韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について日常から気づくことを書き残しています。思考の軸は、インドの哲人クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)。5年目ブロガー。21年冬Amazonペーパーバック出版。これからもぼちぼち続けていきたいと思います。コメントや批評全てご自由に。

「おっさん」と「宇宙の真理」

事実の前にちいさな子どものようにしゃがみこみ、今まで学んできたあらゆる概念を全て捨て去ってもいいという気持ちになることだ。

どこであろうと、どんな深淵であろうと、自然に導かれるままにあとをついていく。

さもなければ、何も学ぶことはできないだろう。

<T・H・ハクスリー>

 

:無駄な前書き

先ず、この余りにも怪しいタイトルをクリックして下さった方に、その熱情若しくは判断ミスに、心からお礼を申しあげたい。

 

タイトルを書いた瞬間から、この話も、恐らく…いや、きっと「シリーズもの」になるだろうなと不安がよぎったが、一先ずいつものように一歩一歩...適当に踏み出してみようと思う。(笑

 

ちなみに、私は物理学専攻者でも宇宙に関する凝った知識も持っていないし、もちろんそれらを超える神秘的な何かは一度も経験していない。(当たり前だがw

そして、これからいかなる怪しい団体、怪しい宗教の勧誘をするつもりは全くないので、ご安心ください(余計に怪しいw)

 

… 大体このあたりで、画面の真下に向けて光のようなスピードでスクロールされ、ページが変わるはずだがw

 

…ここ最近、無駄な前書きがどんどん長くなっているので、今回はこれぐらいで…。(笑

 

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*一応、蟻が映っています。

 

宇宙の真理とは。

 突然だが、一つ想像をしてみよう。

今、貴方の目の前に「蟻(あり)の群れがいる」。

その群れは新しい建築物(マンションや高層ビルなど何でも)を住処にしながら、仲間と協力し本能に従って暮らしている。

 

そう。その蟻にとって建築物は、人間の地球(さらには宇宙)のようなもので、無くてはならないものである。水や食べ物そして住居全てがその中にあり、生まれて死ぬまで、そして前の世代から次の世代へとその生を永遠に続けさせてくれる絶対的な存在である。

 

例えば、蟻に人間のような思考能力があるとしよう。

では、蟻は「建築物が建てられた理由」について理解することができるだろうか。

...。

 

言い換えれば、蟻は自分より高次(測定不可能な領域にあるもの)のものを理解することができるだろうか。「できない」「できる」などと、答えをすぐ口に出さないでじっくり考えてみてほしい。

 

この問いを調べるために、蟻は建築物の中を隈なくを歩き回り、コンクリートの色や壁の凹み、排水溝や木のドア等々を確認するかもしれない。また、特定の部屋が特定の目的だけで使われていることに気付いたり、効率よく食料が確保できる場所や防虫剤のない安全な空間を見つけ出すかもしれない。 

しかし、こういった表面的で断片的な観察が、はたして「建築物が建てられた理由」の究明にどれほど有効であるだろうか。そして、それらから集められた情報によって考えられた一定の公式が、その答えを見つけるヒントになり得るだろうか…。

 

そう。蟻と同じく、人間の持つ認識という次元に限られている私たち人類が、果たして無限の宇宙とその真理について正しく理解することができるだろうか。

 

仮に一部分であるが「それ」を理解したとしよう。しかし、それがいかに画期的で素晴らしい発見だとしても、その理解はしょせん思考の範囲内で留まるのではないか。

 ...。

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人類と科学の進歩

言うまでもなく現在の人類は、眩しい科学発展を遂げてきた。目に見えない電波は膨大なデータを秒速で運んでいて、我々は日常において常に場所や時間を越えた文明の利器による特典を受けている。そして、それと同時に科学は「宇宙の真理」の究明にも絶えずに挑戦し続けてきた。

 

ガリレオの地動説からニュートンの万有引力、そして相対性理論と量子力学に至るまで、科学はまるで科学技術さえあれば「宇宙の真理」に近づくことが出来るかのように…様々な理論を作り出し、細分化し、また数字によって公式化させ、さらにそれを深く掘り下げてきたと言える。

 

そう。科学はその「科学」という特有の振動をもって、常に人類の「絶対的な基準」として振る舞い、その権威をもって観察しては証拠を集めてそれに適合する理論を作り出す。そしてまたその結果を観察し、それを時代によって変動する科学基準をもって評価し、さらにそれを検証していくという「終わりのない過程を繰り返している

 

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*ちなみに、日本です。

 

では、真理は科学だけの世界で、

このおっさんの人生とは無縁のものだろうか。

特定の国で生まれ、ゆえに特定の教育を受け、親とあらゆる環境に条件づけられながら成長してきた、ごく一般人としてのおっさんが、自然と子どもが好きで数学が苦手な...毎日一定時間になると電車でオフィスに運ばれて、パソコンと電話に向かって怒っている普通のおっさんが「宇宙の真理」について知ることは可能なのか。

 

このおっさんは、いかにして「宇宙の真理」を知ることができるだろうか。

それは、科学者が何十年いや、それ以上の時間をかけて検証し理論を公式化した発見とそのエキスを、満員電車の中で小さいスマホ画面をとおして「読む」ことによって?

 

「宇宙はビックバンから生まれた」

「果てしなく膨張を続けている」

「意識のフォログラフィである」

「無と有の同時進行でありながら、どちらでもない状態だ」

「時間は存在せず、観察のみが存在する世界である」等々 

我々はいつまでこのような断片的な観察と理論を追いかけないといけないだろうか。

 

蟻に話を戻そう。建築物の中にある部屋やどこかの金具について調べること。果たしてそれが「建築主」の設計意図を把握するのにどれほど有効であるだろう。

故アインシュタイン・故ホーキング博士・ロジャー・ペンローズ…「宇宙の真理」への究明は、どうしてこれほどごく限られた科学者に依存しているだろうか。人類は、一体いつから「宇宙の真理」を科学者だけの仕事に任してきたのだろうか。

 

そこで、科学者は「科学は、宇宙・あらゆる全てを数字で解明できることだ」と言う。しかし、次元の限界を超えることのできない人間の思考と、それによって発明された数字と言語が、果たして「宇宙の真理」を解明し、またそれを我々に「ありのまま」表す手段になり得るだろうか。

 

私は、有名科学者・いかなる科学知識に頼らずに「宇宙の真理」を見出すことができるだろうか。

 

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人を理解することの難しさ。

Aという人がいる。一週間前の彼女は体調が悪かったのか、一日中険しい表情をしていた。しかし、昨日は元気でいつもよりも活発に動いていて明るい態度を見せたが、今日は機嫌が悪く、時々うつ伏せになったりしている。

もし誰かが彼女を理解しようとするとき、断片的な反応や結果だけを観察し、その原因になり得ることを並べて公式化することが、果たして彼女について理解したと言えるのだろうか。数え切れない観察と結果によって彼女の過去や未来を予想することが、はたして彼女を理解するのに役に立つだろうか。

 

ある対象を理解すること。それは、理論や公式などいかなる偏見も持たずに、常に変化する対象を「ありのまま」見つめることではないだろうか。

 

理論は観測結果から推測される主観的な規則性そしてその理論による未来の予想には役に立つかもしれない。が、「ありのまま」は過去や予想としてのものとは異質のもののように思われる。

 

なお、公式や数字…数多くのデータが今と明日を正確に捉えることができるだろうか。それは、統計や観測結果による単なる推測に過ぎず、それゆえその推測はいつまでも過去の知識に基づいているだけであり、今目の前で絶えず変化し続ける宇宙・貴方・建築物などあらゆるものへの理解を可能にするだろうか。

 

つまり、「ある」は「知る」ことではなく、「ある」への気づきや知覚(自覚)は、決して「知る」「分かる」「理解する」ことで得られるものではない。

 ...。(大変だ。スケールが、、、

 

親にとって写真とは。

どうして子どもは、

生き生きとした生命力に満ちているのか。

 

昆虫を観察したり、夢中になって歌ったり踊ったり、ひたすら謎の文字を書いたり...毎瞬間その輝く瞳であらゆるものを見つめ、そこから必ず楽しみやワクワクを見つけ出す。子どもは「今を生きている」がゆえに、生き生きとした生命力に満ちています。

 

それに比べて、私たちはどうでしょう。

進学・良い大学・正社員・競争や比較により形作られた教育、またこの社会が生み出したあらゆる偏見と条件づけ、そして人を適応者・不適応者など絶え間なく分離する価値観の押し付け。それらによって私たち大人は、いつの間にか「輝く生命力」を失ってきた気がします。

その生命力は、昨日友達とした喧嘩・親のしつけ・正しい生活習慣という押し付け…あらゆる「過去への執着」から自由になること、年金や口座の残高・明日の仕事・人間関係における葛藤・健康への心配などあらゆる「未来への不安」から自由になることで初めて現れるのではないでしょうか。

