにし、お風呂を子供の意思を尊重しては3日連続風呂無しもざらだ。家事代行は1時間当たり2,000円相場。きついときは親にお願いしたくても19時以降ならその選択肢もないし、来てもらっても即戦力どころか逆に気を使うことになる。

 

何とか上記項目を無事にクリアし、子供をベッドまで連れて行くと親は二人とも体力限界に達する。上手く寝付かない末っ子は最後までイライラが続き、それを体全体で親にぶつけてくる。10曲以上の子守唄を歌ってやっと疲れ果てて就寝。親の方が先にレム睡眠に入ってしまうのだ。もちろん寝ている間に家事は何も進んでいないのは言うまでもない。

 

じゃ、親はいつ休めるのか。

休む時間は贅沢なのか。

親にもっとゆとりある生活を!

 「夜中途中で目を覚まし、残っている家事を終わらせると休む時間はできる」が、それはあくまで理論的な話だ。

家事は不思議にも次から次へと出てくるもので、上記項目は子供に関連する必要最低限の家事に過ぎない。在庫切れの日用品や宅配食材の注文、必要な家電についての話や子供の普段の生活に関するもしくは行事に関するスケジュール調整・・・友達との週末遊び場のリサーチと各種買い物のスケジュール(できる限りAMAZON注文を優先)など、限られている時間の中で親がやっておかないといけないことは山積みだ。

 

働き方改革実行計画」(平成 29 年3月 28 日 働き方改革実現会議決定) において、「女性の就業が進む中で、依然として育児・介護の負担が女性に偏っている現状や男性が希望しても実際には育児休業の取得等が進まない実態を踏まえ、 男性の育児参加を徹底的に促進するためあらゆる政策を動員する。このため、育児休業の取得時期・期間や取得しづらい職場の雰囲気の改善など、ニーズを踏まえた育児休業制度の在り方について、総合的な見直しの検討に着手し、実行していく。」とされている。
これを踏まえ、育児休業制度の在り方をはじめ、ニーズを踏まえた両立支援策について総合的な見直しのため、検討を行うこととする。

*引用 仕事と育児の両立支援に係る総合的研究会報告書(2018.3)より*

 

働き方改革実行計画」・・・まるで殺人事件の解決のために臨時設置された捜査班の看板を思い浮かぶのは気のせいだろうか。

 

首相がうちに来て家事を代わりにやった後、その大変さを体験した上で、私の上司に直接その大変さを説明して育児に関する協力をお願いするならば、変わる可能性はほんの少しあるかもしれないが、これじゃただの卓上空論に過ぎない。

 

「促進」「改善」「在り方」「検討」・・・この言葉を書いた人のうち、定時に家に帰ってちゃんと家事と育児をする人はどれぐらいいるんだろう。あり方を検討し制度を改善して行動を促進するって何十年前からずっとテレビで言っている言葉ではないか。何が変わったのか。そこに育児という言葉が追加されただけに過ぎない。

 

なお、国の実際の指針をそのまま引用してみた。

f:id:olewakbh:20190208172835p:plain

働き方改革実行計画

*引用:https://www.kantei.go.jp/jp/headline/pdf/20170328/05.pdf#search=%27%E5%83%8D%E3%81%8D%E6%96%B9%E6%94%B9%E9%9D%A9%E5%AE%9F%E8%A1%8C%E8%A8%88%E7%94%BB%27

 

男性の育休取得?以外実際に役に立つ内容はないに乏しい。会社に蔓延する帰りづらい雰囲気をどうやって国が改善できるのか。

「総合的な見直しの検討」って結局「考えてみる」のと何が違うのか。男性の育児休暇取得=子育てしやすい環境という証拠だと思っているのか。

保育士の月5千円と7年以上で7万円加算はどれぐらい現実的なのか・・・

一般人の私の頭では何が改善されるのかさっぱり分からない。

 

