韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について日常から気づくことを書き残しています。思考の軸は、インドの哲人クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)。5年目ブロガー。21年冬Amazonペーパーバック出版。これからもぼちぼち続けていきたいと思います。コメントや批評全てご自由に。

目的と関係

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いかなる目的も

いかなる動機も持たずに、

誰かに接したことが、ありますか?



自分の利益と繋ぐため、

自分の話を聞いてもらうため、

自分のイメージを作り上げるため...

そういった、あらゆる目的や動機を持たずに、


誰かの話に自分の全エネルギーで耳を傾け、

これを話さなきゃ...と思うことなく、

心から共感したことが、ありますか?

稀に... 経験する親からのあれのように...。


動機や目的によって

作り上げられた互いのイメージ。


またその動機や目的によって必要になったり、

不要になったり、「私は傷ついた」と思う、

それが、本当に「関係」でしょうか。


それとも「関係」とは、

それらとは全く違う「何か」でしょうか。


…。

いかなる目的も、

いかなる動機も持たずに、

ありのままのあなたに接するとき。


自分が作り上げたイメージからではなく、

ただ単に、受け入れようとしたり、

又は、拒絶しようとしたりすることなく、

目の前にいる、

ありのままのあなたの姿を

ただ観察するとき。


そして、その観察から

自ら「自分自身」を見出し、

それを見つめるとき。

 


「関係」とは、まさにそのとき、

やってくる何かではないでしょうか。

 

その見出し、その観察の中で、

そしてその関係の中で、

自分の人生を生きていますか?...

 

あなたの関係は、

今、どこにありますか....?


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命とヴィーガン

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端に咲いた花。
きれいに植えられた並木。
小さい鉢の中のサボテン…。

植物は、そこがどこであれ、その居場所にこだわることなく、常に自分に与えられた環境をありのまま受け入れ、そして自分ができる全てのエネルギーを持って、生きていた。

また、あらゆる動物たちも、狭く汚い畜舎、効率優先の人工的なケージや機械的な工場…人間によって作られたあらゆる場所で、もしそこから一歩も出ることなく一生を終えることになるとしても...それを受け入れ、そこで育ち、子供を産み、子育てをしながら、懸命に生きていた。

「プレミアム・上等・セール・特別価格…」

人間が自分をどう評価しようが…、彼らは自分に与えられたあらゆるものをありのまま受け入れ、生と向き合っていた。そしてそこには、常にとてつもない生への懸命さとエネルギーがあった。

しかし人は、自分の居場所やあらゆる条件を、ありのまま受け入れることなく、それを絶え間なく何かと比較し、常に「より良い」ものへと動いていた。そして「より良い」ものへの「努力」、その努力がある限り… 現実(ありのまま)と理想(より良いもの)との葛藤がある限り、苦しみや悲しみが絶えることはなかった。

 

********

べられるために生まれる命。

雛から孵化するや否や、眩しい蛍光灯に照らされ、そのか弱い目を開けるや否や、一度も陽光を感じることなく、性別で無惨に殺される命。


親や自然から生きる術を学ぶことなく、生まれるや否や親と引き離され、狭いケージに閉じ込められ、果てしなく遠くへと移動する命。

そして死なない限り、決して自由になれない命。

無数の命が、一生、日差しをみることなく、陽光の温かさそして生きる喜びを感じることなく、飼育され、病気になり、物のように捨てられ、死んでいく。

生まれて何ヶ月後。

その命の多くが切断され、防腐処理され、笑顔の商品パッケージの中で、何日もお客さんを待っていた。そして賞味期限が近付くと、無表情と共に半額のシールが貼られていく。


その命、その生は、

そこで終わったのだ。

 

誰かの口の中で、

もしくはどこかのゴミ箱の中で…。


********


らは言った。
肉は人間にとって欠かせない、重要な栄養源であると。

そして都合の良いデータを持ち込み、人間にとってそれがいかに栄養的に大事であるか、またそれがいかに綺麗に管理されているかを、ありとあらゆる権威を借りて、力説していた...。まるで宗教のあれのように。

しかし、彼らにとって大事なのは、その正当性とデータの信頼性、そして彼らが抱える膨大なシステムであって、

決してその根源にある「命とは何か」「全ての自然にとって大事なのは何か」という問いではなかった。

また、彼らは肉を食べないことの危険性、栄養の偏りが招くリスクを並べることにも熱心だったが、決して「家畜」という一方的な観点を捨て、この繰り返される悲しみから「肉を食べることが、人間にとって本当に必要か」「繰り返される無数の殺傷と暴力が、本当に必要か」を真剣に問おうとしなかった。

「フレキシタリアン」
「ペスカタリアン」
「ベジタリアン」
「ヴィーガン」

多くの人がその単語が持つイメージ、それを語ることや実践することで得られる感情や感傷に浸り、流行のそれのように、関心を向け始めていた。

繰り返し流れる残酷な映像。
冷たいケージの中で涙を流す動物の目。
何度も蹴られ、起き上がれない仔牛…。

まるで人間のそれのように、人はその暴力や涙の意味を解釈し、感情を移入させ、その反動として怒りや憐憫を覚えていた。

そしてその怒りと憐憫は、何か新しい話題として、話のネタとして、気高い自己アピールの手段として、簡単にそして無意味にシェアされていた。

しかし命とは何か」「この美しい地球で共存する共同体とは何か」「いかに人間が自分中心的に生きているのか」「いかに人がそれを正当化したがるか」について自ら問い、見つめ、見出そうとする人は見えなかった。

 

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に目的があるだろうか?

家族のおかずになるために、友人との楽しいひと時のために...今もどこかで、特定の目的のために、命が奪われる。

家畜だから。
人間が生きるため。
生計のため。

手段を選ばず、暴力を繰り返し、それを一定の目的で正当化することの危険性に、目を向ける人はどれぐらいいるだろうか。

「平和」という目的を掲げ、それを実現するために行われるあらゆる暴力…。それによって導かれた状態が、はたして平和と言えるだろうか?

手段と目的は決して別個ではなく、手段が目的そのものではないだろうか。核兵器が暴力や恐怖をもたらすことはあっても、決して平和をもたらすことはないように…。


段の危険性に気づくこと。
目的への絶え間ない問いかけではなく、その達成だけを優先し、効率や金儲けだけを盲目的に追いかけることの危険性に気づく時、命とは、それらと私たちとの関係とは、その気づきの中にあるのではないだろうか。

その気づき、その関係からではなく、特定の主義(観念)から生まれた行動に、はたして何の意味があるだろうか?

 

気づきや自らの見出しからではなく、オーガニックやヴィーガンの著名人もしくはベストセラーの中にある刺激的な言葉や権威に感化され、その反動として権威や観念を受け入れること、

「フレキシタリアン」「ペスカタリアン」「ベジタリアン」…それでその観念の中で、好みの言葉を選び、自分をその中に閉じ込めることに、何の意味があるというのだろうか…。

 

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青々と広がる草原。

どこから来たか分からない、

その気持ちいい風には

微かなコスモスの香りが漂っていた。

 

あの無限に広がる雑草と

木々の黄緑の波の真ん中で、

空に指を突き上げ、

私は静かに何かを待っていた。

 

長いけど、少しもそう感じない

時間が通り過ぎ、

黄赤色の尻尾をしたトンボが、

指の上にとまった。

 

そのトンボは決して図鑑や

写真では分からない、

宝石のようなきれいな目で

私を見つめていた。

決して少しも警戒を緩めずに…。

 

細い脚の感覚が、

指から全身に伝わってくる。

 

それはトンボの脚であり、

あの風であり、

そして目の前に広がる自然

その全てであった。

 

そこには、決して教科書や

大人からは学ぶことのできない

何かがあった。

 

その時、私は決して…

「命とは何か」

「全ての自然にとって大事なのは何か」

を問わなかった。

 

それは… ただそこに…

私の目の前に... そして私の中にあった。

 

 lcpam.hatenablog.com

 

後記

「ヴィーガンですか?」
「お肉は食べないですか?」

よく聞かれる言葉です。
が、ヴィーガンでもなんでもありません。

 

しかし、どう説明したらいいか?
果てしない思考の末に

「... ええ。お肉は基本食べません」
と答えたりします。

 

説明ではないですが、
命とヴィーガンについて
少し長めの説教をw書いてみました。

 

比較と価値

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どきの服を身にまとった若い彼女は言った。

 「…本当は、今、自分が住んでいるここがあまり好きじゃないんだ」

「でも、東京や違う場所を旅して帰ってくると…やっぱり、ここがいいなと改めて感じるんだ」と。

 