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「あるがまま」は「自由そのもの」

過去でも、未来でもない。まさに「今を生きる」ことで得られる「自由」。なお、「今」のあらゆるものに気づくその敏感な「感受性」

それこそ私たち大人・親が失ってきた「あるがまま」の姿であり、大切な「自由そのもの」でもあるのではないでしょうか。

 

そして、それを見ている「私」「親としての私」が、その「あるがまま」を残したいと願うのはある意味ごく自然なことかもしれません。

 

「データとして残したい」

「アルバムにしてゆっくり楽しみたい」

「思い出を残す有るまじき親でありたい」

…と願う気持ち。

 

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それは子どもの姿に愛情を感じる親なら、ごく自然に感じることなのかもしれません。

 

しかしながら、はたして「この瞬間でしか存在しない」その輝きと感受性をカメラで捉えることができるのか。刻々常に変化し続ける「今」を、写真で残すことができるのか。恐らく、その答えは、永遠に「ノー」ではないでしょうか。

 

シャッターが切られ、データとして記録された瞬間。その中にあるのは「あるがまま」の「今」ではなく、0と1のデータや細かい画像ピクセルによって再現された「過去」としての記録だけではないでしょうか。

 

そう。それ自体が既に過去であることに気づくこと。「言葉はそれを表すそのものではない」ように、写真もまた「今を生きる子どもそのもの」ではないことに気づくこと。

当たり前だと分かっていることですが、その意味について本当に理解し、気付くことは思ったよりもはるかに難しいように感じます。

 

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「写真を撮るか」OR

「あるがままを見つめるか」

カメラを取り出し、ファインダー越しに目を向ける瞬間。私は何を見ているのでしょうか。

 

「あるがままの子ども」を見ているでしょうか。それとも「おしゃれな構図」「きれいな写真」「感動の瞬間」のための被写体として子どもを見ているでしょうか。

 

そう。構図やおしゃれ、綺麗さもしくはその後のことを気にする「私」は、果たして子どもの「あるがまま」の姿を見ることができるでしょうか。

 

「あるがままを見ること」と「あるがままを残すこと」。前者は常に「今」であり、後者は「過去」であるがゆえに、決して二つは同時に存在できません。

 

…では、「私」はどちらを優先すべきでしょうか。

 

最新機種・高度なテクニック・色鮮やかなフィルターや後処理技術。勿論カメラにある程度の性能は必要です。常に動き回る子どもを正確に撮ることはなかなか難しく、撮りたい瞬間を的確にレンズに収めることは至難の業です。だから、オートフォーカス機能・速いシャッター速度は頼りになる技術です。

 

しかし、それらを超えるもの、過度なボケやフィルター機能、プロ写真家やマニアの言う構図ノウハウ・あらゆるスキルが重要視されるとき。

カメラは「あるがまま」を「あるべきもの」へと「分離」する手段になってしまうのではないでしょうか。

 

「あるがまま」の子どもに、ありきったポーズや人為的な演出を強制するとき。インスタやSNS投稿を意識した構図を撮るためにカメラを向けるとき。子どもの声がけにも、まるでその場にいない第三者としてシャッターを切るとき。

…そこに「あるがまま」はあるのでしょうか?

そこにある「あるがまま」を、私は見ることができるでしょうか。

 

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… 親にとって写真とは何か。

「あるがまま」を残すためにはどうしたらいいのか。

ファインダーを覗くとき、私は何を考え、何を捨てればいいだろうか。

写真に求めるのは「テクニック」か「感受性」か。

インスタ栄え・各種写真コンテスト入賞…そのおしゃれで素晴らしい写真に「あるがまま」が欠いているなら、何の意味があるだろうか。

 

「あるがまま」の意味と価値、「手段」としての「カメラ」を見つめること。考えすぎかもしれないけど、そしておそらく答えはないだろうけど、親にとって写真とは…。

もしかしたら「あるがまま」を残したい「自己満足の手段」である同時に、子どもの成長・親自身の成長に合わせて日々変化するその意味を、まさに「変化のまま」受け入れていくことかもしれない。

 

・・・ふーむ。やっぱり考えすぎねw

 

おわり。

 

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(後編)子供の習い事と親の自己満足について

前編後編の間。

 

…。自分が残した、自分が自分に課した宿題(仮)を終わらせること。

それはその時の感情によって、時折「宿題」になったり、「少し面倒なメモの続き」になったりします。

 

そう…。「それ自体」は変わりなくそのまま存在しているのに、その日の気分や自分の精神状態(笑)によって「私」は、それを全く違う感覚と思考で「受け入れている」そんな気がします。

 

前編を書いてから半年が経ちました。

この下に続く「後編」と名づけた内容は、もはや「後編」ではなくなりましたが、それでも「後編」と名づけた理由は…特にありません(笑)。ただ、今日はタイトル選びに悩み、それに思考を取られることがあまり意味がないと感じました。今はそう感じてそう行動する。それだけのことです(笑)

 

だから、その内容も「Aの次、Bから」というわけでもなく、前編の内容を今の視点で書き直しています。

 

思考は変わり、ものの見方も変わる。それによって言葉が変わるのも自然なことかもしれません。

 

何より言葉はそのものではないことを感じるとき、

自分が発した言葉に執着・依存せず、一貫性やプライドを維持させることに固執しないとき、まるで渓谷の中で流れる川をありのまま眺めるようにその言葉を見つめるとき、

自分によって生まれた「ストレスや葛藤や苦しみ」といったものが、ほんの少し…なくなっている気がします

 

前編はこちら↓↓↓ 

*後編も相変わらず、抽象的で根拠もなく誤解満載ですので、ご注意下さい。(笑)lcpam.hatenablog.com

『(後編)子供の習い事と親の自己満足について』

 

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*9月の子供用ビーチサンダルと庭の芝生。

 

「子どもの成功と達成=自分の成功」 

自己満足の対象としての子ども。

前編では少し話がそれてしまいましたが、これについて少しだけ書いてみました。ただ、その前に「問題」「解決」という概念について少し触れてみたいと思います。

 

「問題」「解決」と「私」

私たちは何か葛藤や知らないこと、選択や数々の問いに迫られたとき、それに「問題」という概念を被らせて、それと同時に「解決」を捜し求めているのではないでしょうか。

 

たとえば「幼児に英語教育は必要なのか」という問いがあります。

その問いは、時間とともに周りの教育方針(だれだれはこうしている等)などによって何度も問われ、やがて解決すべき「問題」となるのではないでしょうか。

 

その瞬間、私たちは知らない間に、違う表現をすると「気づかない間に」それにとらわれ始めます。そして、それと同時に「親たるもの」の私が、広い視野の人生経験が豊富な「私」が、その主体として現れます。

 

もしその私が、子育てに熱意を持っているなら、時間をかけてあれこれ調べては「解決策はこれだ」と「問題」を乗り越える方法を生み出します。

 

または、私が子育てにそれほど熱意を持っていないなら、妻や夫の話、周りの話、ちょっと調べたネットの話、自分が良いと思った過去の話に頼る方法を出すか、もしくはその何れでもない無関心(逃避)を見せるかもしれません。

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 *庭の色葉もみじと夏の終わり。

「子育て」とその「判断基準」

では、熱意を持っている親が正しくて、熱意を持っていない、又は無関心な親は正しくないでしょうか。そのどちらが賞賛されるべきで、そのどちらが非難されるべきでしょうか。

 

私は、私と違う(そうではない)親をみるとき、彼らを非難し、冷笑し、自分の子育てを正当化し始めるのではないでしょうか。

 

どうして私や親にそのような思い・感情・思考が引き起こされるのかを理解しない限り、私は時折A側の親になったり、B側の親になったり、C側の親になり、常にそうではい親と周りや社会などといった限られた一面だけをみて正しくない、間違っていると非難し、自分の教育方針を正当化し続けるのではないでしょうか。

 

モンテッソーリやシュタイナー教育。

英才教育と数々の先行学習。

運動神経を発達させるという体操や数々の運動。

数学の思考に効果があるという算盤、ユーチューバー。

周りの友達が殆ど夢中になっているという野球やサッカー。

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 *散歩中、見つけた花。

 

数え切れない物事の数だけ、

数え切れないほどの「問題」がある。

もし、私が子ども(主体)と共にそれらを見ないで、「私」「親」としてみるとき、やがてそれは一つの「問題」となり、そこには相変わらずその問題を「解決」すべき「私」が現れるかもしれません。

 

もし、その「私」が熱意を持っているならば、「問題」を「解決」するためにあらゆるもの、あらゆる手段、あらゆる正当化を使おうとします。

 

それは「自分の幼い記憶」であったり、

「どこかで読んだブログ内容」であったり、

「有名な子育て専門家が語る教育指針」であったり、

「テレビで偶然、目にした理想の子どもの姿」であったりするかもしれません。

 

