韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について日常から気づくことを書き残しています。思考の軸は、インドの哲人クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)。5年目ブロガー。21年冬Amazonペーパーバック出版。これからもぼちぼち続けていきたいと思います。コメントや批評全てご自由に。

(日記) 集中と大人

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集中しなさい!

親から先生に、

先生から教授に、

教授から上司に...。

 

時間と共に、

自分の年齢と共に、

その語り手は変わっても...

 

彼らはいつも

何かに集中することを

それで何かを達成することを

高声で言っていた。

 

そして気づくと...自分も

彼らと同じように...

自分の子どもに向かって

全く同じ言葉を言っていた。

***

 

り返ると、

その一方的な命令と口調が、

常に、ある違和感と共に、

反発や反動としての感情を

呼び起こしていた。

 

そして私は、その感情から

目の前にいる、大人を睨んでいた。


そう...

幼い自分にとって大人とは、

あらゆる学位や資格と同時に

全ての学びをやめた人であり、

 

自分の職業に甘んじ、

決まりきった、その機械的な

日常の中で、表面的な言葉を

繰り返すだけの人であり、

 

教えるというとてつもない

価値に気づくことも、自らは

いかなる集中もしない人であった。

 

そして、家に帰ると、

生への気づきの欠如がもたらした

あらゆる自己矛盾に気づくことなく、

それがいかに子どもの夢を奪い、

傷つけていくのかに気づくことなく、

 

夫や妻という都合の良い役割や区別から

家事や教育を片方に任せ、

自分は第三者として趣味に没頭し、

その娯楽と快楽を人生の価値や

慰めにしたがる人であり、

 

っぽけなその人生信念を

いつも... 高いところで語り、

その結果でしかない目の前の貧しさを

都合よく他人と比較し、自己合理化し、

 

その貧しさを、その結果全てを

子ども自らの力で克服することに

そのための理想や教育の押し付けに、

熱心な人であった。

***

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人とは何だろう...。

 

それは、それがどんな形であれ、

社会に適応しようともがき、

そのための効率さだけを追い求める

そういう人だろうか。

 

そこから得られた安心と快楽を

人生の価値ややり甲斐とみなし、

それを子どもに押し付ける人だろうか。

 

一定の地位やステイタスに上っては

それ以上学ぼうともせず、

お決まりの安心と慰めの中で生き、

お決まりの給料で気晴らしの趣味を

楽しむ人だろうか。

 

ちっぽけな自分の姿に気づくことなく

常に古い過去の思い出に浸り、

そこから何度も栄光や快楽を見つけ出す、

孤独で虚しい、ありのままの人生から

目をそらし、そういう自分を合理化する

人だろうか。

 

自分が描く狭い理想の将来から、

目に見える学習成果やその能力から、

自分の子育てが正しかったと言い聞かせ、

それを気高く自慢する人だろうか。

 

それが... 彼らの言う「大人」だろうか?

***

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人は言った。

勉強や仕事、あらゆることには集中が、

そしてその積み重ねである努力が必要だと。

 

しかし、

何かに集中することは、

それ以外のことに無関心であること。

意図的にそれらを無視し、脇にやっておく

排除ではないだろうか?

 

「レベルアップ」

「テスト合格」

「何かの達成」

「あらゆる昇進」

「より良い転職」

 

それが小さな趣味であれ、

何かへの合格や成功であれ、

もしくは貧しい人を助けるためであっても、

 

分野や社会的価値に関係なく、

何かの目的から生まれた集中は、

その目的、そしてそれへの努力以外の

あらゆる気づきを、放棄することでは

ないだろうか。

 

集中は一定の結果をもたらし、

またその結果は自分に大きな

快楽や自己満足感を与える。

 

そしてあらゆる結果から

好みのものだけを選び取り、

その集中と努力を褒め称え、

それらを常に正当化する。

 

そうやって人は、

その集中がもたらした快楽と

自己満足にすっかり魅了され、

永遠とそれを繰り返していないだろうか。

 

それこそ、彼らが高声で叫んでいた、

集中というものの正体ではないだろうか。

 

たして彼らは、

特定の目的と意図、そこから生まれた

集中という排除からではなく、

自分の目の前にいる対象を

全体として見つめたことがあっただろうか?

 

資格と同時にそれ以上の学びを終える

のではなく、あらゆる対象から学び続け、

自分自身の姿に絶え間なく、

気づいたことがあっただろうか?

 

その気づきをもって、

ちっぽけな自分の姿を観察し、

その観察から生まれた謙虚さを

知ることがあっただろうか?

 

趣味や気晴らしに逃げることなく、

過去に浸る必要を感じることなく、

自らの虚しさを正当化することなく

ありのままの他人や子供や生徒に

向き合ったことがあっただろうか?

 

子どもに自己満足以上の何かを

見出させ、意図的な集中からではない、

心から好きなことに夢中になることの喜びを

それでいかなる比較も排除もない何かを

伝えたことがあっただろうか。

 

その気づきの中で、

その向き合いの中で、

その見出しの中で、

人生を生きたことが、

一度でもあっただろうか。

***

 

もしかしたら、あなたも...

この長いブログ記事の中で、

自分に響く言葉だけに集中し、

「そうだ」「そうではない」と

第三者として、部外者として判断し、

 

秒後にはスマホを閉じ、

またいつもの日常に、その大人ごっこに

戻るのではないだろうか。

 


なたは... 今、大人ですか?

それとも、まだ大人ごっこに夢中な、子どもですか?

...

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(日記) 沈黙と瞑想

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の影に沈む太陽が

足元に垂らす長い影。

 

遠くから聞こえる子供の笑い声。

冷たく固まった冬の田んぼの上を

自由に飛び交う鳥たち。

雑草畑の中であらゆる気配を

眺める野良猫。

 

都心の喧騒や慌ただしい日常から離れた

小川のような、ゆったりとした田舎の片隅。

 

そこには独特の「静けさ」が、

決して人が作り出すことのできない、

どこか懐かしい「沈黙」があった。

 

行き交う車、

流れる雲、

風になびく名もなき雑草と花、

乾いた土の冷たい匂い、

遠くから聞こえるあらゆる命の音...。

 

「美しい」

「醜い」

「素晴らしい」

いかなる意見も感想もなく、

その全てを呼び起こす「私」という

観察者も存在しない、その時に...

不意に、その沈黙はやってきた。

 

それは名付けることのできないであり、

あらゆる言葉を超える刻々の喜びであり、

そして瞑想だった。

 

しかし、その涙を、その喜びを、

もう一度繰り返したいと願うや否や...