彼女のまわりには、同じ服を着た友人が何人かいたが、しかし彼女の話に耳を傾ける人は誰もいないようだった。

 

彼女たちは、ひっきりなしにスマホを触りながら、そこから聞いた話、それを使った経験や人脈などの話を自慢げに、しかし控えめに話していた。

 

そして、コーヒーが無くなるやいなや、その話もまた次の場所へと移り行くだけのように思えた。

 ***

何かの価値を見出すとき、その価値に気づくとき。

そこには、常に「比較」があった。

 

「住んでいる場所」

「新しい職場」

「新しい彼氏や彼女」

「新しい小物やスマホ…」

そして「自分の過去にあったものや感情」…。

 

人は何かの価値を認識するためにと、絶え間なくそれに対比する対象を持ち込み、比較することで、いとも安易に、長所と短所を区別し、それを評価する。

その評価が、自分の先入観や過去の記憶の投影に過ぎないかもしれないということを考慮しないまま… 比較から見つけた長所や短所に目を向け始める。

 

そして、その片方を手にした今を… 自分が知っているあらゆる知識や経験、愉快もしくは不快な感情に合わせて正当化し始める。

 

「…あ、今(の)でよかった」

「…あ、前(の)がよかった」…。

 

しかしその正当化が、満足であれ、後悔であれ、それは依然として、比較からなる単なる正当化に過ぎなかった。一定の基準によって導かれた結果としての…。

 

***

かなる比較無しに、

何かの価値を見つけることはできるだろうか。

 

偏った価値観や過去の感情に縛られることなく、一時的な(今の)感情に振り回されることなく、その感情をあらゆる言葉で正当化することなく…。

 

何かの価値に「ありのまま」気づき、見つめ、それに深く感銘を受けることはできるだろうか。

… 何かのメソッドとして自己開発書を読むように、単に「比較してはいけない」というもう一つの知識、もう一つの信念として受け入れ、蓄積するのではなく…。

 

誰かの言葉、

過去の記憶、

自分の価値観… 

あらゆる比較から「自由」になる時、

その時。

 

窓から見えるあの景色は、

彼女にどう映るだろう…。

友達の話はどう聞こえるだろう…。

 

その時、彼女は初めて、自ら終わることのない比較の鎖を外し、眩しい景色を見つめ、そのとてつもない鮮やかさと生命力に驚き、また、語られる話の中にある微細な感情を汲み取り、共感し、それが意味するものを、自分の中から見出していないだろうか。

 

いかなる比較も、

いかなる正当化も、

いかなる基準も持たずに

何かに向き合う時。

 

価値とは、

その時はじめて現れるものかもしれない。

 

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(日記) 昨日と思考

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7:56

始発の電車と

色褪せた古いシート。

 

腕時計を睨む車掌と

スマホを睨む車窓の人。

 

四角いマイクから響く

丸く引き締まった声。

 

その声に合わせて蠢く

膨らんだお腹と

緩んだベルト。

 

そしてこの全てを見下ろす

キジバトの短い鳴き声。

 

昨日と違う今日が、

今から始まるというのに…。

 

あの古いシートのように

昨日が、自分の頭の中で、

ギシギシと音を出していた。

...

不愉快な事・愉快な事、

出来たこと・出来なかったこと... 。

 

それら全てについて

思い巡らすその思考が

まさに時間そのものとなって

自分をさらに思考へと導く。

 

「キーン... 」

 

過去の記憶でしかないその思考が、

浅薄な動きに合わせて飛び交う度に

忘れていた耳鳴りが聞こえてきた。

 

そこから逃げようとすればするほど、

まさに... その逃避が、

その思考、その束縛としての時間を

さらに際立たせるだけだった。

 

そうやって昨日の出来事や

それらへの感情だけが、

より大きくより色鮮やかになっていく。

 

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8:01

その全てとは無関係に、

... 古い電車は、

昨日ではない新しい朝を、

キラキラ輝く川と色鮮やかな木々、

それらに喜ぶ鳥たちの羽ばたきの

素晴らしさを、ゆっくりと映していた。

 

しかし私はその全てに気づくことなく、

昨日の中で、そして本の中で、

必死に昨日を追いかけていた。

…。

 

私の頼りない膝の上で

彼は力強い言葉で言った。

 

思考は時間であり、

時間が存在する限り、

新たなもの、

計り知れないものへの知覚も、

その時間による束縛からの自由もないと。


その言葉に頷きながらも、

私は背中で輝くあの眩しい朝に、

気づくことができない。

 

... 生は超時間的なるものが

ある時にのみ意味がある。

 

さもなければ、生は悲嘆であり、

葛藤であり、そして苦痛である。

 

思考は、人間のどのような問題も

決して解決できない。

 

なぜなら思考それ自体が、

問題だからである。

 

知識の終わりが、

知恵の始まりである。

 

知恵は時間の問題ではない。

それは経験、知識の継続ではない。

 

時間の中の生は、混乱であり、

そして不幸である。

 

しかしあるがままのものが、

超時間的なるものであるとき、

そのときに至福がある。

 

「クリシュナムルティ、

生と覚醒のコメンタリー(時間)」

 

... 9:00

四角いモニターを睨む人々。

そしてその全てを見下ろす人。

 

新しい日付とともに、

今日も、もう一度

昨日が始まろうとしていた。

 

(日記) 彼女と幸せ

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上の見えない建物と建物との間。

小さいベンチに腰を下ろすとどこか懐かしい、清々しいそよ風が、頬に当たって遠くへと消えていく。そして温かい日差しが本の上で、その影を落としながら踊っていた。

その昼、あの激しかった夏が…あのそよ風のように…どこか遠くの、過去のように感じられた。

12:32

ランチ時間でさえ、若いスーツの彼女は真後ろのオリーブ木や行き交う人々に気付くことなく、小さい画面の中で何かを熱心に探していた。


またその角には、紫色ワンピースの中年女性が古い鞄と同じく口を開けて空を眺めていた

 

あの素敵なそよ風と日差しとは対照的に、

そこには「人生の重み」がそれぞれの肩に重くのしかかっていた。そして彼女たちにとって「生きること」は、常に「闘い」そのもののように思えた。

...。


「家庭・学校・職場・新しい職場・新しい家庭…」

その繰り返しの中で、彼女たちには常に「常識」と言われる社会の偏見や先入観が、またそれらによって作り上げられた「こうあるべき」「こうしてはいけない」「役割」という無数の束縛が、人生に重くのしかかっていた。

 

「良い青年」「良い母親」「賢いキャリアウーマン」

時代や流行で言葉やシンボルは変わっても、彼女を取り囲むその「束縛」が、「自由」へと変わることは決してなかった。

しかし、ある日、彼女がそれに気づくとき。それで必死にそこから自由になろうとするとき。社会は彼女に「責任」「役割」「未来」「世間」「我慢」「生計」… ありとあらゆる言葉を突きつけ、それらへの努力を押し付けていた。まるでそれこそ、女性の「人生」で「幸せ」であるかのように…。

 

その形は違っても、彼女たちは同じ悲しみ・同じ苦しみ・同じ混乱の中で懸命に生きていた。そうやって彼女たちは、少女から青年へ、母親からキャリアウーマンへと、この社会が作り上げたその都合の良い役割に束縛され、そしてその束縛の中に閉じ込められた「幸せ」を本当の「幸せ」だと信じて、懸命にその役割を果たしていた。

… 生き生きとしたあの素晴らしい感受性が、そして「愛」への好奇心と憧れが…いつの間にか「役割」や「偽りの幸せ」に押しつぶされていく。

「部活・就活・婚活・妊活・保活・終活… 」

果てしない「〇活」の中に「成功」「地位」「安心安全」、あらゆる教育が、比較し、競争し、そしてそれを勝ち取ることを美徳として教えていた。

 

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***

女は言った。

心配性で自分では何も決められない同僚の彼女がかわいそうだと。

彼女は社会の固定観念にひどくとらわれていて、もしかしたら精神的な何かを抱えているのではないかと、心配そうに同僚について気づいたことを話していた。そしてそのせいで自分の仕事が、自分のストレスが増えたことを強調しながら。

 

しかしそれを話している間。

その真剣な語りとは対照的に、彼女は同僚の彼女と自分を分離し、何かの「安心」を見出していた。そしてその「安心」が、その比較による「安堵感」が、その話に力を与え、そしていつもの疲れを忘れさせていた。

 

それが同情であれ、非難であれ、その中に隠れた「快楽」に気づく人は多くなかった。

対象との比較によって見出される、強調される私の「安心」と私の「幸せ」… いくらそれが丁寧で配慮深い言葉で語られていたとしても、そこにもし「私」とその「比較」があるかぎり…そこには常に「快楽」が潜んでいた。