「私」「子ども」「重ね合わせ」

 そして「私」は「それらの内何れか」又は「それら全て」に自分の子どもを重ね合わせようとしているのではありませんか。

 

自分の幼い記憶の中で味わった感情を子どもには味わせたくない…もしくはその反対のことを優先する感情を。

 

感化されたブログの子育て方法をわが子どもにもさせてみたい…気持ちを。

 

元米大統領、グーグル創立者、アマゾンCEO…モンテッソーリ教育出身の名前でその必要性と根拠を自分と周りに言い聞かせるその感情

 

テレビの編集裏にある全体像を見ることなく、幸せそうにはしゃいでいる子どもやそれを見守る教育者に対する自分の偏見と羨望そして共感を。

 

… これらに、私たちは気づいているでしょうか。

 

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*見ているのは、想像力溢れるその無垢な遊びでしょうか。それとも心配や危険性のことでしょうか。

 

大事なのは、優れた教育方針でも、

成功を招く子育て…なんかでもなく、

「そうやって何かを見ることではなく、

その何かを見ている「私」なのではないでしょうか。

  

常に自分の記憶や思考に執着し、「あるがままの子ども」に偏見を持たせている「私」を見ない限り。

 

有名ブログや記事の理想に酔い、その理想を自分の子どもに重ね、何かの楽しみを感じている「私」を見ない限り。

 

難しい用語の教育指針を「今を生きる子ども」の立場として考えるのではなく、盲目に従い、有りきった有職者の傲慢な解説のように語っている自分を見ない限り。

 

そういう「私」に気づかない限り…

私たち親は子どものあるがままを見ることができるでしょうか。

  

その教育方針を、自分の狭い世界で描く「理想の子ども」の立場として考えることこそ、正しくないこと、間違っていることなのではないでしょうか。

 

今、子どもは何を見ていて、何を話しているのか。

見ていますか? 聞いていますか?

 

頭で見ていると理解しているつもりではなく、「私」は本当に子どもを見ていますか。

それとも「私」は、「私」を見ているだけでしょうか。

 ...。

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言葉にならないその言葉を、その無邪気な行動を、「私」は本当に見ているのでしょうか。

私たち親は、それらに「問題」「解決」というフィルターをかけて、見ているつもりでいるのではないしょうか。

 

「私」は誰でしょうか。

「親」でしょうか。

「私そのもの」でしょうか。

それとも「親」「私」そのどちらにも拘っている姿でしょうか。

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飽きもせず何時間も同じ滑り台ではしゃぐ娘と息子。

良い写真を残したいと思う「私」が、

カメラのレンズを通して子どもを追うことをやめるとき。

教育方針や小1の壁、全ての不安と問題と葛藤が…

落ち葉と砂を被りながら、赤い鉄柱を力強く握る

その天真爛漫な姿を見えなくしていることに気づきます。

 

「求めるものは全て今ここにある」ことに気づくとき

子どもは「私ではない私」を、決して言葉で言い表せない「その笑顔」で常に迎えてくれています。

 

その笑顔に思わず流れるこの「涙」が、葛藤や幸福、心配や喜悦それら全てを含む「涙」が、

本当の「愛」であることに気づくこと。

 

そして「幸せ」も一つの言葉に過ぎないことに気づくこと。

 

今日も...。

「今を生きる」子どもから学び続ける

まだまだ未熟な「私」です。

そこそこA氏 (最後で最初のお話)

「どこで間違っていたんだろう」

「どうして私の人生はそこそこの人生になったんだろう」

  ....lcpam.hatenablog.com

 

真面目なそこそこAは、今度は生きることについて

その答えを探しはじめた。

 

答えのない人生なんて.. いやだ..。

今まで.. 数多くの苦痛と非難と、

理不尽な出来事に耐えてきたのに...。

 

それは暗いトンネルのようなものだった。

そこそこAは、その先にあると信じる光を目指した。

 

いつかこの苦痛が終わることを、

いつか自らの意志と感情で生きていける所に辿り着くまで、汚いトンネルに耐えながら進んでいく。

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数え切れない、そして絶え間ない苦痛と、

一時的な幸せについて考えれば考えるほど、

それは掴むことのできない、遥か遠くにあるようだった。

 

あのときの自分の犠牲。

受け入れるしかなかった多くの暴力が。

女性として生まれた瞬間から背負うしかない重みとその重みの違いを妬む悲しみ

そしてその重みが、さらに重く重なっていくその耐えがたい重みを…。彼女は抵抗し叫びながら、時には諦めながら受け入れてきた「人生という重み」を…。

 

その重みは彼女から自由を奪い、幸せを奪い、そして人生の意味を奪っていった。それを彼女は、傍観者のように仕方なくただ眺め、受け入れることしかできなかった。その人生と彼女との間にある、「重い沈黙」が何よりその重みをさらに増していた。

 

しかし、彼女には子どもを立派に育てたという感覚があった。旦那と子どもそれぞれ違う形だとは言え、という感覚もあった。しかしこれら全てが「人生の重み」となってトンネルの中に見え隠れしていた。

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「... ... ...。」 

「…私は…今、泣いているの?」

怒りか感動か分からないが、彼女の頬を伝って落ちた。

 

「涙は愛で、愛は涙であり、苦悩と幸せは一つだ」

「犠牲と報いに囚われている限り、光は幻に過ぎない」

「そうやって光を求めている限り、トンネルは終わらない」

...

鏡の向こうで、疲れている自分を静かに見つめなさい」

「子供のご飯・仕事の都合・節約・家事…少し遠い未来の不安…何も考えず、ただ観察することで見えてくるものを見てごらんなさい」

「そこに座っている「そこそこA」という名前も、これを読んでいるあなたの名前も...全て言葉に過ぎないという沈黙が見えるだろうか」

「私と(望む)私。私のあなたとあなたのあなた…のように互いのイメージと区別が存在しない一つの沈黙を感じることができるだろうか」

 

...その声は「トンネルの外」から聞こえてきた。

 

「...全てを諦めろっていうの?!!

この重い人生をそのまま背負っていけっていうの?!!

私はもう少し…幸せで…もう少し苦痛を感じたくないだけなのに…

それがそんなに贅沢なことなの?!...

それが私が母になり、生まれてきた理由なの?!」

 

鏡の向こうで皺が波打つ彼女を「そこそこA」は静かに見つめていた。

そして返事の代わりに長い「沈黙」が返ってきた。

そこには「そこそこA」を見ている人と、見られている人がいた…。

 

彼女は「そこそこA」であり、「そこそこA」は彼女であることを…鏡は「沈黙」で教えていた。

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... 薄暗い雲が屋根の端っこにかかる。

雑草がそよ風に気持ちよく揺れていて、

そのリズムに合わせて名前の知らない

鳥たちが微かな日の出を喜んでいた。

 

どこかのカエルの足跡、目的地のないナメクジ、

蜻蛉の羽の緊張や遠くから聞こえる飛行機のエンジン音…

そして、その真ん中をゆっくりと流れていく自転車。

...その全てはそのままの姿で、眩しく輝いていた。

 

... いつの間にか、彼女はトンネルの出口に立っていた。

そして「トンネルは振り向くときに現れること」に気づいていた。

 

...「うわあああ。ああ。ママがいい!!」

末っ子のいやいやに、私はいつもより明るい声で答える。

 

「は~~い!ママがいくよ!」

 

黄色い蝶が、ゆっくりと庭を散歩していた。

そして彼女は、あの散歩のように流れる涙を…

感じながら鏡の向こうの...今を生きる。

...。

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子どもの毎日から学ぶもの。

毎日 「何かのために」

大きな声で何かを伝え、

何かを調べて何かを考え、

何かの結論に至っては、

何かの行動に移す・・・こととその繰り返し。

 

「ああ。疲れた・・・」

そして毎日のように嘆く言葉とともに

また「何か」を探し始める。

 

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常に「何か」に追われている

自分を見つけて時々、

「だめだな。これじゃ・・・」

自分の姿を気にするけど、

 

これもまた、

いつもの「何かのために」という

行動パターンの一部。

 

ブログでも仕事でも生活でも、

私はまさしく、その「何かのために」

常に「何か」に向かって怒っている。

 

「既存の価値観」

「不条理な社会のシステム」

だと、言い聞かせているけど、

その中には「そうではないもの」が

多く存在する。

 

「そうではないもの」・・・

それは、自己中心的な「私のエゴ」が

決して語ろうとしない、認めようとしない。

「私(のエゴ)に反対するもの」

 

「物事に対する私の意見に反対するもの」

「教育観や人生の価値観に反対するもの」

「私の上に立ち、従わせようとするもの」

 

つまり、それは、

「私を否定し、傷つけようとするあらゆるもの」

 

「自分を傷つけようとしている」

勝手に考え、勝手に結論に至っては、

その相手や言葉、あらゆる対象を

拒否しようとするもの、傷つく前に

「何か」に声を荒げ、戦わせるもの。

 

