韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について日常から気づくことを書き残しています。思考の軸は、インドの哲人クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)。5年目ブロガー。21年冬Amazonペーパーバック出版。これからもぼちぼち続けていきたいと思います。コメントや批評全てご自由に。

自画(自我)像

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ぼやっとした思い出の感情。

「あの時に戻りたい!」
つい叫びたくなる懐かしい時間。

ありきたりな日常とかけ離れた
別世界のような…穏やかなひととき。

そして繰り返し、繰り返し、
何度も眺めたくなる誰かの
そして自分の言葉…。

仕事に、人間関係に、家事や育児に、
常に過去や何かに没頭している
自分を止めたとき、

愚然…訪れる少しの余裕と余白。

しかし今日も僕は、
そのありがたい偶然を…
その美しい余裕と余白を…

「そういえば… あの時...」
「これからどうしたら…」

ありのまま眺めることなく、
その美しさを感じ取ることなく…
またもや、ありきたりな思考に
夢中になってしまう。

ほんの一瞬の間…
眩しく輝いていた、
あの余裕と余白が…
思考や夢中に埋もれていく。
そしていつも後になって
自分がやらかしたことに気づく。

「ありきたりな日常」…

その気づきと同時に…
また僕は…今日という瞬間
そう
名付けて…嘆く。

転んで泣いて、怪我をして…
誰かの愚痴や行動を非難して
時間を守らない子供に怒って
そして怒っている自分に怒って...
穏やかであるべき日常を脅かす
あらゆるものと戦う、今日という瞬間を…。

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…ふと、

自分こそ「私」であると言い張る、
自分勝手で貪欲で、終わりのない
心地良さや快楽だけを追い求める
自我やエゴの存在に気づき、

その限界とちっぽけさに驚き、
それが他ならない自分自身である事実に
唇を噛みしめ、黙り込み、立ち尽くす。

虚偽を虚偽として観、
真理を真理として観、

虚偽の中で真理を観る。

言葉では、頭(思考)では理解し、
分かっているつもりでも...
それが目の前の日常となると、
また誰かと、無数の何かと戦ってしまう。

結局...自分の人生も、
あれほど否定していた誰かの人生と
あまり変わることなく…
似たり寄ったりしていることに気づく。

そうやって常に、
虚偽としての人生を「私」というやつは
決してそうではないと…
今日も
必死に言い張っている。

そこには…
そのために、必死に
戦い続ける
哀れな日常を生きる、何の変哲もない
ただの
中年男性が一人いるだけなのに...


人生や生きる意味というものを...
日常と離れた何かから見つけようとし、
今日もその二つを区分し、分離したまま…
仕事に向かい、家に帰る。

 

そしてまた…その全てが終わった少しの間、
一定の枠に捉われて何かを判断し、
それっぽい言葉で誰かを説得し、
そういう自分を...たまにチラ見して微笑む。

 

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"나 다시 돌아갈래!"
「おれ、(あの時に)戻りたい!」

迫ってくる高速列車に向かって
主人公が叫んでいた最後の言葉。

あの古い映画の主人公のように...
自分も、死ぬ間際まで…
やりきれない気持ちを抱え、
その苦しみにもがき、
哀れな自分の自画(自我)像に、
涙を流しているだろうか。

それとも、ただ...その全てを、
目の前にある虚偽を噛みしめ、
今という真理を生きるだろうか。

今日も...
繰り返し、繰り返し、
何度も、自分の問いを眺める…

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それでは以上のことを話し合いましょう。ご質問はございませんか?「
今話されたことは、日常生活においてどんな価値があるのか?」と尋ねても構いません。

「僕は生きていかなきゃならない。そのために会社に通わなきゃならない。家族があるし、上司もいる。それに競争も厳しい。いったい今の話は、こういう現実と、どう関係があるっていうのさ?」と、おそらくそのようなご質問があるかも知れません。しかし、その質問者は、今朝の私の話について来なかった人でもあります。

瞑想とは、毎日の生活からかけ離れたところにあるわけではありません。部屋の片隅に消えて行き、十分間瞑想し、部屋から出ると「肉屋」になる。これは比喩ですが、事実でもあります。

膜想は、きわめて真剣な行いの一つです。あなたは毎日実践しないといけません。会社の中であれ、家族と一緒にいる時であれ、「君が好きだよ」とささやく時であれ、子供のことを考える時であれ、みんな瞑想を必要とするのです。