 

そうやって自分の言葉が「同情」から自己安心という「快楽」へと変わっていく。まただんだんその快楽が薄くなると、違う「より強い快楽」へとその話題を変えていく。

 

そしてその物語りはその主人公を変えながら、これからも絶え間なく続くに違いなかった。語られる彼女と、語る彼女を分離したまま。

 

… そう。その形は違っても、彼女たちは同じ悲しみ・同じ苦しみ・同じ混乱の中で懸命に生きていた。

 

「あなたの無能」「あなたの間違い」…

しかし、決して誰も、彼女の痛みを、自分の悲しみ、自分の苦しみ、自分の混乱として受け入れようとはしなかった。この果てしない束縛の中で生きていく同じ「女性」として、同じ現実に苦しむ自分のこととして受け止め、そしてそれに心から涙を流す人はいなかった。

 

そこには相変わらず果てしない比較と競争が、それらによって作り上げられた「女性として」の「(私の)幸せ」という壁が、高く立ちはだかっていた。そして、彼女はそれに気づくことなく、その壁の中で、その向こうにある他人の不幸と自分を比較し、そこから絶え間なく自分の「安心」を確認するだけだった。

 

語られる人と語る人との間に分離がないとき。

貴方の悲しみ、私の悲しみ…ではなく、

「一つの悲しみ」であるとき。

そこから「安心」を見出すのではなく、

「自分自身」を見出すとき。

その時、私は果たして同じ言葉を口にするのだろうか...。

それとも、ただ沈黙したまま…

果てしない涙を、決して「かわいそう」「心配だ」という言葉を付けない「涙」を流すだろうか...。

 

そのときはじめて…

ずっと忘れていた、生き生きとしたあの素晴らしい感受性が、そして「愛」への感覚がよみがえるとき。

 

彼女は壁の外で…

彼女に手を差し伸べているに違いなかった。

そしてその「涙」が、その「温もり」が、「愛」であり、「幸せ」であることに気づくに違いなかった。

 

...。

  

lcpam.hatenablog.com

 

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(日記) 台風と涙

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風の前日。

車のワイパーが視界を変える度に死角から車と人々が現れた。

その日、大型モールの駐車場は、雨と車でいつもよりもごった返していた。

 

光る「満車」や使い古しのフェンス、そして慣れた動作で車を誘導する人。

 

嘆息と諦めを感じる間もなく、まるで思考のそれのように車は次の目標である「より良い場所」を機敏に探し求めていた。

そしてある程度それに成功した時、あの「嘆息と諦め」は、自分が見つけた場所とそのタイミングへの「感嘆」に入れ替わっていく。

 

「おもちゃさえ買ってあげれば...」

幼児二人を連れての買い物。出発前の楽観論は店に足を踏み入れるや否や、忘れていたいつもの悲観論に変わっていた。

 

「◯◯してはいけない」

「常識」と言われる無数の圧迫が、「親の責任」という無言のルールが、親の肩に重くのし掛かっているその間に


子供たちは、まるで遊園地のそれのように大声で興奮し、あらゆるものを触っては落とすことを繰り返していた。

 

「今日は◯◯をしないといけない」

その全てを前にし、予め考えていた理想のプランは、一瞬にして「はやく帰りたい」という一つの願望に変わっていく。その中で、買い物は必然的に必要最小限になっていった。

 

静かな店舗のど真ん中を大声で走りまわる息子を、敢えて大きな声で責めながら追いかける私。また、妻は見えない角で泣き崩れている娘を、必死に慰めていた。

 

仕方なく二人を妻に預けている僅かな一人時間。簡単な品選びさえも... 製品パッケージを何度も読んでも、その意味が理解できずに時間だけが過ぎていく。


そうやって妻と私は、互いのタイミングを図らい、子供の面倒を片方に任せ、最短時間で買い物を済ませ、逃げるように店を後にしていた。

 

「どうしてこんなに大変だろう」
「どうして我が子たちはこんなに無茶なんだろう」誰もが口にするその言葉。


しかしその思いが、その思いへの感情が、自分の視野を狭くし、(まわりへの)気づきを鈍くしていることに、私は気付いていなかった...。

 

そして、あの小さい子供に向かって何度も苛ついている自分に気づくたびに、

それを妻と子供たちが黙々と受け止めているたびに、「ちっぽけな自分」という気づきが、痛いほど鮮明に跳ね返ってくる。

 

しかし、私はその気づきを「ありのまま見つめること」ができずに、あの気短な歩幅のように、そこから目を背け、駐車場に向かって逃げるだけだった。


***

を叩く風の音で目を覚ました夜中のベッドで、息子は笑いながら楽しい夢を見ていた。


窓の外では、風が柿の木を激しく揺らし、雑草畑を何度もなぎ倒していた。

鳥やカエル、時々見かけるイタチたちは、きっと何処か安全な所で家族を守っているに違いなかった。

 

また、彼らは次の日には何事もなかったかのように、生きているに違いない。そして「生きること」は、きっとそういうことであった。

 

それは決して「今日は◯◯をしないといけない」という願望としてではない、記憶や知識では感じ取れない「常に新しい」ものとして存在するその「何か」であった。

...。

 

そのとき、窓の後ろで聞こえる「息子の笑い声」が、薄暗い寝室を明るく照らしていた。

 

私が思わず、その丸い顔を撫でるとき、

「これ以上、必要なものは何もない」という気づきが、揺れる視界、それが「涙」であることを静かに教えていた。

 

後記: 

子供を、特に幼児を連れていく買い物。
皆さんはプラン通り行きますでしょうか?

台風の前日、大型モールで感じた日常を、
独特の哲学wで回想してみました。


少しでも共感できる内容があれば嬉しいです。

それにしても「子供の寝顔」は、
やはり格別だな〜と思う親バカwです。

(日記) 障害と気づき

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信号待ちの横断歩道。

… 彼は助手席で笑っていた。

 

しかし彼の外見から
思考が「障害」と言うやいなや

 

「大変」
「苦労」
「苦しみ」
「障害をもって生きること」…。

 

常識という偏見と結論、
知識と経験を呼び起こすやいなや

 

思考は瞬時に
無数の言葉とイメージを作り出し、
それを通して対象を見つめていた。

 

… しかし
今、目の前の彼は
それらとは全く無関係に

 

いかなる悩みもいかなる葛藤も
持っていないかのように

 

言葉では表現できない
素敵な笑顔で笑っていた。

 

それはまるで幸せそのものが
まわりに滲み出るような笑いだった。

 

そしてその隣には
黒い肌の大柄の中年男性が
ハンドルを片手に
彼を優しく見守っていた。

 

その優しさに包まれながら
思いっきり笑っていた彼は
突然、横断歩道の前で
微笑んでいる私に気づいた。

 

彼は何か恥ずかしそうに
後ろに隠れたが、そこには
見知らぬ人への警戒感は
全くなかった。

....。

 

「対象への観察」と
「観察から生まれる思考の動き」

 

一秒、一分、一時間、
その時間とは無関係に

 

けっして膨大な経験や時間では
得ることのできない気づき。

 

生まれて死ぬまで
果てしなく繰り返す
「目標への努力」のように

その膨大な時間とエネルギーの
積み重ねのような

何かの結果として得られる
ものではない気づきがある。

...。

 

「観察(思考)するものは、
観察(思考)されるものである。
j.krishnamuruti」


・・・「障害」

その気づきの中で

本当の「障害」は、
笑っている彼ではなく

障害という目で
対象を見つめる、
自分自身であった。

(日記) 散歩と瞑想

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重い玄関のドアを開けると、思わず手を上げたくなるような日差しが、セミの鳴き声とともに激しく地面に注いでいた。その向こう側には、丁寧に描かれた漫画の1コマのような積乱雲が、不自然に電柱に掛っていた。

娘のおねだりで重い腰を上げて出てきた外は、その思いのせいか、予想よりも遥かに暑かった。湿った風に揺れるアスファルトの陽炎で、目まいがするほどの熱気を感じながらも、不思議にも、娘と繋いだ手は少しもあつくなかった。それはどちらかというと「温かい」に近い気持ちいい熱さだった。

 

「こっちだよ!こっち!」
「はやく!はやく!」
アスファルトの照り返しが全身に伝わる真夏のど真ん中を、全く気にもせず、三歳の女の子はそのたくましいステップで大人を引っ張っていた。

 

「クルマ!!」「あ!あぶない!」
その高い叫びと同時に道端に走っていく姿、そしてけっして繋いだ手を離さないその何気ない姿を見た時、「時間」はその意味を失い、止まっていた。