たとえば、以下の項目が書いていれば、話は違う。

  • 料理時短の家電「ホットクック」を子育て家庭に無料提供
  • ルンバなど時短家電購入の際に使えるクーポンの発給
  • 月4時間家事代行サービス無料利用
  • 月1日平日に親に休暇取得を義務化
  • 育児休暇や定時帰宅による人事被害を第3機関が監視
  • 37.5℃発熱で保育園コールをかかり付けの病院と連携(現状選択肢なし)
  • 保育園業務を自動化(保育日記の手書きや各種イベントの簡素化)

 

二人だけでなんとかやりくりするために投資した家電を合わせると30万を軽く超える。

  • ルンバ:6万
  • ブラーバー:3.5万
  • 食洗機:20万
  • ホットクック:4.3万
  • コードレス掃除機:1.5万
  • アマゾンエコーとグーグルホーム:1.6万
  • 家電リモコン:0.6万

これがあるからこそ、ぎりぎり精神的にも体力的にも耐えれている部分が大きいが、この出費は子育てにより収入が減少するしかない今の日本で暮らす普通の子育て世代には負担の大きい金額だ。

 

「子は宝」:確かにそうだが、宝の管理にもやっぱりお金は必要である。

 

国が本気で子育て支援を考えているなら、まず委員会を現役の子育て世代から抜擢しないといけないと思う。

 

そもそも選ばれても保育園迎えと子供の熱で参加できない現実が変わらない限り無理だろうけど。

 

「転職は慎重に」…

そう。「子作りは慎重に」...

 

大げさだというかもしれないが、

下手すると子供を引き換えに自分の人生(時間)を失うかもしれない。

 

嘘だと思うなら、なってみれば分かる。

(どっかで聞いたフレーズばかり...)

共働きの「パパ」はこんなことをやっています!

こんにちは。

今回はなんとなく子育て家族のパパとしての話を・・・

f:id:olewakbh:20181212180930j:image

共働き・シングルパパ・2世帯など家庭環境はみんなそれぞれで、どれが正解というのは絶対ないと思います。

もしあるとしたら、共通する苦労やストレスと精神的消耗・・・に対する認識と危機感かと。そこに人との比較が入ってしまうと家族愛が壊れていく気がします。

 

日本での子育ての大変さ

日本は先進国といわれているものの、それはあくまで経済とものづくり世界の話。

残業当たり前・休みじゃない休み・子育て家族への無関心・無配慮・男性中心の職場などなど。ツッコミ始めるとキリがありません。普通の家族を持って普通の生活を送ることがだんだん難しくなった気がします。

保育園対応のための時短勤務が昇進に影響を及ぼし、キャリアを断絶させる。定時退社を犯罪扱いするようなシステムで親は心身ともにクタクタに。

 

子育ては禁断の扉

話が少しそれましたが、パパとしての生活は独身や二人だけの世界とはまるで違う世界の扉を開いてしまったって感じです。しかも、その扉は一度開いてしまうと元には戻れない禁断の扉ということを、開く前の自分は決して知る術も何も持っていませんでした。

その時になって、映画のワンシーンみたいに走馬灯のように駆け巡るのです。自分の周りにいた親たちの大変さが(電車の中で、レストランの中で、イヤフォン越しの耳障りとバタバタ...)

 

まぁ、それを知ってたら扉は開けないでしょうね。素手でオムツ処理をしながら気づくのです。知らないから開けてしまうかなと。

 

そろそろ本題に・・・w

f:id:olewakbh:20181212181210j:image

今回家族の中のパパという役割を並べてみました。少し長いですが、自分の家と比べて頂ければ嬉しいです!

 