「自分が大事」

「自分は正しい」

と思いたがる私のエゴによるもの。

 

私を「守るための」

知識という偏見・先入観・思い込み・・・

手段を選ばず頑なに、

自分を守ろうとするもの。

 

そのエゴが安全だと思ったとき・・・

心に余裕ができて初めて・・・

他人の話を少し聞いてあげようとするもの。

 

そして、そういう自分に気づいては、

「なんて!素敵なんだ!」と

自分を褒めたがるもの。

 ・・・

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「こどもの遊びに付き合うこと」

「庭を歩く猫をみること」

「目的もなく散歩をすること」

「本を読みながら頬笑むこと」

 ・・・

 

「何かのために」ではなく、

「エゴ」によるものではなく、

「ただ感覚を見つめること」

「そしてその感覚に従うこと」

 

すると、

大きな声で何かを伝える必要も、

何かを調べて考える必要も、

何かの結論に至る必要も、

何かの行動に移す必要もなくなる。

 

「スローライフ」

「ミニマリスト」

「ゆるい生活」

「頑張らない自分」・・・

 

トレンドや言葉に反応し、

その言葉を、もう一つの

何かのために」としないこと。

 

「そうだ。こうしなくちゃ・・・」

「こうならなくちゃ」と思うのではなく、

「何の目的もなく」

「何かのために」を忘れ、

今、自分が感じることに従うこと。

そして、そういう知覚すら忘れ、

心で見つめるとき。

 

目を光らせながら笑っている、

子どもの輝く顔に。

溢れるほど心が満たされている

ことに気づくとき。

 

「幸せ」と言われる感覚は、

「幸せのために」

「何かのために」からではなく、

言葉や考え、目的といった

それら全てを忘れた瞬間、

偶然そこにあった...

ことに気づくことなのかもしれない。

 

そう。・・・子どもは、

その素晴らしい毎日を通して、

それを遥かに超える「何か」

常に教えてくれているのだと...。

今。そして人生の価値について考えること。

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10代、20代、30代・・・

歳を重ねる度に、よく口にする言葉。

「毎日(今)が、前より何倍は速く流れる」

 

そう。振り返ってみると、「バブル崩壊・リーマンショック・IT世界到来・デフレ経済」といった言葉を並べなくても、人生における世界は、その程度を連日更新しながら、生きづらい世の中になっていて、今も進行中だ。

そして、多くのマスコミ、有識者と言われる専門家らは口を揃えて「世の中の生きづらさ」を嘆く。まるで「競争の激化と目まぐるしく変化する、世の中についていかないと生きていけない」かのように・・・。

 

それで、私たちは、歳を重ねる度に自分の周りの世界を、ますます生きづらく、その生に対する競争も激しさを増していくと無意識的にいや、意識的にも考えてしまう

 

その無意識と意識を持つことが、自分の人生にもたらす影響。

私たちは、このことについて・・・真剣に考えたことがあっただろうか。

それが自分だけではなく、子どもや周りの人にも多大な影響を与えている「進行型」であることの意味について…。

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一体、何が、私たちを生きづらくしているのか。

 「目的と手段」としての人生。

 

「AI時代に生き残るための教育とは」

「成功のための子育て」

「成功を導く世界リーダーの名言」

 

私たちの意識の中に、その思想と思考に、深く根をおろしている、「資本主義思想」とそれに基づく思考。誰もが成功を叫び、「成功(目的)」への努力(手段)を、人生における「最大の価値」のように掲げる

 

そして、それは違うというと、冷たく罵倒し、その人の無能さと無力さを指摘し、民衆に勝ち負けを判断させる…。誰の言葉に説得力があるかという論理で。

 

幸せを含む人生の全てを手に入れたかのように見える、いやそう思わせる権力者」によって、私を含むそうではない「殆どの非権力者」は、思考する余裕・時間も持てないまま、それをいつの間にか人生の価値として当たり前のように受け入れては、その事実に気づかない。いや、もっと言えば、気づきたくないのかもしれない。

 

それは、資本主義において金(資本)が、時間として、時には思考そのものとして大きくその力を行使しているからであり、生きづらいけど、それでも生き延びること。

さらに、その中で「成功」することへの憧れや価値をおくことが、この世界における最大の価値と定義されているからに他ならない。

 

そうやって、「成功」は、私たち個人(の自我)に、人生における目指すべき「目標」として認識(思考)されるとたんに、最初からそうだったかのように、人生の絶対王者の如く振舞い始めるのである。

 

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人生における価値とは何か。

… 周りの世界と自分としての「自我」、そして家族などそれをまさに「全体」として見渡し、感じ、見つめながら、その中から日常に隠れた価値に気づき、喜び、分かち合い、時には悲しむなど、といった全体と一部としての感覚に基づいて自分と人生を見つめ、見出し、それをありのまま受け入れること。

 

今私たちは、ごく限られた「物質的な世界」を「全体」とみなし、そこで生き残ること、そしてそのための競争に勝ち抜き、誰よりも優位に立つ「成功」を手に入れることを、人生における最大の「価値」としてみなし、生きているのではないか。

また、そういう価値について、その本来の姿について深く考えることなく、子どもたちに押し付けているのではないか。

 

その「限られた一部としての価値」を、全体としてみなし、何よりも重んずるとき、「今」はその価値という目標を達成するための「手段」に他ならない。

それは、たとえば、大学合格のための厳しい勉強期間を、未来への「価値ある投資」として捉え、今の辛抱や努力に対する代償をその未来に向けることに似ている。そして、それを助ける者は、さらにこう言うかもしれない。

「過去は変えることはできないけど、今の努力次第で、未来は変えられるんだ」と。

 

「現実が辛い、もっと上を目指したい」人にとって、恐らくこの言葉は大きな希望となるだろう。

孤独で辛い自分の「今」に対し、自分次第ではあるが、果てしない「報い」を約束するかのような願望という欲望。

そして失敗とみなす「今」を挽回できるチャンスのようにみえるだろう。

 

その願望と欲望通りに、ある人は、それを行動をもって実現させようとするかもしれないし、一部の人はそれを実現するだろう。

勿論こういった行動やそれを助ける人が間違っているとは言わない。今の自分に満足せず、未来への希望を目標とし、さらにそれを行動に移すことは個人としては素晴らしいことであり、またそれによって得られた結果や過程から学ぶことも多いだろう。私は決してこういったものを否定・非難するつもりはない。

 

ただ、その根底にある視点や価値によって失われるもの、いや気づかないもの。そう。気づかないものについて考えてみたことがあるだろうか。その根底にある「人生の価値」を見出すことの意味について。

 

「物質的な世界」と「成功」を、

「全世界」と「最大の価値」とみなすとき、

「今」はその価値達成のための「手段」となってしまう

やがてその姿勢が、自分の人生全般に大きな負の影響を与えていることを、私たちは気づいているのだろうか。

それは今までの人生における価値が「今この瞬間」ではなく、いつか来るべき「未来の瞬間」に向けてその焦点が全て当てられていたことへの気づきでもある。

 

それは、成功ストーリーや数多くの証拠を手にし、それを都合よく集めては思考という理性(実際は非理性的な思考にも関わらず)を通して、それが妥当で、人生の目指すべき正解であると、結論(意味)づけ、それを自分に言い聞かせながら正当化していく過程そのものである。そしてその揺るぎない結論としての価値を子どもと妻、そして周りの人に押し付けるのである。

 

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ヒグラシの鳴き声や、名もなき雑草の美しさや、夕日に染まる非日常の色、蛙を追う子どものステップ、蜘蛛の巣を見つめる輝く子どもの目、腕を歩く蟻の感覚、アゲハ蝶の美しい羽ばたきに・・・その無限の価値に気づいて喜ぶこと。

 

この気づきと喜びは、「未来の瞬間」に向けた感覚からは決して得られない。「今この瞬間」を見つめることによってのみ感じられる思考ではない、つまり「感覚」である。

 

勿論その感覚は、自然からだけではなく、子供や家族のちょっとした感情の変化に気づくこと、そしてランダムに見える日常の出来事を今の価値として解釈し、そこから人生の価値を見出す姿勢にも繋がる。

 

また、「今この瞬間」は、今でありながら、常に「未来その瞬間」であり続けることに気づくとき、内面における人生の価値とは「過去」「今」「未来」のように時間という思考により区別されるのではなく、全て「今この瞬間」を如何にして生きるかによって、見出すことができることに気づき始める。

 

いつか訪れるであろう「願望の未来」への過程としての「今」ではなく、「今この瞬間」の価値を見つけ、喜ぶことで満たされる「今」として生きることは、「未来」もまた「今」と同じであることに気づく過程。

 

・・・話を元に戻し、

そう。「毎日が、前のより何倍は速く感じる」のは、「今この瞬間」ではなく「未来への悩みや不安」を歳を重ねるほど多く抱えているからかもしれない。

 

また、そういう悩みや不安としての「今の視点」は、人生における視点を狭くすると同時に素晴らしい日常の価値に気づかせてくれず、「明日」「未来」にだけ目を向かせ、更なる悩みと不安を感じさせているのかもしれない。そしてその悩みと不安は、「今の私」をありのまま受け入れることを拒む姿勢に繋がる。

私が望む、「私」は「未来の私」。「何かになりたい私」であって、それは常に「今の私」ではないからだ。

 

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・・・自分の人生の中で、一番幸せな時期はいつですか?