それは一瞬にして色あせ、

その経験への執着を生み出していた。

****

 

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言葉無しには、思考はあり得ない。

言葉は思考そのものである。

 

目の前に広がる刻々の事実

そのありのままへの説明は

事実そのものではなく、

思考が生み出した言葉の羅列に過ぎない。

 

しかし思考は言葉を

その当のものと思い込み、

その思い込みが常に、

ありのままへの知覚を妨げる。

 

自分が...

知っているもの、

自分の経験や価値観、

社会の常識や美徳。

 

未来・夢・イノベーション、

安心安全・コスパ・プライド、

自己肯定感・やりがい・進化、

希望・絆・平和...。

あらゆる言葉が作り出すイメージ。

 

人は、そのイメージから

ありもしない喜び安心を追い求め、

ありのままの事実から逃避する。

...。

 

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しかし、子供はどうだろう。

まだ言葉を知らない子供たちはどうだろう。

 

大人のように子供も

言葉やそのイメージを通して

何かを眺めるだろうか...。

 

それとも

思考やイメージを作ることなく、

無垢な観察をもって...

毎瞬間に新しく出会っているだろうか。

 

無垢で透明な瞳。

何かを見つめるその注意深さ。

飽きもせず同じ遊びに耽る無垢さ。


大人はいつからその全てを忘れてしまっただろう...。

 

いつから... 「無垢さの終わり」を人生だと思い込んでしまっただろう...。

 

ありのままを、その沈黙への気づきを忘れ、言葉とイメージに逃げてしまっただろう...。

 

... 問いは「気づき」であり、

そしてそれ自身への「答え」であった。

 

* 冬の子ども | ビューティフルハミングバード

【抜粋】幸せは何なのでしょうか。

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質問者 幸せは何なのでしょうか。

私はいつもそれを見つけようとしてきましたが、なぜかそれは私の道には来ないのです。

私は人々が多くのさまざまなやり方で楽しんでいるのを見ますが、彼らがすることの多くはとても未熟で子どもっぽく見えるのです。

私は彼らは彼らなりに幸せなのだと思うのですが、私は違った種類の幸せがほしいのです。

私は、それを得ることが可能なのかもしれないという暗示はまれにあるのですが、なぜかそれはいつも私を避けてきたのです。

私は本当に完全に幸せに感じるには何ができるのかと思うのです。

 

 あなたは、幸せはそれ自体が終わりの目的であると思うのでしょうか。

それともそれは、智恵をもって生きるなか、二次的なものとして来るのでしょうか。

 

質問者 私はそれ自体が終わりの目的であると思うのです。なぜなら、幸せがあるなら、そのとき何をしようとも、調和的になるでしょうから...。そのとき、努力なく、容易に、どんなあつれきもなく、ものごとをなすでしょう。私は確かに、この幸せのなから何をしようとも正しいだろう、と思うのです。

 

 しかし、そのとおりでしょうか。幸せはそれ自体が終わりの目的でしょうか。

美徳はそれ自体が終わりの目的ではありません。もしそうであるなら、そのときそれはとても小さな事柄になるのです。

あなたは幸せを探し求められるでしょうか。

探し求めるなら、そのときたぶんあなたは、あらゆる種類の気晴らしと耽溺のなかに、それの模倣を見つけるでしょう。これは楽しみです。

楽しみと幸せの間の関係は何でしょうか。

 

質問者 私は自分自身に訊ねたことがありません。

 

 私たちが追求する楽しみは、誤って幸せと呼ばれます。しかし、あなたは楽しみを追求するように、幸せを追求できるでしょうか。

確かに私たちは、楽しみが幸せであるのかどうかについて、ごく明確でなければなりません。

楽しみは、愉快、満足、耽溺、娯楽、刺激です。私たちのほとんどは、楽しみが幸せであると思うし、最大の楽しみを私たちは最大の幸せであると考えるのです。

そして、幸せは不幸せの対極でしょうか。

あなたは、不幸せで不満足であるから、幸せになろうとしているのでしょうか。

幸せは、いったい対極があるのでしょうか。愛は対極があるのでしょうか。

幸せについてのあなたの疑問は、不幸せであることの結果でしょうか。

 

質問者 私は、世界のその他と同じように不幸せですし、自然にそうでありたくないと思うし、それが、私をして、幸せを探し求めるよう駆り立てているものなのです。

 

 それで、あなたにとって幸せは、不幸せの対極です。

もしも幸せであったなら、あなたはそれを探し求めないでしょう。それで、重要なことは、幸せではなくて、不幸せが終わりうるのかということです。これが本当の問題なのでしょう。

あなたは不幸せであるから、幸せについて訊ねているし、あなたは幸せが不幸せの対極なのかどうかを見出さずに、この疑問を訊ねるのです。(中略)

「クリシュナムルティ 変化の緊要 藤仲孝司」

 

(回想)死と関係

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「ああ、おまえのことを忘れるなんて!」

「ごめんね.... ごめんね... 」

 

かなアルコール匂いがする、

味気ないカーテンの前で、

祖父は、私の手を強く優しく

握りながら... そう言った。

 

末期膵臓癌。

座っているだけで精一杯の

やつれた体と細い指...。

 

またもや思考は目の前にいる

ありのままの事実に

過去のイメージを呼び起こし、

その二つを絶え間なく比較していた。

 

そうやって思考は... 決して...

何年ぶりのめでたいこの再開を

素直に喜ばせてくれなかった。

... 

「ひ孫がこんなに大きくなったよ」

「もう4歳で体操もできるよ」

「…はやく元気になってね」

「今度、連れてくるから...」

 

笑顔の家族写真を渡しながら

私が淡々とそう言うと、

 

「そうか、そうか!」

「飛行機は大変だもんな...」

 

祖父は写真を見ながら、

まるで実物を触るかのように

ひ孫の顔を何度も何度も

優しく撫でていた...。

 

何の目的も、

何の意図も感じられない

その言葉と動作を前に...

 

自分ができることは、ただ...

この短い会話が途切れないように

今聞かなくてもいいような...

他愛もない話を続けることだけだった。


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誰かのうめき声と短い咳。

ベッドを動かす冷たい機械の音。

気力を失い横になっている人の気配。

無言でテレビを眺める背中。

病院名が無数に印刷された白い患者服。

何とも言えないヘルパーの表情。

暗くて重い圧迫と日常と掛け離れた匂い。

 

その絶望に近い何かに

潰されそうな病室の中で、

 

彼は孫の手を握り、

見たことのない

ひ孫の話に耳を傾け、

親しみ溢れる眼差しと言葉で、

そして温かいその手で...

全身全霊で私に向き合っていた。

 

あ...