その不思議な感覚に、私が驚きと感動を味わうやいなや、思考は「今しか見れない大切な瞬間」と、それを言語化・記憶化しようとしていた。そしてその言語と記憶が、止まっていた時間を再び流れさせた。

 

けっして見たことのない青さで透き通っている空、直視できないほど輝く桜の葉っぱ、燃えるように揺れる道路、黒いキジバトの影、遠くのエンジン音、微かな花の香り…その全ての中で娘との10分足らずの散歩は、自分にとって十年もしくはそれ以上に重くリアルに「今」という存在感をもって激しく目の前にあった。

 

それを感じた時、「三十九」と「三」という数字はその意味を無くし、そこにはけっして記憶や経験として蓄積できない、けっして思考によって呼び起こせないという気づきがあった。

日常での些細な気づき、私と呼ばれる自己(自我)によって呼び起こされることのない、ただ思い浮かぶ、その受動的に訪れる気づき、その気づきが感受性であり、「瞑想」である。

…。

 

瞑想とは、お寺や寺院やモスクなど特定の場所や特定のやり方を固執することだろうか。また、神のお言葉や特定の霊的指導者の教えに従い、苦しいポーズや断食などを行うこと、そしてそのあらゆる段階的努力をもって、特定の到着点に向かうことだろうか。

ジムに通うように、一時間三千円の座禅コース体験やそういった何かのビジネスとしての物々交換で得られる何かだろうか。

ヨガマットの上で誰かをマネすること、それによってリラックスする心地よさや喜びで感じる癒しや慰め、それを繰り返したいと願うその願望のことだろうか。

それは「そう、この感覚だ。これこそ瞑想だ!」と言うや否や消えてしまう何かであり、けっして特定の感覚を呼び起こしたり、自分の意思によって選択せず、毎回新しい気づきがあるだけではないだろうか。

それは、けっして専門技術のように、トレーニングによって一定のレベル達することでも、学位や資格によって得られる何かの結果でもない。また、「悟り」や「サマーディ」「自己超越」、あらゆる言葉で表現される何かに到達するための理論の手段やノウハウ、また古くからの言い伝えの解釈やその果てしない修正によって得られるものでもなかった。

瞑想が特定の理論や特定の権威に閉じ込められるや否や、それは今という日常から離れ、ちっぽけな理論の一部として、特定人物の自己満足やその「無知の押し付け」としてとどまるだけである。

 

あらゆる理論やノウハウを疑い、到達点など何も求めることなく、ちっぽけな自分の知識で解析したり、分析したりすることの無意味さに気づき、その気づきをもって自らそれをやめるとき、そのとき自分に何が起こるだろう。

 

そのとき、目の前に広がる風景、あらゆるものがとてつもなく色鮮やかになり、その存在感と同時に生命力に溢れ始める。その中で「気づき」や「瞑想」という言葉は何も重要ではなくなる。

ただ、自分を引っ張るあの温かい手の感触が、とてつもなく強烈に感じられるだけである。

そして私は思わず、あの小さい手を強く握りしめていた。

 …。

 

青く高いセミの鳴き声を背景に、娘は真夏の日差しより眩しく、そして温かく輝いていた。その時「人生は今をもって全てであり続ける」。

 

 

... 「ありがとう」。

言葉ではない何かが、頬を伝って胸の奥に落ちていく。

生きるために生きる。

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真夏の昼下がり。

窓を開けると、日差しより少しさわやかな風が頬を伝って向こうに流れていく。

目の前には、高い雑草がしなやかになびいていて、その上を紫色のトンボが風に逆らい、まるで止まっているかのように、飛んでいた。

柿の木の下には、蝉が動きもせず横たわっていて、その前を小さな虫やイモリが行く道を急いでいた。

庭の隅で疲れ切ったように葉っぱを垂らしているトウモロコシ。突然現れた黄緑の蝶は、その派手な羽ばたきで、自分の絶頂期を懸命に生きていた。

狭い庭であれ、広大な山々であれ、自然はけっして互いを批判し、対立することなく、共存する方法を知っていた。

茂った雑草や害虫、その他諸々が問題になるのは自然の中ではなく、常に人間の中である。

あらゆる昆虫や動物、そして自分の名前に無頓着な雑草たちは、調和や共存を学ばなくても自らそれに気づき、その気づきの中で懸命に生きていた。

「生きること」が「目的そのものである」とき、「生」にいかなる分離もないとき、「生きること」はそれ自身をもって調和(共存)であり、美であり、愛であり続ける。

 

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… 「生きること」って何だろう?…

 

それは、朝起きて朝食を取り、出勤をし、仕事をこなし、暗くなったら家に帰って夕食を食べ、子供や家族の面倒をみたり、少し休息を取る、そういったことだろうか?

一ヵ月後であれ、何十年後であれ、けっして終わらない「未来の目標」に向かって勤勉に努力を続けること、やがてそれを達成する、その繰り返しのことだろうか?

その努力に疲れ、少し休みを取って余暇や娯楽を楽しみ、またその繰り返しに戻ること、「より良い生活のため」と言い、いろんなものを買い込んでそれに囲まれて満足することだろうか?

それとも、特定分野のスキルを取得し、専門家というステイタスに上ること、それで生計に困らない経済的・心理的安心感を見つけ出すことだろうか?

家・車・ブランド、所有物や年俸を優先し、常に「よりよい」ものへと動くこと、またはそういった物を手放すことで何かが得られると思い、「無所有」「ミニマリスト」に走ることだろうか?

CEO・COO・CFO・理事・会長・代表取締役・教授・首相等々言葉やイメージによって作り上げられた社会的権威(指導者)になり、多くの人の上に立ち、そして虚しい笑顔で謙虚さを装うことだろうか?

もしその全てが「生きること」なら、その人生は他人と何が違うだろうか。

その判で押したような生き方、この社会に適応しようと努め(子供にそれをおしつけ)、それによって生まれるあらゆる葛藤で苦しむこと、それでそこから逃げたり、傷ついた自分を慰めたりする日常の繰り返しが、本当に「生きること」だろうか。

「生きること」とは、それらとは全く違う「何か」ではないだろうか。

…。

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「遊び」って何だろう?

「健康促進のために」と何かの目的をもって遊ぶことをはたして「遊び」と言えるだろうか。

無垢な子供を観察すれば分かるように遊び」とは、ただ何かを達成するための手段ではなく、「ただ遊ぶため」として行動となる。

「ただ遊ぶために遊ぶ」とき、そこには目標と手段としてのいかなる分離もなく、ゆえに比較も競争もない純粋な「遊び」だけがある。

そのとき、子供の中には、その行為を心から楽しむ、無垢な「何か」が現れるのではないか。

 

… 生きること。

 

「余暇・娯楽」

「成功・出世」

「安心・安全」

「所有・無所有」

「権威・指導者」

ありとあらゆる目標を掲げ、それに向かって努力することが、本当に「生きること」だろうか?

目標があるとき、「生きること」はその目標を達成するための手段になるのではないだろうか。

そして、その目標を失ったとき、目標を得られないと感じるとき、恐怖や不安に怯えるとき

人はその手段としての「生」に絶望し、自ら「生きること」を放棄するのではないだろうか…。

 

最愛の子供を亡くした親にとって「生きること」は、そういった目標や所有とは無縁の「何か」、子供が「ただ生きていること」だけではないだろうか。

 

「生きるために生きる」

 

「生きること」が「目的そのものである」とき。

「生きること」が、目的や手段として分離されないとき。

そのとき「生きること」は、それ自身をもって調和(共存)であり、美であり、愛であり続ける。

 

その「愛」の中で、子供や妻や夫 … あらゆる対象を見つめるとき、そこに全く違う関係、全く違う生き方が現れるのではないだろうか。

そして、それが「生きること」ではないだろうか。

 

 …   今、あなたは生きていますか?