この質問に、多くの人(幼児期に傷を負っている人もいると思いますが)は、「幼児期」を挙げるかもしれない。

もしそうだとすれば、ワクワクする今の価値に気づき、毎日をそういう視点に基づいて生きていたからではないだろうか。

恐らく毎日(今)に溢れる価値を見つける喜びとその感覚により長く感じられていたのである。

「記憶の量≒時間の感覚」は、「感覚の量」に比例するのかもしれない・・・。

 

・・・歳を重ねながら、知識を増やしながら、そして経験と自我を確立しながら・・・私たちは「今この瞬間」にある素晴らしい価値を忘れ「欲望や願望の未来」を追いかけてきたかもしれない。また、その「目的」を達成するために、大切な「今この瞬間」を「手段」とみなし、犠牲にしてきたのではないか。

今一度「今この瞬間」だけでも・・・少し立ち止まって考えてほしい。

 

本当にその目的や目標を達成することが、

自分の人生における最大の価値なのかを。

 

競争から勝ち抜いて、人の優位に立ち、高価のマンションを買い、成功と呼ばれる誰しも羨ましがる生活を送ることが、貴方にとって本当に人生最大の価値なのか。

知識を極め、ノーベル賞を受賞し、名誉ある人生として有名になることが、人生いや、我々人類における最大の価値なのかを・・・。

 

「どうせ・・・できっこないから、どうせああいうすごい人生って、自分には不可能だから」という諦めからの正当化ではない。

 

既知の思考や知識に頼らず、人生の価値を自ら見出すことの意味。

「何かになりたい」「何かであり続けたい」その欲望により作られた私という「自我」ではなく、今の価値に気づき、共感し、喜んでいる「私(心)」が見出す「人生の価値」の意味について。 

その見出しで見えてくる「今この瞬間」の価値を、今そして「これからの今」につないで生きたい

そして、ありのままの自分を受け入れる一人の親として「人生の価値」と「それを見出すことの意味」について、子どもと共に考えていきたい。

 

 

・・・最後に、故J.クリシュナムルティ並びに、故岡本夏木氏に深い尊敬の念をお伝え致します。 

 

長い文章をお読み頂き、有難うございました。

ブログと自然体についての小考察。

久しぶりのブログ更新。

 そう…久しぶりのブログ更新である。

(強調の意味は特にない…)

 

ブログに対して、前回の内容も含めて自分自身に課したハードルが高かったのか。それともツイッターのやり取りの速度と、その速度による刺激が強かったのか。

 

まぁ、一番大きな原因は「面倒くさい…と感じている」ことだろうけど、今回の空白は「その感情を言ってはいけない」と思っている、自分に対する「違和感」を感じるきっかけになった。

 

数日前から(また)久しぶりに結膜炎にかかり、目薬が必須の生活を送ることになった。また、それを理由に今は午睡という名目(?)でツイッターを休んでいる。

 

開始するのもやめるのも勿論本人(自分)の自由だが、どうも「よーし!ブログやるぞ!」と思い切った自分(またはそう他人に告げたことを覚えている自分)に対する意識は、皮肉にも「決してその後の感情や思考まで自由にさせている」とは言えない。

 

そう。「自由意識によって始めたこと(ブログ)が、今度はそれを意識することによって、自由を制限してしまう」ということに気づいてしまったのである。

 

そういう経緯もあり…今回のこと(結膜炎を含む一連の些細な出来事)は、やっとタイトルについての説明になる「自然体」について、そして「その重要性」について考えるきっかけ、もしくは「触媒剤」になったかもしれない。

 

しぜんたい【自然体】

① 柔道で、自然なままで立った基本的な姿勢。右自然体・左自然体がある。

身構えたり、先入観をもったりしないあるがままの態度。 「今回の審議には-で臨む」

  

「自然体」について、辞書にはこのように書かれていたが、あくまで言葉の意味は「定義」ではなく「解釈」という自己流の視点からすると、

 

自分にとって「自然体」とは、

「着飾ることなく、そのときの(自分の)感情や思考などをそのまま受け入れること。さらに、それにより得られる近視眼的な視点による平穏状態」…かなと勝手に解釈してみた。

 

そこからもう少し思考を巡らせて、「心の余裕」は、この「近視眼的な視点」により生まれるのではないかなとも。(「心の余裕」については、自然体の気持ちで書きたいときに書きます)

 

「ブログを書き続けること」とその「ゴール」とは何か。

 

自己満足・副業のため・孤独の解消・満たされない承認欲求の獲得など…そのゴールはいろいろあるだろうけど、自分にとってそのゴールとは何かを考える。すると、はやり…いまだかすかなぼんやりしたイメージしかつかめない。それから、苦しみながら達成したゴールの価値をどうみるべきか。(まぁ、こういうことを考えるから自然体にならないだろうけどww)

 

最後に、以前ツイッターに投稿した内容を付け加える「ズル」を持って、久しぶりのブログを締め括りたい。

 

栄養も読み応えも…何もないブログを…有難う。

まぁ、暇つぶしの「触媒剤」でもなれたら嬉しい。

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有難う。

あなたの「偏見」を聴かせてください。

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© 2015 Warner Bros Entertainment Inc. All Rights Reserved.

*映画: her 世界でひとつの彼女より。

*好きな映画ですが、本文とは関係なさそうです;;

 

【※注意:前書き必読】

この記事は、どうしてもツイ(140字)に収める自信がなくて逃げるようにパソコンに向かっている自分を自分が見つめながら、苦笑いで書いているそんな内容の記事であって、

…と訳分からないことを言いながら、そのすっきりしないもしくは怪しい詐欺話に引っかかるかもという警戒感を抱かせながらもとにかく読ませるために、ゆるいタイトルを偽って間違って知らないうちにクリックさせる裏の意図がばれないようわざとピリオドを入力しない前書きによる「このくだらない前置きは一体いつ終わるのか」という疑問が、ただでさえ少ない読者をもなくしてしまう可能性を意識せざるを得なくなった焦りを逆手にとって他の記事にもこのような前置きがあるかもという誤解をわざと招くようなウザさを演出することで、同情でももう一回クリックしてしまったら私の勝ち。

(はぁ、はぁ、最後は呼吸混乱状態...。思考=言葉の私としては夜中のマラソンのような前置きでした;;運動は苦手なのでもう二度としません。お騒がせしました。それでもすっきりしないもやもやの方がございましたら、コメントにご意見を残してください!😆)

 

そんな前置きは、置いといて(置いとくなら最初から置くなということですが、そういう自虐孤独漫才も本当に置いといて;;;)

 

今日は「偏見」について思うことを書いてみました。

 

もし途中で眠くなったり、イラっとしたり、嫌な上司の匂いがして「胃がきりきり」してきたら、スマホの画面はそのまま(焦り;)で「吉澤佳代子」の「胃」をお聴きください。

きっと、彼女の可愛い歌声が鎮痛薬となるでしょう。

 

「吉澤佳代子」の「曲名:胃」

(患者様へ ※記事閲覧前後で1日2回服用(?)をおすすめします)

https://music.amazon.co.jp/albums/B01BCMPRH0?do=play&trackAsin=B01BCMPVVC&ref=dm_sh_1aYusrqfcRpK70sPAKLfP8G3i

 

 「偏見」という言葉があります。

その「偏見」という言葉を書く前から頭に思い浮かぶもの。

それは皮肉にも彼自身(偏見氏のこと;)の意志とは関係なく、読み手の「偏見」が最初から反映されていると感じます。

 

そうです。

最初から「偏見」を「偏見の目」でみている自分がいます。

私たちは、こうやってブログをみる(?)時もその書き手に対する偏見を頼りに、ブログを読み、理解してます。

 

書き手が専門職であればあるほど、多くの読者を持っていればいるほど、そして多くの「いいね(ここでは★ですが)」があればあるほど、読む「価値のある記事」もしくは「良い記事」だと思ってしまう偏見を持っています。

(⇦結局、自虐を拒否してしまった書き手の「読み手」への露骨な心理攻撃?)