自分が探し求めた「関係」は… 

まさにそこにあった。

 

相手を見つめ、

その瞳をみつめ、

思考を忘れ、自分を忘れ、

そしてあらゆる時間を忘れ、

言葉一句一句に集中するその中に。

 

今度、またいつか聴く話ではなく、

未来や過去の記憶とは無関係な、

今この瞬間が最後であると気づき...

その話に耳を傾けるその中に。

 

いかなる報いも求めない、

誰かの教えに従ってでもなく、

ただ与えるだけで

自ら満たされる何かの中に。

 

正しい、正しくない... 正しい...

果てしなく繰り返される

その基準や理想、またそれらを

達成するための努力からは

決して得られない何かの中に。

 

考えるだけで胸が熱くなるような

あらゆる本や過去の記憶からは

決して見つけることのできない、

思考が掴むことのできない何かの中に。

 

それで、思考による感情を伴わない

「悲しい」「嬉しい」... という言葉を

つけない、涙が流れるその中に、

それはあった。

 

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すっかり忘れていた

数年前の出来事を…

私は道端に咲いた

赤いコスモスをみて

思い出していた。

 

関係はどこにあるだろう...。

 

それは、一日の大半を過ごす

あの狭くて人工的なビルの中や

何かの利益のために協力し合う

その中にあるだろうか。

 

果てしなく繰り返される

比較と競争を当たり前のように

受け入れ、死ぬ瞬間まで

妬みや悲しみを抱えて生きる

その動きの中にあるだろうか。

 

自分の過去から描いた未来を

子供に押し付け、その中で

何かを勝ち取るように...

生き残るようにと、

しつけに夢中になる

その動きの中にあるだろうか。

 

それとも、

自然保護や人権運動、意識改革…

世の中で気高いと言われる

その信念と理想を掲げ、

平和やあらゆる社会貢献で

より気高く、より有名になろうともがく、

その自己満足の中にあるだろうか。

...

それは、あらゆる趣味や話題そして

互いの価値観への共感を装う、

その計算された何かの中にあるだろうか。

 

世俗と離れた場所で暮らし、

物理的苦しみや葛藤から逃避し、

さらに内面的苦しみからも逃れるために

経典や修行に執着するその中にあるだろうか。

 

ブランドのスーツや外車で自分を飾り、

少しバイブルを引用し拳を突き上げる

その偽善の中にあるだろうか。

 

狭い自分の中に閉じこもったまま、

自ら作り上げたイメージを

関係だと思い込み、

また、自分へのイメージの中で

お気に入りのイメージ探しに、

その自分探しに夢中になる...

その中にあるだろうか。

 

恋人ができ、結婚相手ができ、

子供が生まれ、また孫が生まれても

もし... そこに関係が無いなら、

そこに、何の意味があるというだろうか。

 

*****

 

「ああ、おまえのことを忘れるなんて!」

「ごめんね.... ごめんね.... 」

 

孫の顔や記憶を忘れた祖父は、

それから数分後、記憶を取り戻し、

私に何度も... そう謝っていた...。

 

「忘れてもいいのに...」

「ただ生きているだけでいいのに...」

 

伝えることのできなかった

その言葉を、その涙を...

赤いコスモスが静かに見守っていた。

 

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* 邂逅 | ハンバートハンバート

 

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逃避と問い

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逃避。

10代は学校や親から

20代は就職や未来から

30代は家庭や仕事から

40代はあらゆる役割から

50代は決まりきった日常から

60代は....

 

多くの人にとって「人生」とは、

何かからの逃避ではないでしょうか。

 

そして...

その形は違っていても、

逃避があるところには

常に「葛藤と苦しみ」が

あるのではないでしょうか。

 

では、「人生」とは、

... 生きている間、

そして死ぬ瞬間でさえ、

...常に、目の前にある何かから

逃避し続けることでしょうか。

...

幸せを知らない未熟な自分、

果てしない比較と競争の社会、

薄情で表面的な人間関係...

 

自分の目の前にある、

ありのままの事実からのその逃避が、

あらゆる葛藤と苦しみを

もたらしていることに... 

気づいたことがありますか。

 

仏教の教典、バイブルや

有名な心理学専門書や哲学書、

禅の教え... あらゆる宗教の秘伝...

誰かが口酸っぱく言うように、

それに気づくには、人はその全てを

読まないといけないでしょうか。


... あなたはどう思いますか。

 

以前どこかで聞いた話や

どこかで読んだ内容ではなく、

あなたはどう思いますか...。

 

それとも... 

こういうことを聞くのは、

時間の無駄だと思うのでしょうか。

...

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しかしたら、あなたは...

そうやって今日も...

 

日々の日常から、

自分の役割から、

過去の記憶から、

不安な未来から、

そして人生の意味から、

逃げているのではないでしょうか。

 

しかし... 果たして

数えきれない趣味や娯楽、

一時的な気晴らし...による逃避が、

自分をその全てから完全に逃避させたことが、

その葛藤や苦しみからの自由を

もたらしたことがあったのでしょうか。

 

それとも... あなたは、

相変わらずそこに、

葛藤と苦しみが、

存在し続けていることに、

気づき始めているのでしょうか?

...


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生きることは、

繰り返される葛藤や苦しみから

目を逸らすことでしょうか。

また、一時的な快楽や慰めを

果てしなく追い求めることでしょうか。

 

生きることは...

その意味を求めてあらゆる宗教や

専門家の権威に頼ることではなく、

まさに、その権威への逃避が、

さらなる葛藤と苦しみを

生み出しているに過ぎないことに...

気づくことではないでしょうか。

 

その気づきがある時...

その時、人は自分の逃避を正当化し、

それを繰り返しているのでしょうか?

 

それとも、その気づきの中で、

目の前にいる、パートナーや子供、

友人やあらゆる関係に、ありのまま、

向き合おうとするのでしょうか。

 

その時... 自分に、

イエスや仏陀やユングの言葉が、

有名人の人生信念や気高い哲学論が、

必要でしょうか。

 

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自らの気づきではなく、

誰かの教えやそれへの依存がある限り、

従うべき目標やメソッドがある限り...

 

「幸せ」

「安心」

「解放」

「悟り」

「真理」

「自己超越」...

あらゆる言葉は、

ありのままからの逃避の一つに

過ぎないのではないでしょうか。

 

... あなたはどう思いますか。

以前どこかで聞いた話や

どこかで読んだ内容ではなく、

あなたはどう思いますか...。

 

どこかへ急ぐその足をとめ...

人生について、

そして生きることについて

自分に聞いたことがありますか。

 

それとも、

昨日のように、今日も...

何かから逃げ続けているのでしょうか。

...


今、あなたはどうですか?

...

【抜粋】傾聴

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なたはどのようにして耳を傾けていますか?