(日記) 幸せと足跡

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気持ち良い風が吹く朝。久しぶりの陽光を喜ぶかのように、アゲハチョウが畑の上を優雅に飛んでいた。そしてその羽ばたきに合わせるかのように、雑草が風に揺られてなびいていた。

 

「あ!アゲハチョウだ!」

私の声に、飛び出してきた息子が大きな窓の前でアゲハチョウを注意深く眺めていた。そして先までの雨が嘘のように、雑草は色鮮やかな生命力に満ち溢れていた。

 

その朝、有り余るほどのパンを見て笑っている子供の無垢な笑みが、時間に追われ、食事を急かすいつもの平日では贅沢のように思えた。

 

アイスと引き換えに付き合ってもらった自然食のお店で、二人は飽きもせずはしゃぎ回り、行く所々に、足跡のようにその無垢な笑みを残していた。

…。

 

まっすぐ伸びた巨大な竹の木、秩序なき秩序の中で茂っている名もなき木々。どこまでも続く黄緑の田んぼの海が色鮮やかに光り輝いていて、山々の頂には透明な白雲が静かにかかっていた。

 

「バカ・ウンチ!!」

息子の言葉に弾くような笑い声が車窓から溢れ出す。そのとき、私は決して「幸せ」について悩み、追い求めていなかった。

 

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「幸せ」とは何だろう。

 「幸せ」は、記憶や知識、あらゆる過去から思い起こされた一つの観念だろうか。

 

「幸せ」が観念になるや否や、目標やその目標を達成するための努力が問題となる。そして「経済的成功」のように人生における「精神的成功」として、達成すべき気高い目標(価値)として現れ、人を支配し始めるのではないだろうか。

 

目標とその目標を達成するための努力。人生論・宗教論・哲学・心理学・スピリチュアルに至る… あらゆる専門家とあらゆる書籍が、幸せへの「努力」とそのための「HOW TO」や「メソッド」を掲げる。

 

「こうしなさい」

「こうしてはならない」

「幸せは〇〇〇にある」

そして「私(指導者)は知っている」…。

 

その中で「幸せ」は、

もう一つのイメージとして、もう一つの達成すべき目標として、さらに区別・分離され、他の問題がそうであるように「もう一つの知識」として、ただ蓄積されていく。

そして「幸せ」は、自分が「不幸」だと感じれば感じるほど、より色鮮やかで、より魅力的な目標や羨望として自らを変えていく。

 

「幸せ」という言葉への自分の偏見と先入観に、そして絶え間なくそれを達成しようと努力していることに気づくとき。

その努力が、絶え間なく「不幸と幸せとの区別」を生み出していることに気づくとき。

「幸せ」もまた「過去への気づきの一つ」に過ぎないということに気づくとき。

 

その気づきという自由の中で「幸せ」は、

決してその言葉に縛られることなく、

あの足跡のように「常に新しい無垢な笑み」を、

日常の中に残すかもしれない。

 

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【抜粋】新しい心で人生と出会う

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私たちの多くが熱心に受け入れ、当然と思っていることの一つが、信念の問題であるように思われます。何も信念をこぎおろそうとしているわけではありません。

私たちがしようとしているのは、なぜ自分たちが信念を受け入れるのか、その理由を掘り出すことです。


そして信念を受け入れる動機、原因を理解できれば、自分たちがなぜそんなことをするのかが理解できるばかりではなく、ことによったら、それから自由になれるかもしれないのです。

政治的並びに宗教的信念、国家主義的信念、その他様々なタイプの信念が、いかに人々をバラバラにしていることか、いかほどの対立、混乱、敵意を生み出していることかーこれは紛れもない事実ですーは分かります。しかし、それでも私たちは信念に見切りをつけようとしません。

ヒンドゥー教の信仰があり、キリスト教の信仰があり、仏教の信仰があり、数えきれない程の宗派、国家の信条があり、様々な政治的イデオロギーがあり、そしてその全てが戦い合い、相手を自分の方に引き込もうとしています。

信念が人々をバラバラにしているということ、偏狭さを生み出しているということが手に取るように分かります。


では、信念なしに生きることは可能でしょうか?
信念とのつながりの中で自分自身を注意深く観察できさえすれば、それを見出すことは可能です。

一つの信念も持たずに、この世の中で生きていくことは可能でしょうか?
信念を変えるのでも、一つの信念を別の信念に置き換えるのでもなく、あらゆる信念からすっかり自由になり、その結果、一瞬ごとに新たなる心で人生と出会うことは可能でしょうか?

あらゆる物事に、一瞬一瞬、条件づけをもたらす過去の反応を交えずに新しい心で出会い、そうすることによって、自分自身とあるがままとの間の障壁となる累積的な影響を受けないようにする力を持つこと、つまるところ、これが真理なのです。

【四季の瞑想 クリシュナムルティの一日一話(2月13日)・こまい ひさよ 訳】

雨と沈黙 : 恐怖なしに生きる。

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*七月の空と海風。

 

「雨の予感」を説明するのは難しい。

それは、風の向きや激しい雲の流れだけでなく、そこに、いつもと違う独特の空気、そして沈黙があるからである。もちろん空気も必ず湿っているわけでも、カラッとしているわけでもない。それは決して数式や条件など何かの公式によって導かれるものではなく、刻々変わりつつある何かへの刻々の知覚である。しかし、なぜか人はそれを感じ取り、こう呟く「あ、…雨が降りそう…」と。

振り返ると、その知覚には常に沈黙がある。

庭の草の沈黙。ぬるい時には冷たい風の沈黙。蝶の羽から伝わる緊張の沈黙。茂みの中のカエルの沈黙。遠くの山々が雲を運んでいく壮大な沈黙。帰路を急ぐ鷹の羽の沈黙。

そしてその全てを見つめ観察する私の沈黙。

その雨に、全ての注意を払っている、そのほんの一瞬。

思考はその沈黙をもって、時間(思考)から自由になり、その時初めて、思考の外側(時間ではないものの中)で、それら全てに気づくことができる。

しかし、常に多忙な日常の中で、その沈黙に出会うことはごく僅かである。素晴らしい夕日を眺める、その僅かな瞬間でさえ、思考はそれを昨日もしくは思い出のと比較し、自分が作り上げた過去のイメージを通してそれを眺める。そして「そういえば、あの時の夕日は素敵だったな...」と考える。

イメージ(過去)を通してモノや人を眺めるとき、人は決して目の前の対象と向き合うことができない。その時、向き合っているのは現にあるモノではなく、自分自身のイメージに過ぎない。日常で時々遭遇する僅かで貴重なその沈黙は、そうやって一瞬にして消えてしまう。

しかし、私たちの日常において思考はいかなる手段よりも強い力を持っている。思考は、成功や目標を達成したいという自らの野心を叶う手段として経験(過去)をその拠り所とし、常に自分を今と未来(目標)とに分離させる。またそれ自身の動き(時間)の中で、願望の実現のために独裁者のように拳を突き上げ、自分を奮い立たせる。しかし、思考は決して彼自身が、独裁者(非行為者)であると同時に愚かな民衆(行為者)であることに、気高く掲げたあらゆる目標や願望その全てが自分を苦しめる葛藤と苦悩の源であることに気づかない。


「〇〇になりたい」
「〇〇であり続けたい」…

死ぬ瞬間まで(もしくは死後も)自分を突き動かしているその願望。

思考を忍耐強く観察すると、思考は決して「無」からは生まれないこと、また願望には必ず「恐怖」が存在することに気づく。

 

失敗への恐怖がないとき、人は「成功」という「願望」を必要とするだろうか。

「絶望」が存在しない時、はたして「希望」が必要だろうか...。

思考において成功への願望には必ずそれを失う、もしくは失敗する恐怖を内包しているのではないだろうか。

 

大学への合格、事業の成功、良い結婚と育児、良い父親や母親、そして心理的な達成や克服といったありとあらゆる願望。その裏側に潜む未獲得や未達成の恐怖が、人を願望に突き動かす原動力ではないだろうか。しかし、恐怖がないとき... はたしてその願望が居場所を持つだろうか。... それに気づくとき、目の前にあるその問いは、「いかにして願望を達成(成功する)できるか」ではなく、「いかにして恐怖なしに生きるか」に変わる。

 

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「恐怖なしに生きる」

育児・仕事・人間関係・キャリア・家族・老後・趣味・健康・介護・宗教... あらゆるもの、あらゆる対象を抱えているこの日常を生きる私たちが、はたして恐怖なしに生きることができるだろうか。

それは、仏教やインド宗教、キリストなどで掲げる「無願望」「無所有」「無限や不朽の愛」といった何かの思想や概念ではない。もしその思想や概念を注意深く観察すれば、その思想を実現しようとする行為こそ「もう一つの願望」であることに気づくかもしれない。

仕事や収入を失う恐怖。
妻や子供、家族を失う(絆が壊れる)恐怖。
立派な大人や親になれない恐怖とそれを非難される恐怖。
社会的成功や地位が得られない恐怖。
癌やボケ、あらゆる病気と死の恐怖。
天国や地獄…来世で幸せに暮らせない恐怖。

思考は、決してその無数の恐怖を作り出しているのが他ならない自分(思考)であることに気づかない。また、その恐怖をありのまま見つめようとせず、「願望」で覆い隠し、それを叶うべく未来への「努力」を通して恐怖からの逃避を試みるが、思考(源)が存在し続ける限り、恐怖は絶え間なく生まれ続け、決して消え去ることはない。

にもかかわらず、思考は自分が恐怖そのものであることを決して認めない。そしてその二元性(分離)が全ての葛藤や苦悩を引き起こす原因となる。

思考の動きは、それ自身の動きをもって、自分に「時間」という絶対的な感覚と同時にそれによる限界をもたらす。絶えず目標や願望を作り出し、それらへの努力を行う過程、つまりその心理的時間の中で、人は自分が作り上げた時間を、時には物理的時間と混同しながら、何の疑いもなく、それに縛られて生き、そして死ぬ。

その中で、人は必然として現れる苦悩と葛藤という事実に直面し、その苦悩と葛藤を「快」と「苦」に分離させ、苦」だけを取り除く手段として、ブッタ・イエス・フロイト・デカルトその他◯◯◯…「哲学」「宗教」「心理学」ありとあらゆる過去(知識)にすがり、そこから自分に都合の良い教えや手段を見出すが、その過程もなお、日常を生きるその思考と同じものに過ぎない。

 

人間が充分に生きることができないのは彼が死を恐れるゆえである。

そして逆に言えば、彼が死を恐れるのは充分に生きないからである。- ルネ・フェレ -

(クリシュナムルティ 懐疑の炎(大野純一訳))

........