  • 掃除・洗濯・食器洗い(ルンバ・ブラーバ・食洗機など機械に頼りまくっています)
  • お金の管理(家計簿は無理。月間・年間プランで収入支払いを管理+投資や各種ポイントなども管理)
  • 子供ケア(遊び相手・お風呂(その後の着せ替えも含めて)・寝かしつけ・歯磨き・着せ替えなどその他いろいろ)
  • 生活必須品の注文到着(再配達手続・問い合わせ・クレームなど)までの管理)+備品管理
  • 家電製品の管理+生活に便利な家電の調査説明購入+管理全て
  • 各種手配(書類申請・確定申告(2名分)・スマホや料金制度の合理化かチェック変更など)
  • Kindleや普段使うスマホなどの充電(妻のスマホは次の朝100%になるようにしています)及びデータ管理・アップデート・役に立つ情報チェック提案(妻)・ダウンロード(すぐ閲覧できるよう)
  • 家族の写真撮影・現象(キタムラなどを利用)・アルバム作り・データ管理(hdd管理)・カメラ管理
  • 保育園の準備・仕事(アイロン)の準備
  • お風呂の掃除・換気システムや洗濯機の掃除
  • ゴミ収集及び処理(宅配ダンボール・不用品の処理手配など)
  • ネットや無線関連手続き及び手配やクレーム対応全て
  • その他家やものに関わる問題解決など

 

長い文章失礼しました。生活感ばればれですね。ざっくりですが、大体こんな感じで日々やっています。目立つものがあまりありませんw

 

家電が好きということもあり、どうしてもそっち係のことが多いです・・・

こうしてみると、やりたいことばかりやっているかなとも。

f:id:olewakbh:20181212181353j:image

 

コスパ最強。子育て必須品!」

「時短・共働きに必要な家電・グッズベスト」

「家計・無駄使いを防ぐ・副業かせぎ」など。

 

満員電車でもトイレでもどこでも。

時間があるたびに情報収集と各種手配に精一杯。家に帰っては子供の面倒と掃除や仕事保育園の準備などの家事三昧。

共働きであることは、妻も同じであって常にお互いの状況を把握し助け合っていますが、毎日必ずって言ってもいいほどパニックは訪れますw

 

今まで自分の中では生活コントロールには自信を持っていましたが、下の子が1歳をこえた時期からこのバランスは激しく崩れましたw

 

今日はこれ以上書いたら、ただの不満話になりそうでこのへんで終わらせたいと思います。

 

・・・次回はそんな中で何とか私の支えとなっている家電について書いてみたいと思いますw

 

最後までありがとうございました^^

(続編) 無印良品の家 窓の家 2年と9ヶ月後、実際のレビュー

 無印良品の家の話が全然少ない!騙された!

 

こんにちは。

その間いろいろ(主に育児と、育児による病気)ありまして久しぶりの更新になりました。強力な抗生剤のおかげで気力を取り戻しておりますので、これからも宜しくお願い致します。

 

皆様からの鋭いご指摘を頂き、今回はちょっと真面目に家のレビューを書いてみました。これから無印良品の家をご検討中の方、ちょっと気になるけど実際どこがどう違うの?高いだけじゃないの?ってナナメ目線の方にも、少しでも参考にしてもらえば嬉しいです。

 

まず、前回の記事はこちらです。ご参考までに。 

内容は薄いですが、lcpam.hatenablog.com

 

2016年春完成ですので、窓の家での生活は正確には2年9ヶ月目になります。

中身の乏しい(?)前回を反省し!今回は住んでみて分かった無印良品の家について本気で書いてみました!(抗生剤が効いている間に!)

 「家を買う」ということ

「家を買う」ということは、

「マートでものを選んでレジを通す」

「土地を買ってそこに家を建てる」というような簡単な話ではありませんでした。

そこには、一つしかない土地とハウスメーカーの特徴を全て考慮しないといけないという…とてつもなく膨大な選択の連続が待っていました。

 

大事なのは家に対する家族のこだわり

家族と暮らしの変化により、多くの方が子供を思いっきり遊ばせたい、周りの目を気にしたくないという強いアプローチもしくはモチベーションから家探しを始めます。

私たちも同じでした。

 

「高い家賃払っているのに、子供の遊びにも苦情が気になる」

「収納も家事同線も古く、頑張って改善しても限界を感じる」

「熱すぎ・寒すぎ…毎日の洗濯(オムツなど)でカビだらけ…」

 

ものが多いせいか、それとも暮らしが下手なのか。本当にいろいろ悩みました。

本当に必要なものまで捨てたり、収納を統一させたり、植物をおいてみたりと。

でも、どうしてもぶつかってしまう同線と、すぐカビだらけになるカーテン。

窓を開けるとすぐさま家の中がすごい湿度(帰宅時15%→洗濯後99%;)に!