思い込みを持ちながらですか?

思い込みや野心、願望や恐怖、それに心配ごとを介して、耳を傾けているのですか?...

 

自分が耳にしたいこと、満足のいくこと、喜ばしいこと、耳に心地いいこと、差し当たり苦悩を和らげてくれることだけを耳にする、そういう態度で耳を傾けているのですか?...

 

自分の願望というスクリーンを通して聴いているならば、その時、当然のことながら、自分の声を聴いています。そう、自分の願望に耳を傾けているのです。

では、別の聴き方は、あるのでしょうか?

 

相手が言っていることだけでなく、通りの雑踏や鳥のさえずり、路面電車が通る音、休むことを知らない海の音、ご主人の声や奥さんの声、それから赤ちゃんの泣き声、そういったこと全てに、どのようにして耳を傾けたらいいかを見出すことは、大切なことではないでしょうか?

 

自分の願望を介して、私たちは物事に耳を傾けているわけですが、聴くことが重要性を持つのは、自分が耳にしているものを通して、自分の願望を投影しない時だけです。

 

こういう諸々のスクリーンを通して、私たちは物事を聴いているわけですが、それらを脇にやって、真に耳を傾けることはできるでしょうか?...

「四季の瞑想 J.クリシュナムルティ」

 

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ず初めに、傾聴するとはどういう意味かを話し合うことは無駄ではないかもしれません。

あなたがここにいらっしゃるのは、明らかに、語られていることを聴き、そして理解するためであり、ですから、私はどのように傾聴したらいいかを見出すことが重要だと思うのです。なぜなら、理解は傾聴の仕方にかかっているからです。

 

私たちは、話を聴きながら、語られていることについて、自分自身と話し合い、それを自分自身の特定の意見、知識、そして性癖に従って解釈するか、それとも、少しも解釈しようとする気を交えずに、ただ注意深く聴くだけでしょうか?

 

では、注意を払うとはどういう意味でしょうか?

注意と集中とを区別することがきわめて重要だと私には思われます。

では、いかなる解釈も、反対も、容認も交えない注意を払いつつ傾聴すること。それによって、語られていることをそっくり理解することができるでしょうか?

もしも人が完全に注意を払って傾聴することができれば、まさにその注意がとてつもない効果をもたらすのです。

 

確かに、二通りの聴き方があります。

人は、表面的に言葉に付いていき、それらの意味をつかみ、叙述されていることの表面的な意義を把握することができます。

または、人は叙述されていること、説明を聴き、それを内面的に把握する、すなわち、語られていることに自分が直接自分自身の中で経験していることとして気づく、ことができます。

 

もしも人が後者を行うことができれば、すなわち、もしも説明を通じて語られていることを直接経験することができれば、その時にはそれは大きな意義を持つだろうと思います。多分、あなたは傾聴していくにつれて、それを実際に行えるようになるでしょう。

「静かな精神の祝福 J.クリシュナムルティ」

 

* BGM : 眠っているあいだに | ビューティフルハミングバード

(日記) 秋風とせせらぎ

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ラキラ輝く池と岩。

その中で静かに流れる

せせらぎと子どもの笑い声。

 

黄緑の雑草広場の角には、

細長い漆黒のベンチが、

決して訪れた人を邪魔することなく

静かに置かれていた。

 

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「よ〜い ドン!」

端っこから端っこまで。

何度も走り回る息子の背中は、

いつの間にか大きく

そして強くなっていた。

 

暖かい岩の上に

小さいおもちゃを広げ

風に揺れる影と一緒に

日向ぼっこをしている娘。

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そこには、

雲ひとつない真っ青な空が、

果てしなく続く山々が、

名前の知らない鳥のさえずりが、

ゆっくりと揺れる金色のススキが、

決してバラバラではない、

一つとして流れていた。

 

偶然見つけた古民家カフェ。

美味しいプリンを争う小さな手。

丁寧に作られた塩おにぎりと

丸く暖かいおしぼり。

 

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至る所に配慮が感じられる小物の数々。

子供は教えなくてもその全てに気づき、

自分が歓迎されていることを知っていた。

 

そしてその無邪気な後ろ姿に、

午後の日程はどうでもよくなる。

 

***

ランチ時間。

限られた自然食を目当てに、

次々と車と人が現れた。

 

かわいい。

かわいい。

かわいい...。

 

小物や古いオブジェ。

有名なプリンを前に何度も笑顔で

写真を撮ることに夢中な人々。

 

目の前にある対象を

ありのまま見ることなく、

記録し過去に残すことに夢中な人。

そしてまた未来のことでいっぱいの人。

...。

 

その夢中は、そこがどこであれ、

絶え間ないシャッター音のように

次々と対象を変えていった。

 

こだわりの素材、小物の配置、

古民家特有の雰囲気と安らぎ。

それら全てが絶妙なほど

秋の風景に溶け込んでいる

今日という幸運に気づいている人は

あまりいなかった。

 

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価値。

みんなが探し求めるその価値は、

小さいスマホ画面から覗き込む

その写真の中にあるだろうか...。

 

綺麗な角度や上手く切り取られた

イメージや無数のハッシュタグや

いいねの中にあるだろうか。

 

目の前にあるものを

ありのまま見ることが

できないというのに...。

 

刻々変化する光や風に

安らぎを感じることが

できないというのに...。

 

過去や未来にとらわれ、

今を生きれないというのに...。

 

数千数万のいいねやフォローに

何の意味があるというのだろう...。

 

... 


「はやく!はやく!」

手を引っ張られ、よじ登った

その岩のてっぺんには...

揺れる金色のススキのように

過去でも、未来でもない今が、

... 息子の笑い声とともに

静かに流れていた。

 

* BGM : 庭の木のみる夢 | ハンバートハンバート

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(日記) 理解とコスモス

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まり見上げることのない、

平日昼下がりの空。

 

薄い水色の空を背景に白い綿雲が、

日が沈む西側まで…

視野が届く地平線の先まで広がっていた。

 

そしていつもの帰り道に、

空と雲と同じ色をしたコスモスが

一人で咲いていた。

 

風に揺られるその仕草は、

まるで無邪気な顔で手を振る子供のように、

何の意図も、何の目的も持たずに、

自分の前を通る人の帰りを

ただ静かに、そして美しく見守っていた。

 

***********

「私には理解できない… 」

「ちょっとむずかしい話だね… 」

みんな、口をそろえてそう言っていた。

見慣れない単語、世間の常識や自分の価値観、

固定観念や人生信念とは異なる話に、

いつもの娯楽や芸能話からかけ離れた内容に、

多くの人が、首を傾げながらそう言っていた。

 

手軽で読みやすいエッセイはどう?