 

そうやって私が自分の思考にとらわれている間、突然雨が降ってきた。その雨は全てを呑み込みそうな勢いで、あらゆる場所に激しく降り注いでいた。

私は窓を開け、まだ工事中の庭を心配そうに眺めた。そして自分の足が少し泥で汚くなっていることにイライラを感じていた。

同じ時間、違う場所では多くの避難民が屋根の上で救助を待っているというのに... 。

 

恐怖なしに生きる........。

その言葉に、私はただ、

沈黙することしかできない。

(日記) 不在と父親

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2018
2019
2020…。

いつからだろう。
正確には覚えていないけれど、

年末のカウントダウンで感傷に浸ることも、除夜の鐘で目標や意志を改めることも、全て無くなっていた。それは今年からいきなりというより「… 振り返ると、そうなっていた」に近い感覚だった。

自分の記憶と感情は、過去の映像で編集された恒例の思い出番組みたいに、都合よい記憶と感情だけが思い起こされていた。

派手な映像と音楽。その無意味な祭り騒ぎが、過去への感傷がまた新しい願望として正当化されていくのを、ただ覆い隠しているように見えた…。

「3!2!1!… ハッピーニューイヤー!」

歓声を上げる群衆を背景に新年を伝えるアナウンサーの複雑な表情。テレビの前・部屋の中・夜中のコンビニ・神社の一角・高い山々の頂上… ありとあらゆるところに、その「何か」は存在していた。いや、正確に言うと「そう感じている自分がいるだけ」だが。

…。

正確には覚えていないけれど、
「… 振り返ると、父親はいつも不在だった」

彼が家にいるときはそれは長い旅行の休息か、それともその長い旅の前日だった。だから、私の幼年時代に父親との記憶はない。

無責任な行動や浮気、返す当てもないローン、念願のマイホームを担保にした消費者金融、数えきれないほどの督促と喧嘩…。

40年前の80-90年代の世界がそうだったように、私の幼年時代は決して明るいとは言えない、薄暗く湿った感触のような思い出で埋め尽くされていた。

それから、ちょうど父親が今の私の年齢になったとき、突然彼は「良きパパ」を演じはじめた。

彼は十年以上の空白は気にもせず、料理をしたり、キャンプやプールにつれて行ったり… まるでこれまでのことを挽回するかのように振る舞った。しかし、それは表面的にとどまり、決してその深くに存在する「空白」を埋めることはできなったし、その方法も彼は知らなかった。

そして、彼は最後まで一度も「父親とは何か」と真剣に問うことなく、それについてあらゆる知識から学ぼうともしなかった。ただ唯一彼が信じている「自分の中の父親」という役割への羨望が、間違っていることに気づくことも、またその無知による愚かさを、ありのまま知覚することもできなかった。

自分の人生と相反するその説教と行動に、常に「二重性」を感じていた子供たちにとって、その行動がその空白を埋める手段になることは決してなかった。

にもかかわらず、彼は世の父親がそうだったように、常に「強い父親」「揺ぎ無い信念を持つ男」であろうとした。その願望が、ただ自分が描く幻にすぎないということに気づくこともなく...。

「彼がその無知から逃れることはない」
そう気づいたとき、私は心の中で「父親」を捨てた...。

やっと手に入れたマイホームが家族の意思とは関係なく、しかも暴力的な手段によって失われたとき。私は片手にローンの督促状を、片手に離婚届けを持って冷静に母に向かって離婚を話していた。彼にこれ以上家族が振り回されたくないと誓ったとき、私はまだ18歳の高校生だった。

「父親の不在」

貧困層にとって日常は生計との闘いそのものだった。離婚後、非行に走る弟を母親が必死に説得する日々が続いた。


「何があっても、あなたは諦めない」
苦労の深さだけ家族の絆は深かったが、絆と貧困はそれぞれ違う現実として互いに無関係に存在していた。

「結婚式」

私は、自分の結婚式に「親として二人で祝ってあげたい」という母の願いを伝えるために、パートナーと一緒に15年ぶりに父親の新居を訪れた。

彼は、15年前と同じく彼自身が置かれた立場や状況を把握することが出来ず、相変わらず幻の中で今と過去を解釈していた。

私の話に、再婚相手との同席が当たり前だと語るその姿は、昔も今も何一つ変わっていなかった。そして、私はデジャヴのように「これが父親との最後の日になる」と気づいた。

彼は、その正当化と執着が、パートナーやこれから生まれる孫… ファミリーという大切な絆、その全てを失くしていることに気付いていなかった。

きれいな部屋とリビング、こまめに管理されている透明な水槽の魚。時々再婚相手と笑顔で話を交わしている彼を、私は決して動揺せず、何の感情も起こさずに静かに見つめていた。

その父親と呼ばれた彼の頭の上に、聖母マリアが赤い涙を流しながら私を悲しい目で見つめていた。

******
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「父親とは何だろう?」

ケヴィン・ハート(アメリカの俳優・コメディアン)が言っているように、子育てを決めるのは「その環境」である。

間違った子育てを繰り返しているのは、親本人が間違った子育てによって育ったからである。しかし、だからといってそれを言い訳にし、自分の行動を正当化したいと思うなら、それこそ間違いであることを、果たしてどれぐらいの親が自覚できるだろう。

多くの父親が、自分に閉じこもったままちっぽけな視野で人生を見、ひとかどの者・野心家になろうと社会的・道徳的「成功と願望」を追い求める。それに「時間・金・エネルギー」を注ぐことを「信念」や「人生哲学」と呼び、またそれを揺ぎ無く貫くことを「人生のロマンや価値」と見なしていないだろうか。

ルーティンな長時間労働と無意味な飲み会。ゴルフやその他数えきれない付き合い。「人脈」や「ネットワーク」という響きの良い言葉で覆い隠された「合法的な趣味」の数々。その陰で家族との絆が壊れ、妻や子供が傷ついていく。さらに、この全てをありのまま見つめようとせず、狭い視野の中で、それでも自分は「マシな父親だ」と思いたがる。しかし、あらゆる暴力においてもっとも危険な行為は、行為者のその「無知」「無自覚」ではないだろうか。自覚の無い暴力は、防ぎようがなく、ただただ繰り返されるだけである。父親にとってその無知こそ、暴力で犯罪である。

 

前科者であることは恥ではない。

犯罪者であり続けることが恥だ。

- マルコムX (1925 – 1965)-


「良き父親になろう」
「尊敬される父親・夫でありたい」


洒落たポーズや写真で育児を語る有名人の記事を読む時間はあっても、子供の不満話をじっくり考えるほんの少しの余裕もない父親。

子供やパートナーと向き合うことなく、育児マニュアルやベストセラー…〇〇専門家が語る答えを探すことだけに精一杯である父親。

現実をありのまま見つめず、解決すべき問題やミッションとして捉え、解決する方法やその手段を崇拝する父親。

問題集に挑む受験性のように、あらゆる実例から導かれた、解決のポイントを、我が子に適用させることだけに夢中な父親。

そういう父親であり続ける限り、問題解決のための答えを探し続ける限り、その答えは、社会的成功者が語る二頁足らずの記事の中にも、テーブルを囲んで親子の話を聞いているその専門家の言葉の中にも、あらゆる育児手引書やあらゆる団体の中にもあり得ない。