そうでないと、子供を教育して、軍人にし、殺戮・愛国・国旗禁拝というコースになる、つまり子供を訓練させ、みすみす現代社会の落し穴に導いていくことになってしまいます。

こういった事態を見つめ、そこで果すあなたの役割を自覚するということ、その全てが瞑想の一つなのです。

あなたがそういう瞑想を行う時、すばらしい美しさをそこに見つけるでしょう。あなたは、刻一刻を正しく生きていけるでしょう。ある一瞬間違うことはあっても、あなたはすぐに立ち直って軌道を修正するでしょう。くよくよしていて時間を浪費することがありません。瞑想は、人生の一部であり、人生とかけ離れて存在するものではありません。

「J. クリシュナムルティ The flight of the Eagle 1971 (自由への道 瞑想について)」

 

【あとがき】

それがいつ、どこであれ、
書きたくなったら書く。

「続けること」
「続けることこそ大事」
という理想と思考は...

気づき、眺め、
その後を残さず...その場で殺す。

そして書きたくなったら書く。
...それだけのこと。

 

♩夜明け | ビューティフルハミングバード

 

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(日記) 思考と自然

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久しぶりの雨に洗われた木々が
透き通った空を背景に、色鮮やかに輝く。

そよ風に波打つ葉っぱの上を
黒い鳥たちが静かに飛び交う。


子どものお描きのような緑が
無邪気に彩られている山々。

「昨日の何か」
「いつもの何か」…。


過去に過ぎない記憶や、
その記憶と共に
呼び起こされる感情が…
やがて言葉として吐き出される。

「懐かしい」
「美しい」


そうやって今日も人は、
目の前に広がる「未知の何か」を、
「過去に決して存在しなかった何か」を…
自分の記憶から、その反応から眺める。


そしてその感情に心酔し、その全てを
言葉として表現することに夢中になる。


しかし、まさにその心酔と夢中が…
目の前の何かを歪め、曇らせていることに…
それにこだわればこだわるほど、その表現を、
さらに…
ちっぽけなものにしていることに
気づくことなく、

今日もまた…
目の前で広がるあの美しさから目をそらし、
ちっぽけな自分の表現を眺め、微笑む。

***

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記憶も、感情も、言葉も…
それで全ての思考も持たずに、
好きな部分だけを選び取ることなく、
自分の視界に入ってきた自然を
その全てをありのまま…ただ眺める。


そのとき人は、
無数の葉っぱを垂らしている木々が
その間を静かに流れる小川が、
あらゆるものを自分の住み処とする
数えきれない命が…

過去ではない今を懸命に生き、
その懸命さという秩序をもって
自ら調和を保っていることを…

そして愛は…
まさにその調和の中にあることを
見つけるかもしれない。


それは、決して…
セメントや高価な何かでは作り出す
ことのできない美しさであり、
過去や未来…人が生きている時間という
思考に縛られない自由という安らぎであり、

それで... 決して劣化することのない、
ただそこに…いつも新しく存在している
何かである。


しかしそれを言葉にしようとするとき…
まさに、その言葉と思考が、
止まっていた時間を動かせ、その時間と共に、
思考者を介入させるや否や…

愛は、自由は、その美しさは…
触ることのできない、
あのか弱いアサガオの花びらのように
バラバラに壊れてしまう。

***

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美しい森や山々を背景に
堂々と聳え立つ高層マンション。


四角いべランダーが無数に並ぶ
築何年から始まる、灰色のセメントビルを
好き嫌い…という言葉無しに眺める。


金や物、名誉や権威、愛や同伴者…。

人は常に…何かを所有したがり、
その所有が自分に与えてくれる
地位や自己満足に喜び、微笑み、
そしてそれを他人と比較することで、
安心と安らぎ、そして…何かの自由を見つけ出す。


またその狭い枠の中で、何かを眺め、
その全てが…未来には無いかもしれないという
不安に怯えながら、目の前の美しい景色ではなく、
自分自身を眺める。


そして今の教育は…
あの狭いビルの中で…より良い部屋、
より良い展望の持ち主になるように、
その必要性や方法を植え付けるだけで、


比較や競争の無意味さ、自己満足の虚しさと悲しみ、
その危険性…そして、それら全てを見出すことの
必要性については…
決して教えない。


自然の大切さや調和の必要性は…
図書館の中で誰かを待っている
あの古びた絵本の中に…

「自然は大事にすべきだ」という
親や先生が、子供に読み聞かせる、
もう一つの観念や理想としてのみ存在する。

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しかし、それは本当に…
私たちの日常とかけ離れた観念、
もう一つの「こうあるべき」何かだろうか?