かわいいイラストから始まるぼんやりとした雑誌のコラムのように、

もっとカジュアルに読めるようなそんな文章はできない?

それが当たりも強くなく、多くの人にも受け入れられやすく、それでビジネスにもなるのだと…。

 

「そうじゃないものって、むずかしいものになるの?」

「そうじゃない文章は、受け入れにくくてビジネスには不向きで、それで何の価値もないの?」

「そして多くの人から受け入れてもらわないもの、ビジネスとしても価値がないものは、ただの自己満足に過ぎないの?」

いつのまにか、私は必死になってそう聞き返していた。

 

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難しい

その言葉の破壊力に気づく人は多くなかった。

 

見慣れない文章や価値観の話。

その言葉が意味する全体を見渡すには時間がかかりそうな話に、人は自分の頭のどこかで、読む価値があるかないかを瞬時に判断し、そこに価値がないと決めるやいなや、「むずかしい」という言葉を吐き出し、そしてその言葉をもって、それを一つの事実として決めつけていた。


また、その決めつけと同時に、それが目の前にあるものへのイメージとして固定してしまう。その反応と同じく「理解できない」という言葉が、頭の中に浮かびあがってくる。

 

そしてそれらの言葉を投げ出し、それ以上理解しようともせず、それ以上深く見出そうとせず、全ての好奇心や学びを終わらせ、さっさといつもの安心や快楽の話に移り行く。


***********

 

そこには相変わらず、か弱い首のコスモスが、

微かな秋の香りと共に優しいリズムで踊っていた。

 

そして、そのコスモスは、

決して「難しい・理解できない」と言うことなく、

過去や未来への不安を抱くことなく、

イメージも何も固定することなく、

ありのままの姿で、

あらゆるものと向き合っていた。

ずっと探し求めていた

「関係」が、そして「愛」が、

薄い水色の花びらと白い香りの中に、

その無邪気さの中に、静かに咲いていた…。

 

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目的と関係

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いかなる目的も

いかなる動機も持たずに、

誰かに接したことが、ありますか?



自分の利益と繋ぐため、

自分の話を聞いてもらうため、

自分のイメージを作り上げるため...

そういった、あらゆる目的や動機を持たずに、


誰かの話に自分の全エネルギーで耳を傾け、

これを話さなきゃ...と思うことなく、

心から共感したことが、ありますか?

稀に... 経験する親からのあれのように...。


動機や目的によって

作り上げられた互いのイメージ。


またその動機や目的によって必要になったり、

不要になったり、「私は傷ついた」と思う、

それが、本当に「関係」でしょうか。


それとも「関係」とは、

それらとは全く違う「何か」でしょうか。


…。

いかなる目的も、

いかなる動機も持たずに、

ありのままのあなたに接するとき。


自分が作り上げたイメージからではなく、

ただ単に、受け入れようとしたり、

又は、拒絶しようとしたりすることなく、

目の前にいる、

ありのままのあなたの姿を

ただ観察するとき。


そして、その観察から

自ら「自分自身」を見出し、

それを見つめるとき。

 


「関係」とは、まさにそのとき、

やってくる何かではないでしょうか。

 

その見出し、その観察の中で、

そしてその関係の中で、

自分の人生を生きていますか?...

 

あなたの関係は、

今、どこにありますか....?


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命とヴィーガン

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端に咲いた花。
きれいに植えられた並木。
小さい鉢の中のサボテン…。

植物は、そこがどこであれ、その居場所にこだわることなく、常に自分に与えられた環境をありのまま受け入れ、そして自分ができる全てのエネルギーを持って、生きていた。

また、あらゆる動物たちも、狭く汚い畜舎、効率優先の人工的なケージや機械的な工場…人間によって作られたあらゆる場所で、もしそこから一歩も出ることなく一生を終えることになるとしても...それを受け入れ、そこで育ち、子供を産み、子育てをしながら、懸命に生きていた。

「プレミアム・上等・セール・特別価格…」

人間が自分をどう評価しようが…、彼らは自分に与えられたあらゆるものをありのまま受け入れ、生と向き合っていた。そしてそこには、常にとてつもない生への懸命さとエネルギーがあった。

しかし人は、自分の居場所やあらゆる条件を、ありのまま受け入れることなく、それを絶え間なく何かと比較し、常に「より良い」ものへと動いていた。そして「より良い」ものへの「努力」、その努力がある限り… 現実(ありのまま)と理想(より良いもの)との葛藤がある限り、苦しみや悲しみが絶えることはなかった。

 

********

べられるために生まれる命。

雛から孵化するや否や、眩しい蛍光灯に照らされ、そのか弱い目を開けるや否や、一度も陽光を感じることなく、性別で無惨に殺される命。


親や自然から生きる術を学ぶことなく、生まれるや否や親と引き離され、狭いケージに閉じ込められ、果てしなく遠くへと移動する命。

そして死なない限り、決して自由になれない命。

無数の命が、一生、日差しをみることなく、陽光の温かさそして生きる喜びを感じることなく、飼育され、病気になり、物のように捨てられ、死んでいく。

生まれて何ヶ月後。

その命の多くが切断され、防腐処理され、笑顔の商品パッケージの中で、何日もお客さんを待っていた。そして賞味期限が近付くと、無表情と共に半額のシールが貼られていく。


その命、その生は、

そこで終わったのだ。

 

誰かの口の中で、

もしくはどこかのゴミ箱の中で…。


********


らは言った。
肉は人間にとって欠かせない、重要な栄養源であると。

そして都合の良いデータを持ち込み、人間にとってそれがいかに栄養的に大事であるか、またそれがいかに綺麗に管理されているかを、ありとあらゆる権威を借りて、力説していた...。まるで宗教のあれのように。

しかし、彼らにとって大事なのは、その正当性とデータの信頼性、そして彼らが抱える膨大なシステムであって、

決してその根源にある「命とは何か」「全ての自然にとって大事なのは何か」という問いではなかった。

また、彼らは肉を食べないことの危険性、栄養の偏りが招くリスクを並べることにも熱心だったが、決して「家畜」という一方的な観点を捨て、この繰り返される悲しみから「肉を食べることが、人間にとって本当に必要か」「繰り返される無数の殺傷と暴力が、本当に必要か」を真剣に問おうとしなかった。

「フレキシタリアン」
「ペスカタリアン」
「ベジタリアン」
「ヴィーガン」

多くの人がその単語が持つイメージ、それを語ることや実践することで得られる感情や感傷に浸り、流行のそれのように、関心を向け始めていた。

繰り返し流れる残酷な映像。
冷たいケージの中で涙を流す動物の目。
何度も蹴られ、起き上がれない仔牛…。

まるで人間のそれのように、人はその暴力や涙の意味を解釈し、感情を移入させ、その反動として怒りや憐憫を覚えていた。

そしてその怒りと憐憫は、何か新しい話題として、話のネタとして、気高い自己アピールの手段として、簡単にそして無意味にシェアされていた。

しかし命とは何か」「この美しい地球で共存する共同体とは何か」「いかに人間が自分中心的に生きているのか」「いかに人がそれを正当化したがるか」について自ら問い、見つめ、見出そうとする人は見えなかった。

 

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に目的があるだろうか?