 

しかしそれは裏返すと私たちは偏見がないと他人へ近づくことができないことかなとも感じます。

 

こんな物騒な世の中、そして同じネット時代。

何の情報もなくありのままの姿をそのまま受け入れることなんて...。

下手すると詐欺に遭ったり、クソ(?)記事に大切な時間と感情を奪われるかもしれません。

 

...その通りです。

 

私たちは物騒な現実からも、そして目に見えない、さらに物騒だと思い込むネットからも自分の身を守らないといけなくなりました。

そしてそういった日常を毎日送らないといけません。その毎日によってさらに強くなる偏見と偏見そして偏見。

 

その偏見はある意味、

自分を守る盾でもあるのかなと思ったりします。

 …。

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© 2015 Warner Bros Entertainment Inc. All Rights Reserved.

*映画: her 世界でひとつの彼女より。

*本文とは関係なさそうでも無い?

 

しかし、ふと気づくのです。

いつの間にか自分が…

偏見を守ろうとしながら、

「あなたを守ろうとしている」ことを、

... いや、「あなたを理解しようとしている」ことを…。

 

そしてその偏見が自分に言うのです。

「この人とは何か通じるものがある」

「この記事を書いた人の話がもっと聞きたい(願望露出?)」

「まるで私の鏡のよう...」

 

フェミニズム・男らしさ・こどもの習い事・育児について…。

 

私は、数多く(これで24記事:数えたりはしないで下さい;)の記事で「偏見」について、そしてそれがいかにいけないことなのかを熱心に語りました。

 

偏見に訴えるその記事をもう一度読み返して、やっと自分の言葉に隠れていた「偏見」に気づきます。

...

自分が訴えたかったのは、もしかしたら「偏見」に気づいていない「自分」だったのかな...って。

 

それで時には強い口調で、

時には自虐の笑いを使って、

そう...、誰よりも知っている、

「自分への撫で方」で言い聞かせていたのかな…って。

 

そして自分はまるで「偏見に囚われていない人を演じる」ことで、

「自分への気づき」を少しでも遅らせたかったのかな...って。

それは、気づく自分が怖い。またそういう自分として見られるのが怖いという「偏見」だったのも気づかないまま... … …。

 

 

★ご覧の通り、私に読者は2名(感謝しかありません)しかいません。

そして一日閲覧数も多くて20程度の貧弱なブログです。🙇‍♂️

それにもちろん私は特定分野に詳しい専門家でも、育児に長けたベテランでも何でもありません。それをどう考えるか=どんな偏見を持つかは、これを読む方の自由=自分次第です。

 

しかし、

その理由が同情であれ、検索の間違いであれ、私のブログとこの記事を読んでいる方を「閲覧数1」という数字の「偏見」でみないこと。

 

たとえ1日の閲覧数が「あなたの1」で終わっても、その価値に喜び、そして感謝への気持ちを感じる素敵な「偏見」が自分にできればなと思うそんな日です。

 

「偏見」は「自分」でもあること。

そして自分を見つめることは「あなた」を見つめることでもあること。

それに気づく不思議な夜、「あなたと自分の偏見」そしてその「距離」について考えます。

 

But with you my dear
I’m safe and we’re a million miles away

でも あなたと一緒なら
何も心配ない100万マイルかなたでも。

*映画: her 世界でひとつの彼女より。

 …。

 

最後までご覧いただき、ありがとうございました。(*^^*)

 

※あなたの大切な偏見をお聴かせ下さい。今ここでいつも待っています😇

「ブログ」と「チラシ配り」は似ている

 

「ブログは一方通行」

ツイッターは両方」

 

という偏見(?) が定着してしまい、どうしてもツイッター発信がメインになっている昨今です。

 

ツイッター

@lcpam2

https://mobile.twitter.com/lcpam2

←言い訳を利用し、間接広告をする古い手口です。

ご注意下さい。

 

 

信号待ちの横断報道で...ふと、

「チラシ配り」と「自分のブログ」 が似ていることに気づきます。

 

「都会行バス」が一日1~2本あるかどうか(バス停が古くて時刻表がよく見えない;)の田舎、しかもバス停から徒歩16分(距離感が一番難しい; )の「畑のど真ん中」で、

 

「私の話」という「チラシ」 を一人で配っています。

 

「もっと赤く刺激的な言葉を使うべきか」

「論争を招きやすい(突っ込みやすい)口調にするか」

「共感を呼ぶ言葉を慎重に入れるべきか」

「イメージしやすい、優しい(疲れない)画像をどこに入れるべきか」

「一方的な内容で、説教になっていないか」

 

思考が遅い私は、何時間、時には何日間も悩んで記事という「 チラシ」を作り上げます。

 

そして、悲壮な顔で、

パソコンからその「田舎の畑」 に向かうのです。そして到着。

 

風の音と、

ロマンチックな麦の揺れ。

ひょうひょう~動く薄金色のグラデーションと

微かにみえる鯉のぼり。

 

「あ。なぜかビールが飲みたい...」

...あ。景色に酔ってる場合ではない!

 

「あの…。よかったら、私の話を聞いてください...」

 

私の小さい声に、

遠くから腰を丸めて作業していた麦わら帽子のお爺さんがゆっくり腰をあげる。

 

「こんなところで、何しているかい?」

 

初めての声に、つい興奮した私は、

「実は、お話がありまして...。」

と挨拶も忘れチラシを見せる。

 

「愛について。子育てについて、そして私が見ている世界の理不尽さについて...」

畑のど真ん中で私は初めて会うお爺さんに、ありったけの話を並べる。

 

黙々と私のチラシをみていたお爺さんがいう。

「... 全部、どこかで聞いた話だね」

 

「いや、あの!全て私が考えた話なんです」

「全て私が思考して言葉にしたものです!」

「…それが感想ですか?」

「私、今日朝からずっとこんな田舎の畑で大変なんですよ!」

「そんな話を聞くために、ここにいるわけではありません!」

「もう畑はゴリゴリなんです。なのに」…。

 

チラシを握り締めながら、

鬱憤を吐き出す私にお爺さんは言う。

「キミ、その顔がおとうさんにそっくりだな...。」

「それでスッキリしたかい?」

 

それからお爺さんは、

「それで、おとうさんは、もう赦したかい?」

 

「いや、父じゃなく私自信です!」

「彼は赦す必要も資格もないんです!」

「私自信の問題なんです!」

 

「...。」

 

お爺さんは少し悲しい顔で言う。

「彼は何も言っていない。大変だ。忙しい...と言ったのは君じゃないか?」

 

「...。」

 

バスに乗ってパソコンに帰ってくる。

チラシを見たのは何人なのか。

 

腰を丸めてパソコンを睨むその姿を、

「娘を抱っこした麦わら帽子の自分」が

ゆっくりと眺めている。

 

...。

lcpam.hatenablog.com

 

 最後に、前回の記事「子供の習い事…」で初めてコメントを頂きました。

この記事はその思考と気づきによるものです。

akihitosuzuki様 ありがとうございます。

ありがとうございます。

 

子供の習い事と親の自己満足について

子どもとフェミニズムについて色々考える最近です。

 

今回は、子ども(=私たちの幼児期も含む)の価値観形成に莫大な影響を与える幼児期における親の接し方について、思うことを少し書いてみました。

根拠もなく、故に誤解満載の内容となります。

どうかお手柔らかに読んでいただけると嬉しいです。

 

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「いつか役に立つから」

「学んでおくとあなたのためにもなるよ」

「英語話せないとこれから生きていけない」

「すべてはあなたの未来のため」

 

聞き覚えのある言葉ではありませんか。

もしくは、正に今子どもと自分に言い聞かせている言葉かもしれません。

 

個人的な話になりますが、

私は親の勧誘(選択肢はない)で小学生の頃2年間弟とピアノレッスンに通わったことがあります。

弟はかなり器用で上達も速く、いつの間に同年代でトップレベルになりましたが、あまり指が速くなかった私は毎日先生に叱られながら(指を叩かれながら)、時には馬鹿扱いされ、それでも我慢し続けた記憶があります。

そのせいでしょうか。今もピアノを見ると、未熟な自分と痛い指の感覚、そして弟を思い出してしまうのです。

 

それから30年が経った今も時々親から

「その時、ピアノ学んどいて良かったでしょ?」と言われたりします。

 

私たちは、過去の出来事においてそれが重要であればあるほど、「自分の選択は正しかった」と確認したい(もしくはされたい)傾向があります。

 

過去の子育てで「親としての役割を果たした、その選択は正しかった」というある意味=自己満足を、正にその対象から確認したいのは自然な欲求かもしれません。

 

しかし、時には良かれと思ってやったことが当事者にはトラウマになることだってあります。

これは特にその行為と受け取る側との立場(主客)が反対の場合によく起こる気がします。

 

つまり「その行為は誰のためなのか」という問題。

 

その行為が「やりたい主体(子供)の気持ち」からではなく、「やらせたい客体(親)の気持ち」から成立していないのか。

 

これは、幼児教育全般に大きな判断基準となり得ます。

 

その習い事って

「やりたいのは自分なのか?子供なのか?」

 

このシンプルな問いを、私たち親はあまり真剣に考えていない場合が多いです。

 

行為の主体は、「目の前の子ども=足りない子ども」ではなく、親が思い描いている「未来の子ども=理想の子ども」になってはいないか。

 

「いやだ!これがやりたい!遊びたい!」

と叫ぶ子どもを、一人の人格ではなく、未来への備えもできない、精神的に未熟な「こども」として見てはいないか。

 

「子どもの成功と達成=自分の成功」

 

親は、一人の人間として1回の幼児期しか経験することができません。

 

誰もが経験するこの幼児期でのキーワードは大きく3つ。

「愛情」と「抑圧」そして「否定」

 

これらはいろんな形で幼児期の柱となり、個人の性格や価値観形成に莫大な影響をもたらします。

 

例えば、親に甘えられなかった「否定」された子どもはその「甘えたい感情」を「抑圧」する事で、「お利口さん」を演じ親に違う形で愛を受け取ろうとします。

 

「愛情」を求めるありのままの自分が「否定」される。感情の「抑圧」は、体と共に価値観として確立されて行きます。否定された悔しさと満たされない愛情。

 

「彼氏・彼女」「夫婦間」そして「子供」へと

その気持ちは年齢と社会的位置によって変化、対象を変えていきます。

 

....