 

子供が生まれ、育児の苦難が益々現実化するにつれ・・・

もう限界かもという瞬間が私にもついにやってきました。

 

もういやだ!! わが家を建てるぞ!

意気投合した二人の目の前に、ど~んとお金と価値観の選択が迫ります。

それで私たちは、限られた資金と時間をフル活動するためには、揺れない判断力と価値観の話し合いが重要だと感じました。はやり仲良く(これが意外と難しいですが;)二人でよく話し合い「我が家はこうしたい」という内容を確認するのが大切です。その揺れない判断基準さえあれば、家探しはかなり楽になるかもしれません。

(というか、無印良品の家ではなく、家探しのアドバイス?)

 

私たちは・・・以下5つという結論になりました。

柱のない開放感あふれる吹き抜けで暮らしたい。

お洒落で大きな窓で室内と玄関を明るくしたい。

家どこでも家族が会話ができるようにしたい。

家族の年齢に合わせて間仕切りを変えたい。

全てのデザインをシンプルなデザインにしたい。

 

しかし、 私達にはシンプルなお願いでしたが、これを解決してくれるメーカーはかなり限られていました。

 

お洒落で大きな窓で室内と玄関を明るくしたい。

家どこでも家族が会話ができるようにしたい。

 結論

⇒(窓)デザイン性と性能両方を併せ持つlixil製窓。

⇒(会話)吹き抜けと一室空間

 

極力柱を無くし、開放感あふれる吹き抜けで暮らしたい。

家族の年齢に合わせて間仕切りを変えたい。

結論⇒SE工法

そして、

全てのデザインを飽きのこないシンプルなデザインにしたい。

結論⇒無印良品の家

 

幸い、私が求めるものの殆どが無印良品の家の中にありました。

というか付き合ってくれるのは無印良品の家しかないような…。

細かい内容よりも無印良品の家(窓の家)デザインの一面を実際の写真で添付してみました。 

幅木(壁と床のつなぎ目)の形

f:id:olewakbh:20181122163006j:plain

  クロスの張り方(壁天井一枚型:天井幅木なし)

f:id:olewakbh:20181122163140j:plain

基本照明や床材・ドアノブの選定デザイン

f:id:olewakbh:20181122163245j:plain

f:id:olewakbh:20181122165809j:plain

(施工例からのイメージです。近いうちに綺麗に取り直します;;)

 

そして、何よりも

窓のデザイン

f:id:olewakbh:20181122163333j:plain

 f:id:olewakbh:20181122163639j:plain

景色を切り取る。眺めの邪魔をしない。そのために、一般的に良く使う引違い窓をできるだけ排除しました。開ける必要のないところは景色を切り取るfix窓を採用。

 

無印良品の家のデザイン

いざ完成してみると、白を基調とするシンプルなデザインは私達のイメージをはるかに超える統一性、いや恐ろしいほどのまとまり感がありました。

そこでやっと「なるほど、無印良品はこういう家を作りたかったんだ」と頷くのです。

 

もし工務店にお願いし、無印良品のデザイン基準で家を建てたらどうでしょう。

恐らく割り高になるうえに、完成度はかなり落ちるのではないでしょうか。

 

無駄に主張することなく、全てが静かにバランスを取っている

それがこの窓の家を建てて2年9ヶ月で感じた感想です。

 

・・・

最後に

一見無印良品の家って価格も安くなく、過剰にシンプルさと完成度にこだわってるように見えます。正直、決して万人受けするような家ではありません。

住み主の価値観とメーカーの価値観が合ってこそ、その満足感が得られる。

勿論入居後、細かい同線やコンセントの位置など、こうすればよかったかなというところは存在します。しかし、無印良品の家ではない他のメーカーにすればよかったなと感じることは今もこれからもないような気がします。

・・・その安心感こそが、これから私達の「家に対する愛着」に繋がるだろうなと思うようになったのも、もしかしたらこの2年と9ヶ月という時間のおかげかも知れません。

 

最後までお読み頂きまして有難うございました。 

 

では、次回もお楽しみに。