それは本当に…教え、押し付けることで、
親や先生を喜ばせ、満足させるための
何かだろうか?


彼らが夢中になって、子供に教えようとする
その何かは…思考が作り出した無数の絵本や
美しい写真、広告混じりのその動画の中にある
何かだろうか?


果たして…自然の美しさや自由を、
それを見出す
必要性を学ばないといけないのは、
本当に…子供だろうか?
それとも…私たち親だろうか?


自ら感じ取ることができないというのに…
自分の理想や安心や安らぎという
狭い枠を通して、子供を眺めているというのに…
どうやって…それを子供や他人に
教えることが
出来るというのだろうか…。

人は...
子ども
を、誰かを…そして自分を...
本当に愛したことがあっただろうか…。

***


… 問い、悩み、苛立ち、憤り…
ちっぽけな自分の思考が止むとき…

今日も庭の片隅で…か弱い水色のアサガオが、
過去ではない今を懸命に生きていた。

 

♩眩しい季節のなかへ | ビューティフルハミングバード

 

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【抜粋】共感と愛

 

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皆さん、他人と意志疎通するには愛がなければなりません。結婚すべきかどうか、誰と結婚すべきか、セックスの問題、創造性、等々こういったすべての問題が起こるのは、私たちが愛を持っていないからです。

 

しかし、あいにく愛は学び取ることのできないもの、翻訳できないものなのです。それは、あなたが何の問題も持たないときに生まれ出るのです。

 

あなたは時々、自分が歩いているとき、星を見つめ、空や日没を見つめながら、なぜか知らずに幸福を感じたことがありませんか? このようなとき、あなたは他人と腕を組みたくなり、真に共感するのです。

 

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しかしあいにく、私たちは自分自身の思考や問題や恐怖や羨望でいっぱいなので、共感を持つひまがないのです。あなたは、自分の妻を知らないのです。自分の夫や子供たちを知らないのです。

 

あなたは子供を持っていますが、しかし何の愛も持っていません。なぜなら、あなたとあなたの妻は孤立しているからです。手製の壁の向こうに身を隠しており、その壁をとりこわさないかぎり、共感はありえず、そして共感するには愛がなければなりません。

 

愛無しには、単なる純潔、独身を追求することは不貞であることです。愛があるとき、そこに純潔、純粋さがあり、不壊なるものがあるのです。

- J.krishnamurti -

 

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Actually, We Have No Love

https://youtu.be/q5n1MsD17bY

 

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(日記) 蝶と平和

 

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どの花とも異なる色の蝶が、

静まり返った空き地の上を

優雅に飛んでいた。

 

何の迷いも何の抵抗もなく、

軽々しく花から花へと飛び回り、

時々花には何の興味も無いかのように

仲間と戯れ合っているその姿に

見入っていると…

 

あの蝶の名前は?

次はどこに?

 

静まり返ることのない思考が

今日も頭の中で飛び回り始める。

 

そうやって思考に囚われたまま

蝶を追いかけても、蝶は常に…

決して見たことのない弧を描きながら、

狭い自分の視界(思考)から消えていった。

***

 

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いつもそこにあるという思い込み、

いつでもそれに触れることができる

という安心感とその積み重ねである惰性。

 

当たり前すぎて…つい通り過ぎてしまう

のどかな日常の美しさと平和を...

今日も僕は、ありのまま見ることなく

狭い自分の思考を通して眺めていた。

 

そうやって自分が、

目の前の対象を自分の知識や経験から...

そこから浮かび上がった狭い思考から...

眺め、評価していることに気づくとき。

 

まさにその気づきと知覚が…

あの蝶のように...ここからあそこへと

次々と飛び回る思考を静まり返らせる。

***

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一度も見たことのない雲と空。

茂った草の間を行き交うあらゆる昆虫。

息もせず静かに何かを待っている蜘蛛。

風になびく葉っぱと花々の波しぶき。

 

気づいていなければならない。

沈黙しなければならない。

これこそ観察で、瞑想である。

 

誰かの権威や言葉から眺めることなく、

そう自分に言い聞かせることなく、

それで、その沈黙をもって静かに...

その全てにただ...とどまる時。

 

雲も、昆虫も、雑草も、花も、

それら全てに触れるあの風も...

決してバラバラではなく、互いが

互いを支え合っている一つであることを...