家族のおかずになるために、友人との楽しいひと時のために...今もどこかで、特定の目的のために、命が奪われる。

家畜だから。
人間が生きるため。
生計のため。

手段を選ばず、暴力を繰り返し、それを一定の目的で正当化することの危険性に、目を向ける人はどれぐらいいるだろうか。

「平和」という目的を掲げ、それを実現するために行われるあらゆる暴力…。それによって導かれた状態が、はたして平和と言えるだろうか?

手段と目的は決して別個ではなく、手段が目的そのものではないだろうか。核兵器が暴力や恐怖をもたらすことはあっても、決して平和をもたらすことはないように…。


段の危険性に気づくこと。
目的への絶え間ない問いかけではなく、その達成だけを優先し、効率や金儲けだけを盲目的に追いかけることの危険性に気づく時、命とは、それらと私たちとの関係とは、その気づきの中にあるのではないだろうか。

その気づき、その関係からではなく、特定の主義(観念)から生まれた行動に、はたして何の意味があるだろうか?

 

気づきや自らの見出しからではなく、オーガニックやヴィーガンの著名人もしくはベストセラーの中にある刺激的な言葉や権威に感化され、その反動として権威や観念を受け入れること、

「フレキシタリアン」「ペスカタリアン」「ベジタリアン」…それでその観念の中で、好みの言葉を選び、自分をその中に閉じ込めることに、何の意味があるというのだろうか…。

 

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青々と広がる草原。

どこから来たか分からない、

その気持ちいい風には

微かなコスモスの香りが漂っていた。

 

あの無限に広がる雑草と

木々の黄緑の波の真ん中で、

空に指を突き上げ、

私は静かに何かを待っていた。

 

長いけど、少しもそう感じない

時間が通り過ぎ、

黄赤色の尻尾をしたトンボが、

指の上にとまった。

 

そのトンボは決して図鑑や

写真では分からない、

宝石のようなきれいな目で

私を見つめていた。

決して少しも警戒を緩めずに…。

 

細い脚の感覚が、

指から全身に伝わってくる。

 

それはトンボの脚であり、

あの風であり、

そして目の前に広がる自然

その全てであった。

 

そこには、決して教科書や

大人からは学ぶことのできない

何かがあった。

 

その時、私は決して…

「命とは何か」

「全ての自然にとって大事なのは何か」

を問わなかった。

 

それは… ただそこに…

私の目の前に... そして私の中にあった。

 

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後記

「ヴィーガンですか?」
「お肉は食べないですか?」

よく聞かれる言葉です。
が、ヴィーガンでもなんでもありません。

 

しかし、どう説明したらいいか?
果てしない思考の末に

「... ええ。お肉は基本食べません」
と答えたりします。

 

説明ではないですが、
命とヴィーガンについて
少し長めの説教をw書いてみました。

 

比較と価値

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どきの服を身にまとった若い彼女は言った。

 「…本当は、今、自分が住んでいるここがあまり好きじゃないんだ」

「でも、東京や違う場所を旅して帰ってくると…やっぱり、ここがいいなと改めて感じるんだ」と。

 

彼女のまわりには、同じ服を着た友人が何人かいたが、しかし彼女の話に耳を傾ける人は誰もいないようだった。

 

彼女たちは、ひっきりなしにスマホを触りながら、そこから聞いた話、それを使った経験や人脈などの話を自慢げに、しかし控えめに話していた。

 

そして、コーヒーが無くなるやいなや、その話もまた次の場所へと移り行くだけのように思えた。

 ***

何かの価値を見出すとき、その価値に気づくとき。

そこには、常に「比較」があった。

 

「住んでいる場所」

「新しい職場」

「新しい彼氏や彼女」

「新しい小物やスマホ…」

そして「自分の過去にあったものや感情」…。

 

人は何かの価値を認識するためにと、絶え間なくそれに対比する対象を持ち込み、比較することで、いとも安易に、長所と短所を区別し、それを評価する。

その評価が、自分の先入観や過去の記憶の投影に過ぎないかもしれないということを考慮しないまま… 比較から見つけた長所や短所に目を向け始める。

 

そして、その片方を手にした今を… 自分が知っているあらゆる知識や経験、愉快もしくは不快な感情に合わせて正当化し始める。

 

「…あ、今(の)でよかった」

「…あ、前(の)がよかった」…。

 

しかしその正当化が、満足であれ、後悔であれ、それは依然として、比較からなる単なる正当化に過ぎなかった。一定の基準によって導かれた結果としての…。

 

***

かなる比較無しに、

何かの価値を見つけることはできるだろうか。

 

偏った価値観や過去の感情に縛られることなく、一時的な(今の)感情に振り回されることなく、その感情をあらゆる言葉で正当化することなく…。

 

何かの価値に「ありのまま」気づき、見つめ、それに深く感銘を受けることはできるだろうか。

… 何かのメソッドとして自己開発書を読むように、単に「比較してはいけない」というもう一つの知識、もう一つの信念として受け入れ、蓄積するのではなく…。

 

誰かの言葉、

過去の記憶、

自分の価値観… 

あらゆる比較から「自由」になる時、

その時。

 

窓から見えるあの景色は、

彼女にどう映るだろう…。

友達の話はどう聞こえるだろう…。

 

その時、彼女は初めて、自ら終わることのない比較の鎖を外し、眩しい景色を見つめ、そのとてつもない鮮やかさと生命力に驚き、また、語られる話の中にある微細な感情を汲み取り、共感し、それが意味するものを、自分の中から見出していないだろうか。

 

いかなる比較も、

いかなる正当化も、

いかなる基準も持たずに

何かに向き合う時。

 

価値とは、

その時はじめて現れるものかもしれない。

 

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(日記) 昨日と思考

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7:56

始発の電車と

色褪せた古いシート。

 

腕時計を睨む車掌と

スマホを睨む車窓の人。

 

四角いマイクから響く

丸く引き締まった声。

 

その声に合わせて蠢く

膨らんだお腹と

緩んだベルト。

 

そしてこの全てを見下ろす

キジバトの短い鳴き声。

 

昨日と違う今日が、

今から始まるというのに…。

 

あの古いシートのように

昨日が、自分の頭の中で、

ギシギシと音を出していた。

...