大事なのは「答え」ではなく、
また「答えはない」という性急な結論でもない。

それはただ、子供や妻の話に本当に向き合い、耳を傾け深く気づくこと。そしてその気づきから「正しい問い」を見出すことである。

「正しい問いがあるとき、答えは既にその問いの中にある」ように…。

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lcpam.hatenablog.com

lcpam.hatenablog.com

 
参考映像「ドキュメンタリー」
ケヴィン・ハートのやらかした!?
父(シーズン1 エピソード2)
https://www.netflix.com/jp/title/81010817

暴力と平和

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Malcolm X / CBC Radio · 

https://www.cbc.ca/radio

 

独立する方法は1つ
他人に頼るべからず
自分の手でつかめ

誰も独立をくれない
誰も自由をくれない
平等も正義も
他人からは得られない

人間ならば自分でつかめ
できぬなら得る資格はない

- Malcolm X, 1925.5.19 - 1965.2.21 -

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#blacklivesmatter

https://blacklivesmatter.com/


Black Lives Matter
African-American Civil Rights Movement

私を含む殆どの東洋人は、アメリカで黒人であることの意味を、彼らがどんな思いで人生を生きているのかを知らない。そして同じく彼らもまた、日本・韓国・中国・インドなど東洋を囲む長く重い歴史の影と伝統の中で生きることについて理解できない…。

今もなお、どれほどの黒人が、民主主義を装った拝金主義、政府のプロパガンダやそれによる不条理な法律、巨大な刑務所産業を掲げて堂々と気高く正義を語る政治家によって合法的に抑圧されているかに目を向け、その意義を見出そうとする人はあまりいない。

…。

 

全ての「命」において「選択」はない。そして全ての「生」において命は、必ず「存在し得る全ての選択の外側」にのみ存在する。だからこそ、全ての命は平等であり続け、同じ尊厳をもって受け入れられるべきである。
それは決して遺伝子・出身・言語…あらゆる環境の違いに左右されない何か。人が語り得るもの「それら全ての外側」で成り立つ「何か」であり、あらゆる言葉、あらゆる法律や憲法、いかなる手段を用いても説明することができない。命は、全ての表現の外にある「何か」、あらゆる環境の「違い」や人間の「理解」を超える「存在」そのものである。

…。

【暴力】【デモ】【人種差別】【Black Lives Matter】

しかし、普通の人にとって「命」とは、決して直観的には感じられないもの、それはただスマホの中に存在するニュースの話、有名政治家のまわりに付き纏う「遠い国の揉め事」それ以上もそれ以下でもない。

【パワハラ】【賃金格差】【コロナ疲れ】【育児休暇】

そう、私の目の前には常に「遠い国の揉め事」より遥か身近な問題、乗り越えなければならない「巨大な日常」という壁が、とてつもない威力を持って立ちはだかられているのである。
...。

 

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「暴力」とは何だろう。

それは単に、「被害者と加害者の関係」の中に限られてしまうものだろうか。目に見える殺人や事件、そして暴言やイジメ問題に限られたものだろうか。

比較と妬み、悪口と正当化を繰り返す日常に生きる私たちが、その中の無数の矛盾と偽善に苦しむ人々を見て見ぬふりをし続けること。ちっぽけな世界に閉じこもったまま、特定の経験や知識を盲目に従い、自分の日常とは無関係な出来事については簡単に結論付けて片づけること。それから再び日常の偽善に戻っていくこと。これら全てに気づかないことこそ「暴力」ではないだろうか。

暴力とは、指導者の政治判断によって変わる法律、その時代の常識によって定義されるものだろうか。それとも、日常を囲むこの全世界で、今行われていることを、「白か黒か」「左か右か」「またはそれ以外か」と… 自分の背景や利害関係から比較し、その中で都合の良いものだけを選び、関心を向けること。また同じく、都合の悪いことは非難したり、無視し続けることだろうか。

どうして人は、井戸の中の蛙のように、外の世界には目を向けず、自分をちっぽけな世界に閉じこめたまま、暗くて狭い井戸の中を飾ること、その中でよりきれいで、より居心地の良い場所を見つけることに、これほど夢中になるのだろうか。

...。

それは決して「暴力とは何か」を見出すことのなかった、私たち親の責任だろうか。それとも、その親も同じく暴力の犠牲者の一人にすぎなかったからだろうか。

私たちは今、人種や国籍、イデオロギーや宗教、あらゆる区別や分離を当たり前のように押し付ける世界。根強い拝金主義、その達成としての成功や幸せを人生最大の目標として掲げるこの世界を、ありのまま見つめているのだろうか。

 

もしその事実から目をそらし、ちっぽけな自分の世界だけを見つめている限り、

問題はいずれ偉大な指導者が解決するであろうと考えている限り、

自分はただ平和に暮らしたいと思い続ける限り... 人はこれからも軽い論評でそれらについて語り、傍観者であり続けるだろう。

 

数年・数十年後に過去を振り返り「そういう時代もあったよな」と、全世界への一部、その責任を担う当事者としてではなく、新聞を読む購読者のように、読まれる対象(世界)と読む対象(自分)とを分離し、無関係な部外者として見つめ続けるだろう。


「平和に暮らしたい」

組織やシステムに押しつぶされ、目標や成功そしてその達成で感じる自己満足や快楽を追い求めるだけの人生。長い人生の中で、決して「自己満足とは何か」「平和とは何か」を問うことなく、「平和的な服従」の中を生きる人生。

その目標と願望への「ステップとしての今」を生きることで精一杯である私たち親は、その平和的服従が、社会の力を巨大化させ、個人を無力に感じさせていることに気づくだろうか。

それどころか、自らが「個人の無力さ」を言い訳にし、自分そして子供たちを、その狭い目標と願望の中に閉じ込めていないだろうか。

 

#BlackLivesMatter


ハッシュタグやあらゆるコメントの中、自己満足や互いへの非難の中にあるもの。自分の中にある日常と世界との分離が、それによる比較が、存在し続ける限り、私たちは人種・国籍・地域・教育・伝統… ありとあらゆる無意味な比較によって作り上げられた色眼鏡で物事を考え、人生という狭い井戸の中を生き続けるだろう。

そしていつものように、都合の良い、それっぽい信念を掲げ、自分の人生を正当化し、子どもと自分に、言い聞かせるだろう。

 

人は、羨望と願望が、それらから成る揺るぎのない「信念(正当化された執着と排除(分離))」が、自分と家族の日常に、何をもたらしているか見つめない。

世界で起きているあらゆる差別と残酷さが、自分の日常とかけ離れていないことに気づかない。

差別による殺意と無数の暴力が、自分を否定する者に抱くその感情と少しも変わらないことに気づかない。

そしてもし気づいたとしても、「願望を捨てること」「平等であり続けること」「非暴力」という、また新しい願望を作り出し、それを達成しようとするだけである。

...。

 

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「平和」とは何だろう。

平和とは、暴力の反対側に存在し、暴力によるあらゆる問題を解決する観念もしくは理想だろうか。

それは、核兵器・最新鋭戦闘機....それらのための軍備拡大、防衛・自衛・抑止力を掲げ、あらゆる暴力を正当化する、政治家が口酸っぱく語る、その偉大なる価値だろうか。「主権」「国民の安全」という名目の下で、その暴力的な手段によって生まれた犠牲の後に、やがて訪れる「結果としての何か」だろうか。

常に今この瞬間には存在しないもの、この矛盾と暴力が立ち去るときに初めて現れる「未来のどこかに存在する何か」だろうか。

 

人生の矛盾と偽善に気づくことなく、決して自ら「平和とは何か」と問うことのない私たち親が、その問いを子どもに託す資格があるだろうか。

見出しからではない、手段の正当化としての平和。

どうして「平和」は今もなお、外部からの脅威や恐怖がある時にのみ生まれるのか考えたことがあるだろうか。

 

政党の利益や政治家のその「信念」によって、あらゆる暴力が正当化されているその裏で、今も子供たちが戦場に行かされ、またその暴力の手段として使われている事実を見つめることができるだろうか。

政府の政策や憲法の中にある「平和」、そしてその日常を生きる「私たちの平和」は、昔も今も何も変わっていないことに、私たち親は気づいているだろうか。

 

「平和」とは何か...。

 

平和は理性の結果ではない。にもかかわらず、もし組織宗教を観察してみれば、それらがこの精神による平和の追求に囚われていることが分かるだろう。真の平和は、戦争が破壊的なのと同じぐらい、創造的で単純だ。そしてその平和を見出すには、人は美を理解しなければならない。

(略)

もし君たちが、たんに財政的その他の安定によって、あるいは一定の教義、儀式、言葉の反唱によって平和を持つだけなら、そこには何の創造性もない。そこには、世界の根本的革命を引き起こそうとする、何の切迫感もない。