 

ここまで書いてエネルギーが尽きてしまいました。最近チャージ後やたら電池消耗が激しいのはやはり年齢のせいでしょうか...

 

今日も素直になれず言い訳で逃げるおっさんです。

 

では、おしまい。

 

続き書きますので、あまり期待はしないでください。最後に、誰も気にしていないと思いますが、そこそこA氏後編、そこそこ悩んでます。

 

*参考*

子どもの精神発達についての研究「発達心理学」「遠藤利彦」の書籍や論文、そしてその他多数の本影響されまくり。

吐き気注意!「愛」について思うこと。

この内容は、ツイッターでのやり取りをきっかけに少し思考を加えたものです。読み手にとっては、納得しにくいところも多々あるかと思いますが、誤解なく(誤解されても仕方ないと思っていますが)読んでいただけると嬉しいです。

*関連イメージなどありません。途中で休みながら、ごゆっくりお読み下さい。

 

全人類に投げかけるような(?)、とてつもなく大きな問い。

 

 「愛とは何か」・・・

 

もちろん私には知識も視野も資格(?)も備わっていませんが、全人類(何十億単位)の中で1つのサンプル(これの価値は別にして;)として、「愛」について私がしてきた誤解と今も続いている思い込みについて書いてみました。

 

「ときめき」と「性欲」は「愛」なのか?

  

魅力的な異性に出会ったとき、私たちはいろんな形でときめきます。

そしてその人の言動が気になり、その人とのかかわりを増やそうとします。

 

そこで自分の感情を受け入れて(=認めて)素直にその感情に従うこと。そういう自分を大事にしながら、認めてあげることが「愛」なんでしょうか?

 

私はたった数回の恋愛を通してだけですが、2つの「愛」を見てきました。

 

自分が求む「愛」と、相手が求む「愛」

 

 全く違うこの2つは、ややこしいにも

同じ「愛」と呼ばれています。

 

もし自分が求む「愛」が、

「周りの環境の変化に屈しない強い生活力と包容力。疲れている自分を慰め、癒してくれる、なおかつ物事に前向きな母親のそのものに近い愛」だとしましょう。

 

しかし、そんな家父長制の理想ばかり求めていては、魅力的(この表現には個人差がありますが、異性として引かれる性的な魅力のこと)な異性と付き合うことは用意なことではありません。イケメンでもなく、同世代において優位に立つ要素が殆ど見当たらない私のような男性としては、ほぼ不可能に近いです。

>>>この思考自体がかなり男性的な思考であることをつい最近気づきました...。

 

…自分の「愛」を見つけられなくなると、もしくはその可能性が無限に低いと感じると、年齢と焦りと社会から求められる普通の基準(相当高いですが;)、そして最後は自分の意志(男性的な思考)によって、相手の「愛」にしがみ付きはじめます。

 (以下、男性目線です。吐き気にご注意下さい)

 

それは…女を口説くこと。

 

同男性間(ホモソーシャル)で優位に立つことができる「数の暴力(深度や深さではなく、単に経験数だけで優位に立つ構造又はそれを認め合う・・・馬鹿な行為)」をもって。

また紳士を演じることがまるで「男らしい男」の「掟=プライド」を守るかのように「愛」にしがみ付きます。

 ...

自分が求める「愛」はどこから来ているのか。

それを相手に求めている理由は何なのか。

その「愛」によって自分は本当に幸せになれるのか。

 

…「愛」に対する省察も気づきもしない(できない)まま、男は「性欲」と「愛」すら区別できず、自分の「愛」を隠し相手の「愛」を、まるで自分も求めていて、さらにその「愛」を与えることが自分の使命であるかのように演じるのです。

 

そして結婚。

 

時間が経つにつれ、互いが求む本当の「愛」が見えてきたとき。私たちは何かが違うことに気づき始めます。

 

相手から自分が求める「愛」が得られない、

もどかしさと戸惑いと不安。

 

今度こそ、自分が求める「愛」を与えてくれる相手を探そうとします。

 

しかしそもそも自分の「愛」が間違っていたことを、それが思い込みであるという大事な思考を「男のプライド=男性性」が邪魔します。

いや拒否します。

 

「男のプライド」は揺るぎないもの。

決して認めてはいけない「聖域」みたいなものだと思っているんでしょうか。

 

「俺は間違っていない!」

「悪いのは変わってしまった彼女ではないか!」

「あの可愛かった彼女はどこへ行ってしまったんだよ!」

そうです。やっと自己責任の逃げ道を見つけた男は、家事不参加と夜遊びを自己合理化することで、それをさらに行動で訴えるのです。

そしてツイッターに妻が変わってしまったと嘆くのです。

 

 

 「愛とは何か」・・・

答えは私の思考と共に、もしくは年齢と共に変わるかもしれませんが、 

今の私の答えは、「求め合う「愛」すべて」

 

「愛」について悩むことが大事だな…と思う最近です。

 

おしまい。

 

ツイッターでもお待ちしてますw

@lcpam2

https://mobile.twitter.com/lcpam2

コンビニと育児は似ている。

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*四月のジューンベリー

 

...

 

「結局、また悪いのは私ね」

...

 

7時帰りの旦那は、子供に怒るなと言いながら、私に怒る。

... 

 

子供教育とか週末予定とか株利益とかも

いいんだけど。

... 

 

少し休ませて。

少しだけでいいから一人にさせて。

 

それから、

考えてみるから...。

 

 

☆☆☆

日々の育児で夫婦はスタッフ化する。

 

楽しかった日常のルーティンは、その対象が子供になる途端モンスター化する。

 

最大増員2名のスタッフは、互いのシフトを確認しながら必死にルーティンをこなす。

 

しかしこのシフトには最大の弱点がある。

それは、有休がないこと。

いや、休暇そのものがないことだ。

 

... 

それが何を意味するのか。

親にならないと分からないのだ。

いや分かる必要がなかったが正しい。

 

あと少しで10連休のゴールデンウィーク

保育園も10連休...。

 

100年に一度の大型連休が、

100年に1度の子育てに重なる。

それを2名いや...時々1名のスタッフで乗り越えないといけない。

 

現実を愚痴っても何一つ変わることはないけれど、こうやって書いてみることで何か新しい思考が出てくるかもしれないというまたもや虚しい期待。

 

「なら産まなきゃいいのに」

「周りに助けてもらえばいいのに」

「結局悪いのは夫婦じゃん」

 

小学校止まりの思考に言ってあげたい。

 

親として愚痴る自己防衛ではなく、

本気で思っている言葉。

 

産んでよかった。でも大変だと。

この二つは常に同時でありながら、

因果関係ではないことを。

 

....

 

「ほら、結局悪いのはあなた達じゃん」

 

...

もしあなたの親があなたを産んで大変だったと口をこぼしたら、あなたは同じことが言えるだろうか。

 

「私、産まなきゃよかったじゃん」って言えるだろうか。

 

...

 

誰も悪くない。

そして誰も悪い人になる必要はない。

 

...

 

悪役なんてない。

それが辛い理由だなんて

今更気づく。

 

...