不愉快な事・愉快な事、

出来たこと・出来なかったこと... 。

 

それら全てについて

思い巡らすその思考が

まさに時間そのものとなって

自分をさらに思考へと導く。

 

「キーン... 」

 

過去の記憶でしかないその思考が、

浅薄な動きに合わせて飛び交う度に

忘れていた耳鳴りが聞こえてきた。

 

そこから逃げようとすればするほど、

まさに... その逃避が、

その思考、その束縛としての時間を

さらに際立たせるだけだった。

 

そうやって昨日の出来事や

それらへの感情だけが、

より大きくより色鮮やかになっていく。

 

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8:01

その全てとは無関係に、

... 古い電車は、

昨日ではない新しい朝を、

キラキラ輝く川と色鮮やかな木々、

それらに喜ぶ鳥たちの羽ばたきの

素晴らしさを、ゆっくりと映していた。

 

しかし私はその全てに気づくことなく、

昨日の中で、そして本の中で、

必死に昨日を追いかけていた。

…。

 

私の頼りない膝の上で

彼は力強い言葉で言った。

 

思考は時間であり、

時間が存在する限り、

新たなもの、

計り知れないものへの知覚も、

その時間による束縛からの自由もないと。


その言葉に頷きながらも、

私は背中で輝くあの眩しい朝に、

気づくことができない。

 

... 生は超時間的なるものが

ある時にのみ意味がある。

 

さもなければ、生は悲嘆であり、

葛藤であり、そして苦痛である。

 

思考は、人間のどのような問題も

決して解決できない。

 

なぜなら思考それ自体が、

問題だからである。

 

知識の終わりが、

知恵の始まりである。

 

知恵は時間の問題ではない。

それは経験、知識の継続ではない。

 

時間の中の生は、混乱であり、

そして不幸である。

 

しかしあるがままのものが、

超時間的なるものであるとき、

そのときに至福がある。

 

「クリシュナムルティ、

生と覚醒のコメンタリー(時間)」

 

... 9:00

四角いモニターを睨む人々。

そしてその全てを見下ろす人。

 

新しい日付とともに、

今日も、もう一度

昨日が始まろうとしていた。

 

(日記) 彼女と幸せ

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上の見えない建物と建物との間。

小さいベンチに腰を下ろすとどこか懐かしい、清々しいそよ風が、頬に当たって遠くへと消えていく。そして温かい日差しが本の上で、その影を落としながら踊っていた。

その昼、あの激しかった夏が…あのそよ風のように…どこか遠くの、過去のように感じられた。

12:32

ランチ時間でさえ、若いスーツの彼女は真後ろのオリーブ木や行き交う人々に気付くことなく、小さい画面の中で何かを熱心に探していた。


またその角には、紫色ワンピースの中年女性が古い鞄と同じく口を開けて空を眺めていた

 

あの素敵なそよ風と日差しとは対照的に、

そこには「人生の重み」がそれぞれの肩に重くのしかかっていた。そして彼女たちにとって「生きること」は、常に「闘い」そのもののように思えた。

...。


「家庭・学校・職場・新しい職場・新しい家庭…」

その繰り返しの中で、彼女たちには常に「常識」と言われる社会の偏見や先入観が、またそれらによって作り上げられた「こうあるべき」「こうしてはいけない」「役割」という無数の束縛が、人生に重くのしかかっていた。

 

「良い青年」「良い母親」「賢いキャリアウーマン」

時代や流行で言葉やシンボルは変わっても、彼女を取り囲むその「束縛」が、「自由」へと変わることは決してなかった。

しかし、ある日、彼女がそれに気づくとき。それで必死にそこから自由になろうとするとき。社会は彼女に「責任」「役割」「未来」「世間」「我慢」「生計」… ありとあらゆる言葉を突きつけ、それらへの努力を押し付けていた。まるでそれこそ、女性の「人生」で「幸せ」であるかのように…。

 

その形は違っても、彼女たちは同じ悲しみ・同じ苦しみ・同じ混乱の中で懸命に生きていた。そうやって彼女たちは、少女から青年へ、母親からキャリアウーマンへと、この社会が作り上げたその都合の良い役割に束縛され、そしてその束縛の中に閉じ込められた「幸せ」を本当の「幸せ」だと信じて、懸命にその役割を果たしていた。

… 生き生きとしたあの素晴らしい感受性が、そして「愛」への好奇心と憧れが…いつの間にか「役割」や「偽りの幸せ」に押しつぶされていく。

「部活・就活・婚活・妊活・保活・終活… 」

果てしない「〇活」の中に「成功」「地位」「安心安全」、あらゆる教育が、比較し、競争し、そしてそれを勝ち取ることを美徳として教えていた。

 

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***

女は言った。

心配性で自分では何も決められない同僚の彼女がかわいそうだと。

彼女は社会の固定観念にひどくとらわれていて、もしかしたら精神的な何かを抱えているのではないかと、心配そうに同僚について気づいたことを話していた。そしてそのせいで自分の仕事が、自分のストレスが増えたことを強調しながら。

 

しかしそれを話している間。

その真剣な語りとは対照的に、彼女は同僚の彼女と自分を分離し、何かの「安心」を見出していた。そしてその「安心」が、その比較による「安堵感」が、その話に力を与え、そしていつもの疲れを忘れさせていた。

 

それが同情であれ、非難であれ、その中に隠れた「快楽」に気づく人は多くなかった。

対象との比較によって見出される、強調される私の「安心」と私の「幸せ」… いくらそれが丁寧で配慮深い言葉で語られていたとしても、そこにもし「私」とその「比較」があるかぎり…そこには常に「快楽」が潜んでいた。

 

そうやって自分の言葉が「同情」から自己安心という「快楽」へと変わっていく。まただんだんその快楽が薄くなると、違う「より強い快楽」へとその話題を変えていく。

 

そしてその物語りはその主人公を変えながら、これからも絶え間なく続くに違いなかった。語られる彼女と、語る彼女を分離したまま。

 

… そう。その形は違っても、彼女たちは同じ悲しみ・同じ苦しみ・同じ混乱の中で懸命に生きていた。

 

「あなたの無能」「あなたの間違い」…

しかし、決して誰も、彼女の痛みを、自分の悲しみ、自分の苦しみ、自分の混乱として受け入れようとはしなかった。この果てしない束縛の中で生きていく同じ「女性」として、同じ現実に苦しむ自分のこととして受け止め、そしてそれに心から涙を流す人はいなかった。

 