そのような平和は、たんに自己満足とあきらめに帰着するだけだ。が、君たちの中に愛と美についての理解があれば、そのときには、たんなる精神の投影ではない平和を見出すことだろう。

創造的であり、混乱を除き、そして自分自身のなかに秩序をもたらすのは、この平和なのだ。が、この平和は、それを見つけようとするいかなる努力によっても訪れない。それは、君たちがたゆみなく見守っているとき、醜いものと美しいもの、善と悪の両者、人生の全ての有偽転変に対して鋭敏なときに起こる。

平和は、精神によって作りあげられるような、ちっぽけなものではない。それはとてつもなく大きく、限りなく広く、そして心が豊かなときにのみ理解されうるものなのだ。

- Jiddu Krishnamurti / 未来の生 -

 

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(日記) 育児と健康

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「娘の咳と肌を治してあげたい」
振り返ってみると、全てはそこから始まった。

慢性の咳と肌の炎症に苦しむ娘。
肌は常に乾燥していて、生まれた時から刺激に弱く薬を塗らない日が珍しいぐらいだった。その原因を探って3年。長年の通院と1ヶ月弱の入院生活を経て医者は「原因不明の肺炎(今は完治)」と「乾燥肌」という病名を与えた。それから保湿剤とロコイド等、薬を塗り続ける生活が始まった。

「親とは何か」
「親としてすべきことは何か」

答えのない問いと共に、その原因と対策を模索しアクションに移すことが日常となった。そして、その問いへの答えを探れば探るほど、この世界が直面している危険性と問題、そして自然に対する恐ろしいほどの「無関心と無知」が、事実と共に浮き彫りになってきた。

その一。空気
娘は今の家を建ててちょうど1年後に生まれた。ホルムアルデヒド・トルエン・キシレン・エチルベンゼン… 数えきれないほどの化学物質が、家の材料として使われていて、それら全てが室内の空気中に放出されていた。成人に比べて明らかに気管支の弱い幼児がその影響を受けやすいことはあまりにも明らかだった。それで、まず家の中の化学物質をモニターできる機械を設置し、室内空気汚染状況を常に細かく確認できるようにした。

それから3年。家中のあらゆるものから放出される化学物質とそれらによる空気汚染は、私の想像を遥かに超えるものだった。花粉やPM2.5など話題の健康被害を心配する、まさにその裏で、幼児への健康被害やリスクが懸念され、しかも研究データすらない多くの化学物質が、人々の関心事からすっかり除外されていた。

では、化学物質過敏症(CS)、その他原因不明の症状を起こす汚染物質を、どうしたら排除できるだろうか。あの派手なCMのように、本当に我が家を、わが娘を救えるのは、あの立派で高価な空気清浄機だろうか。いくら最新の機械やフィルターを買い替えても、山から下りてくる自然の風に勝るものはなかった。しかし、その自然もますますその力を失っている。


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世界の平均二酸化炭素濃度は、2019年に歴代最高値である400ppmに到達した。それを証明するかのように比較的きれいな地域にある我が家の二酸化炭素濃度は、いくら長い時間自然換気をしても400ppm以下になることはなかった。24時間換気システムをフル稼働しているにも関わらず、こまめな換気を行わないと比較的短時間で体に影響が出始める1,000ppmを軽く超えてしまう。また、空気汚染は単に二酸化炭素による影響だけでなく、化学物質やPM2.5など様々な有毒物質の蓄積を意味し、特に幼児健康においては長期的なリスクに子供が常に晒されているという事実を、モニターは黙々と伝えていた。

オーブントースターや電子レンジなど調理用機械、消臭スプレーや殺虫剤、毎日欠かさず動かす食洗機… 100均で買ってきた折り紙やおもちゃ… 「オーガニック」「植物由来」「無添加」を謳うエコ洗剤や身近な日用品に至る、ありとあらゆるものが例外なく有害物質を放出していた。そして多くの人が寒い又は暑いという理由で、「99.9%」完璧を謳うエアコンや空気清浄機を頼りに、自然換気もせず有害物質に囲まれ、暮らし続けている。

持続可能な経済成長のために、自然の持続可能性が犠牲になる。気候変動や自然破壊、日常の危険性を叫ぶドキュメンタリーや映画の現実が、その画面の外で、自分の日常にありのまま投影されているとことに気づく人は多くない。多くの人が、産業工場の近く、話題の汚染スポットにいるわけではないという安易な認識で、事実を「ニュースの事実」として認識し、全く同じ日常を生きている。また、時間があれば、少しその気になれば、ドキュメンタリーやYOUTUBEなどで好奇心を満たして、次の好奇心に向かうことを繰り返すだけである。

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その二。添加物
日本が世界的な添加物大国であることはよく知られていることである。その名の通り、あらゆる食品の中に必要以上に添加物が乱用されている。コンビニのパンや子供のお菓子、おにぎりやオーガニックと自然食を謳う食品でさえ、添加物は欠かせない。規制によりヨーロッパなどには輸出すらできない加工食品が毎日スーパーで飛ぶように売られている。もはや日常生活の中でそれらを完全に排除することは不可能に近い状況に至っていた。

ナイアシン、イーストフード... 子供のパン、あらゆる加工食品の裏に当たり前のように書いてあるこれら添加物の多くが、既にヨーロッパでは毒性成分が認められ使用が禁止されている。不要に長い賞味期限を代償として、またその安さを引き換えに、私たち親は子供にまだ十分検証もされていないもの、既に使用禁止になっている添加物まみれのお菓子や食品を与えていることに気づいていない。それどころか、オーガニックや自然食などで育った子がインスタントを食べて死亡したニュースを根拠に、親は少しの添加物はこれから乱れるであろう子供の食生活への予防だと正当化する。


多くの人が加齢とともに慢性的な肥満や糖尿病など生活習慣による、正確には食生活の乱れによる疾患を患っている。では、個人ができることは何なのか。それは「自然環境と健康な生活習慣」か。しかし、何が健康な生活なのか、何が非健康なものなのかを突き詰める人はそう多くはない。それは各個人が、健康に関する自分の知識を過信しているからではないだろうか。それは、自然食を選び、それらを食べ続ければ解決されるというシンプルなものではない。自分の知識や偏見を捨て、まわりのあらゆるもの、ごく当たり前のように食べ続けてきたもの全てを疑うことから始めない限り、少し健康食や自然食をとったからと言って日常が変わることは決してないように思える。

 

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「便利さ」と「安さ」を引き換えに、私と子供たちは何を失っているのだろう。

自分にとって都合の良い事実やものだけを選ぶのではなく、安さと便利さの危険性をみつめ、その危険性に気づくことができるかが重要ではないだろうか。その気づきによる自らの変容こそ、私たち親に必要ではないだろうか。

しかし、自分への気づきやそれによる変容は、有名人のブログや本を読むからと言って、ドキュメンタリーを見たからと言って得られるものではない。気づきと変容は、決して他人から教えられるものではない。感化による気づきは一時的で、必ず次の感化、自分にとってより都合の良い、より大きな感化に、取って代わられるだけである。


化学物質の乱用による環境破壊や食肉食品の産業化などによる健康被害は、ドキュメンタリーに限った話ではなく、今日あなたが寄ったコンビニの中に、そして家族と囲むその食卓… 遺伝子組み換え(GMO)すら分からない添加物まみれの食パンを子供に与え、糖分過剰で賞味期限が半年以上のイチゴジャムをだっぷり塗り、カルシウム摂取のためと言い、子供に牛乳を無理やり飲ませる… 食卓の中にありのまま現れている。

慢性の疲れを紛らわすために、プラスチック樹脂でコーティングされた紙コップのコーヒーを毎日飲み続け、仕事に向かう人々。カフェインと加工食品や肉中心の食事により体は既に悲鳴をあげているのに、その原因を「体重」や「カロリー」「運動不足」とみなし、またビタミンサプリ等「栄養」補充だけに夢中な人々。

持続可能な自然を叫びながら、「自分へのご褒美に」と頬張るそのお菓子が、それを作る工場や企業の経営を、持続可能にしていることに気づかない人々。子供とファーストフードを食べる日常が当たり前のように繰り返されている限り、その隣で食品の品質や安全性ではなく、粗悪なプラスチックおもちゃを派手に宣伝するあのCMはこれからも流れ続けるだろう…。

 

「親とは何か」
「親としてすべきことは何か」...。


「無知であることは、
知識がないことではない。

無知とは、自覚の欠如のことである。
そして自我の諸様相についての理解が
無ければ、知識は無知に等しい。

自分自身を理解することが、
知識からの「自由」である」

<j.クリシュナムルティ>

 

 

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