 

そこそこA氏のお話。(前編)

 

そこそこA氏は、そこそこの大学を卒業し、そこそこ頑張って就職し、そこそこの会社で、そこそこのやりがいを感じながらそこそこの夢を持って仕事をしました。

 

そこそこの結婚相手もできて、そこそこのマンションでそこそこの暮らしも始めました。

 

そこそこのタイミングで結婚をし、そこそこのタイミングで子供が産まれ、産休をとりました。

 

そこそこではない育児は大変でしたが、

旦那もそこそこ手伝ってくれたので、

 

「頑張れば、認めてくれる人がいる!」

「頑張れば夢も育児も両立できる!絶対あきらめない!」

キャリアーウーマンとして覚醒したA氏。

 

そうなんです。意志もそこそこ持っていたA氏は、人生で一番頑張りました。

 

産休と育休後、そこそこのタイミングで復帰したA氏は、今度はそこそこではない全力で仕事をし、全力で家事と育児をしました。

 

すると、そこそこの給料が入ってきて、そこそこ仕事も育児も両立できるような気がしました。

 

しかし、そこそこだった仕事と風向きは、

時短と共にそこそこではなくなり、そこそこ肩身の狭い思いをしましたが、それでもA氏は全力で頑張ります。

 

そこそこ不当な人事異動でも、そこそこおかしい仕事配分でも、そこそこ帰りづらい雰囲気でもそこそこ不当な昇進でもA氏はまた頑張ります。

 

すると「そこそこA氏」は、いつの間にか「全力A氏」になっていましたが、社会は「そこそこのまま」で止まっていることに気づき始めます。

 

「おかしい」

「私が何か悪いことをしたわけでもないのに・・・」

「どうして毎日がこんなに大変で、こんなに怒っているんだろう」

「どうしてこんなに時間が足りなくて、どうしてこんなにつらいんだろう」

 

「全力A氏」は、全力で考えましたが、その答えを見つけることはできませんでした。

 

そしてそこそこの旦那から返ってくるのは、「そこそこの返事」だけ。

全力A氏は最後の希望を託して、全力のタイミングで二人目を妊娠します。

 

。。。

 

そして6年間全力でぶつけてきたA氏は、

子供が小学校に入ったとき、

そこそこの夢をあきらめました。

 

それからそこそこのバイトを探し、

そこそこの生活をし、

そこそこ家事をこなします。

 

そこそこだった旦那はそこそこの管理職となり、そこそこ帰りも遅くなり、ついにそこそこではなくなりましたが、そこそこA氏は気にしませんでした。いや気になりませんでした。

 

そこそこではない、かわいい子供たちがいましたから。

 

そこそこの学校に進学した子供たちが自分で物事が決めれるようになったとき。

そこそこA氏はそこそこではない、幸せな人生について考えるようになりました。

 

「どこで間違っていたんだろう」

「どうして私の人生はそこそこの人生になったんだろう」

 

でも、そこそこのテレビ番組でも、そこそこの近所付き合いでも、そこそこの旦那からもその答えを見つけることはできませんでした。

 

・・・

 

「そこそこA氏の話は・・・後編に続く」

82年生まれ キム・ジヨン 人生の重さについて

 

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

82年生まれ、キム・ジヨン (単行本)

 

 …。ああ。

 

電車の中で言葉を失った私は、

ただ流れる風景を見ることしかできずにいました。

 

生きることの重さが…

性別だけで変わってくるという事実と、その事実に向き合ったことも、いや気づくことも出来なかった自分への嫌悪感が風景のように次々と自分を襲い掛かってきます。

 

理不尽な社会と、

見て見ぬ振りをする過去の自分と、

傷つきながら生きてきた彼女たち。

 

当たり前ではないことが、

当たり前のように思ってた時代と

その時代のせいにしている自分への幻滅が

走馬灯のように思い出を書き換えていく。

 

 …。あ。…。あ 

 

深くて短い、

言葉にならない重いため息。

 

我慢するしかなかった、いや選択肢すら与えられなかった多くの女性の人生が、

昔も今も、そしてこれからも続くことの重さ…。

 

それは私の母の重さでもあり、

妻の重さでもあり、

そして2歳になったばかりの娘の重さでもあることを、私は知ろうともしなかった。

 

私は傍観者であり、共犯者。

これからもずっと知らずに生きていったかもしれない…という恐ろしさと、期待すらされない諦めから来る彼女の虚しさを目の前にして、私は混乱しています。

 

一度も生理を経験したことのない男がそれが何十年も続くことの意味を。

妊娠と出産の不安と、仕事と自分の人生への不安を。

そして多くの彼女が当たりまえのように諦めるしかなかった現実と、男という思考の暴力に私はどれだけ真剣に向き合ってきただろうか。

 

泣き崩れている彼女の話を、

どれだけ真剣に聞いていたのか。

 

それが私と未来への不安であることも知らずに、ただ女性だけの感情かのように思い込んで適当に慰めたりはしていなかっただろうか。

 

言葉だけの夢とその場しのぎのジョークで笑い飛ばしていた私を彼女はどんな思いでみていただろうか。

 

…。あ。

 

 

★★★

今日、新しい人生をスタートした妻の生き生きとした姿には、

10年前の彼女でも、2児の母でもない、もう一人の彼女がいました。

 

居場所をみつけ、頑張っている姿に嬉しさとほんの少し寂しさを感じる夫です。

“It’s OK for me” 男らしくない自分の受け入れ方

あなたは「男らしい男」?

週末子供の遊び相手をしただけで、えらそうな顔をする男。 

帰りが遅いのは会社のせい。自分は浮気もギャンブルもしない真面目な父親だと言わんばかりの男。

夜遅くまで働くことが育児家事をしない免罪符だと思い込んでいる男。

子供が生まれたら犠牲は必要。ただそれは自分ではない。暗黙のプレッシャーで妻に専業主婦を強要する男。

子供の隣で平気でタバコを吸う男。

力仕事と運転だけがパパの立派な役割だと勘違いしている男。

 

5秒だけでもいいです。

自分はどれぐらい当てはまるんでしょうか。

 

あなたの間違った「男らしさ」によって、

家族は笑顔になっていますか?

それをあなたは幸せだと思っていますか?

 

 “It’s OK for me”

「格好悪くてもいい」

「男らしくなくてもいい」

「繊細で面倒くさいって言われてもいい」

 

「男らしい」という呪縛から自分を解放することで、「男らしくない自分」ではなく、「それでもいいんだ」というありのままの自分の姿に気づき始めます。

 

ネパール写真家のインタビュー「男らしさに対するネガティブな固定観念」の一部分を紹介します。

引用:A new photo series from photographer Jessica Amity shows that masculinity exists on a spectrum

サイト:https://www.huffpost.com/entry/men-reject-toxic-masculinity_l_5c6efc4ce4b0e37a1ed618ee

 

「UNISEX」「TOXIC Masculinity(男らしさの弊害)」・・・

 

男女平等と育児シェアは当たり前。

不要な固定観念で自分を苦しめる必要などない。

 

世界では、フェミニズムの拡大と性別ではない柔軟な役割分担への認識が広がりつつあります。

「私はそれなりに家事を手伝っている夫」とイクメンぶりを訴える前に、一度視野を世界に向けてみるのはいかがでしょうか。

  

Netherlands, Caspar

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“It’s OK for me to be insecure,”
「私は、不安な気持ちでもいい」

私は常に男性として自信にあふれ、支配的でないといけないと思っていた。

決して不安と恥を感じてはいけない。この男らしいというプレッシャーで、自分の不安をどうしたらいいのか分からなかった。

私は自分の弱さを受け入れることで、不安を理解し、コントロールできるようになった。

 

Lucas, France

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“It’s OK for me to be classified as a sensitive guy.”

「私は、繊細な男として分類されてもいい」

男は、繊細な感情を感じるとそれを無意識的に隠そうとする。まるでプライドを守るかのように。隠さずありのままの姿を見せることができることにプライドを感じるべきだと思う。

 

Dan, U.S.A.

f:id:olewakbh:20190402125249j:image

“It’s OK for me to be passive.”

「私は、手動的に行動してもいい」

私は対立を好まないが、対立することになるといつもタフに対処しないといけないというプレッシャーと促しを感じる。

だれか私に喧嘩を売ってきても私が男性だからという理由だけで戦うべきだと思われたくない。

 

Sam, Australia and the U.K.

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"It's OK for me to acknowledge that when we talk about ‘violence against women,’ we are talking about violence that is being perpetrated by men. "

「私は、男らしさの問題点を指摘する男であってもいい」

男中心のシステムを変える。その際に男が負うべき責任について話していい。

女性への暴力を話すとき、それが男によるものであることを認めてもいい。

 

 Bastien, France

 “It’s OK for me to be open-minded toward the relationships of men and women. Men and women can lead their lives on equal terms."

「私は、男女の関係で心を開いてもいい。男と女は、自分たちの人生を同じ条件で送ることができる」

 

あなたにとって

 “It’s OK for me”は?

 

それは、合理化や言い訳ではなく、完璧ではない自分を認めて受け入れることかもしれません。

 

男らしくなくても人生は十分楽しい。

いや、男らしくない人生の方が、より自由でより豊かで価値のあるものに溢れている気がします。

 

 

今日も何とか逃げ場を必死に探す、自己否定に弱い、30半ばのおっさんの話でした。

 

おしまい。