そこには相変わらず果てしない比較と競争が、それらによって作り上げられた「女性として」の「(私の)幸せ」という壁が、高く立ちはだかっていた。そして、彼女はそれに気づくことなく、その壁の中で、その向こうにある他人の不幸と自分を比較し、そこから絶え間なく自分の「安心」を確認するだけだった。

 

語られる人と語る人との間に分離がないとき。

貴方の悲しみ、私の悲しみ…ではなく、

「一つの悲しみ」であるとき。

そこから「安心」を見出すのではなく、

「自分自身」を見出すとき。

その時、私は果たして同じ言葉を口にするのだろうか...。

それとも、ただ沈黙したまま…

果てしない涙を、決して「かわいそう」「心配だ」という言葉を付けない「涙」を流すだろうか...。

 

そのときはじめて…

ずっと忘れていた、生き生きとしたあの素晴らしい感受性が、そして「愛」への感覚がよみがえるとき。

 

彼女は壁の外で…

彼女に手を差し伸べているに違いなかった。

そしてその「涙」が、その「温もり」が、「愛」であり、「幸せ」であることに気づくに違いなかった。

 

...。

  

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(日記) 台風と涙

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風の前日。

車のワイパーが視界を変える度に死角から車と人々が現れた。

その日、大型モールの駐車場は、雨と車でいつもよりもごった返していた。

 

光る「満車」や使い古しのフェンス、そして慣れた動作で車を誘導する人。

 

嘆息と諦めを感じる間もなく、まるで思考のそれのように車は次の目標である「より良い場所」を機敏に探し求めていた。

そしてある程度それに成功した時、あの「嘆息と諦め」は、自分が見つけた場所とそのタイミングへの「感嘆」に入れ替わっていく。

 

「おもちゃさえ買ってあげれば...」

幼児二人を連れての買い物。出発前の楽観論は店に足を踏み入れるや否や、忘れていたいつもの悲観論に変わっていた。

 

「◯◯してはいけない」

「常識」と言われる無数の圧迫が、「親の責任」という無言のルールが、親の肩に重くのし掛かっているその間に


子供たちは、まるで遊園地のそれのように大声で興奮し、あらゆるものを触っては落とすことを繰り返していた。

 

「今日は◯◯をしないといけない」

その全てを前にし、予め考えていた理想のプランは、一瞬にして「はやく帰りたい」という一つの願望に変わっていく。その中で、買い物は必然的に必要最小限になっていった。

 

静かな店舗のど真ん中を大声で走りまわる息子を、敢えて大きな声で責めながら追いかける私。また、妻は見えない角で泣き崩れている娘を、必死に慰めていた。

 

仕方なく二人を妻に預けている僅かな一人時間。簡単な品選びさえも... 製品パッケージを何度も読んでも、その意味が理解できずに時間だけが過ぎていく。


そうやって妻と私は、互いのタイミングを図らい、子供の面倒を片方に任せ、最短時間で買い物を済ませ、逃げるように店を後にしていた。

 

「どうしてこんなに大変だろう」
「どうして我が子たちはこんなに無茶なんだろう」誰もが口にするその言葉。


しかしその思いが、その思いへの感情が、自分の視野を狭くし、(まわりへの)気づきを鈍くしていることに、私は気付いていなかった...。

 

そして、あの小さい子供に向かって何度も苛ついている自分に気づくたびに、

それを妻と子供たちが黙々と受け止めているたびに、「ちっぽけな自分」という気づきが、痛いほど鮮明に跳ね返ってくる。

 

しかし、私はその気づきを「ありのまま見つめること」ができずに、あの気短な歩幅のように、そこから目を背け、駐車場に向かって逃げるだけだった。


***

を叩く風の音で目を覚ました夜中のベッドで、息子は笑いながら楽しい夢を見ていた。


窓の外では、風が柿の木を激しく揺らし、雑草畑を何度もなぎ倒していた。

鳥やカエル、時々見かけるイタチたちは、きっと何処か安全な所で家族を守っているに違いなかった。

 

また、彼らは次の日には何事もなかったかのように、生きているに違いない。そして「生きること」は、きっとそういうことであった。

 

それは決して「今日は◯◯をしないといけない」という願望としてではない、記憶や知識では感じ取れない「常に新しい」ものとして存在するその「何か」であった。

...。

 

そのとき、窓の後ろで聞こえる「息子の笑い声」が、薄暗い寝室を明るく照らしていた。

 

私が思わず、その丸い顔を撫でるとき、

「これ以上、必要なものは何もない」という気づきが、揺れる視界、それが「涙」であることを静かに教えていた。

 

後記: 

子供を、特に幼児を連れていく買い物。
皆さんはプラン通り行きますでしょうか?

台風の前日、大型モールで感じた日常を、
独特の哲学wで回想してみました。


少しでも共感できる内容があれば嬉しいです。

それにしても「子供の寝顔」は、
やはり格別だな〜と思う親バカwです。

(日記) 障害と気づき

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信号待ちの横断歩道。

… 彼は助手席で笑っていた。

 

しかし彼の外見から
思考が「障害」と言うやいなや

 

「大変」
「苦労」
「苦しみ」
「障害をもって生きること」…。

 

常識という偏見と結論、
知識と経験を呼び起こすやいなや

 

思考は瞬時に
無数の言葉とイメージを作り出し、
それを通して対象を見つめていた。

 

… しかし
今、目の前の彼は
それらとは全く無関係に

 

いかなる悩みもいかなる葛藤も
持っていないかのように

 

言葉では表現できない
素敵な笑顔で笑っていた。

 

それはまるで幸せそのものが
まわりに滲み出るような笑いだった。

 

そしてその隣には
黒い肌の大柄の中年男性が
ハンドルを片手に
彼を優しく見守っていた。

 

その優しさに包まれながら
思いっきり笑っていた彼は
突然、横断歩道の前で
微笑んでいる私に気づいた。

 

彼は何か恥ずかしそうに
後ろに隠れたが、そこには
見知らぬ人への警戒感は
全くなかった。

....。

 

「対象への観察」と
「観察から生まれる思考の動き」

 

一秒、一分、一時間、
その時間とは無関係に

 

けっして膨大な経験や時間では
得ることのできない気づき。

 

生まれて死ぬまで
果てしなく繰り返す
「目標への努力」のように

その膨大な時間とエネルギーの
積み重ねのような

何かの結果として得られる
ものではない気づきがある。

...。

 

「観察(思考)するものは、
観察(思考)されるものである。
j.krishnamuruti」


・・・「障害」

その気づきの中で

本当の「障害」は、
笑っている彼ではなく

障害という目で
対象を見つめる、
自分自身であった。