 

人は、誰かの言葉や知識からではなく、

自分の感覚で感じ取り、気づき、

そしてそこにある、美しさと平和を見つける。

***

 

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平和とは何だろう?

 

それは...眉間にシワを寄せて、

声高に掲げる気高い理想だろうか。

 

自国や自分の平和のために、

誰かの平和を犠牲にする、それで...

その手段としてのあらゆる暴力を

正当化する、何かの目標や信念だろうか。

 

また、立派なスーツで授賞式に参加し、

無意味な演出に喜び、それを褒め称えたり

自慢したりする、その何かだろうか。

...

 

それとも、平和は...

思考では見つけられない、感じ取れない、

それで...決して言葉にはできない何かだろうか。

 

果てしなく捨てられるゴミや自然破壊。

食べられるために生まれる命。

便利さと安さに失われる健康。

原発・新しい発電や電波による危険性...。

 

そのとき、自分の小さな信念や価値観から

何かを眺め、その反動や反応から憤りを

覚えたり、受け入れたり、諦めたりする、

その中に、平和はあるだろうか。

 

自分が信じたい何か...

決して否定されたくない大事な何か

守るために...人は今日も平和や未来を掲げ、

誰かを説得したり、納得させることに

夢中になっていないだろうか。

 

果たしてその中に、平和はあるだろうか...。

***

 

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空き地に響き渡るセミの鳴き声。

鳥のダイナミックな羽ばたき。

湿った庭の片隅でくつろいでいる蛙の背中。

そしてその全てを眺める、しなやかな

ユーカリの葉っぱ。

 

灰色の雲に姿を消した蝶の代わりに...

白いたんぽぽのわたげが...

静まり返った空き地の上を、

優雅に舞上がっていた。

 

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【抜粋】瞑想と行動

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わたしたちは誰もがみな、葛藤のない生き方を求めているはずです。

人々はそうした生き方を、例えば僧院生活の中に求め、僧侶としてあちこちを放浪したり、俗世を逃れて洞窟や象牙の塔の中に引きこもったりすることで、苦しみや悲しみが存在することのない生き方を見いだそうとしてきました。

 

にもかかわらず、人類は内側の世界においても外側の世界においても戦いに明け暮れる生き方に身を委ねてきたのです。

 

たとえ僧侶になろうと、さまざまな苦闘、混乱、不安を経験することから逃れることはできません。わたしたちはもはや人生を戦場として受け入れて反目しあうだけでなく、自己の限られた意識の内側においてすら分裂を招いています。

 

わたしたちは騒乱を引き起こすような生き方しか知らないので、さらなる不安や絶望を招くような行動しかとれないのです。

 

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それでは、そもそも葛藤を生まない行動というものは存在するのだろうかという問題を考えてみましょう。

 

行動とは、どう行動すべきかというイデオロギー的な概念を指すのではありません。まさに今この瞬間になされる行為、それが行動です。

 

これまでになしてきた行為、あるいはこれからなそうとしている行為のことではあり得ません。前者は行為の記憶に過ぎず、後者は過去の行為を現在の視点から投影したものに過ぎないからです。

 

わたしたちは行動について思案を巡らせ、それを現在において実行し、必要とあれば修正を加えます。つまり、行動とはわたしたちが過去に巡らせた思考によってもたらされたものなのです。

 

したがって、今この瞬間を起点とする行動というものは決して存在せず、そこにはつねに過去の影が差しているのです。ここで言う影というのは記憶や経験や知識のことであり、いかに行動すべきかを規定するイデオロギーや概念のことです。ですから、わたしたちが真の意味で行動することは決してないのです。

 

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今ここに過去をもち込み、それによって未来の結果を生みだそうとする分裂した行動は、すべて思考のなせる業です。思考は過去の産物であり、それゆえつねに新鮮さを欠きます。

 

思考の中には何ら新しいものが存在しないため、思考に支配された行動はもはや行動ではなく、単に結果や効果たらすためのものに過ぎません。しかし、生きることや感じること、関係性をもつことは常に現在のできごとであり、現在とは刻々と移ろいゆく過程なのです。

 

このように、あるがままの現在とこれまでの過去との間には絶えず矛盾がつきまとうため、どのような行動をとっても必ず軋轢が生じるのです。

 

普段、行動と呼ばれているもの、およびそこから生じてくる葛藤にまつわる以上のような仕組みをすべて理解できたとき、思考ではなく、静寂と沈黙そのものの精神状態によって行動が導きだされることはあり得るのかという問いかけが生じてきます。

 

こうした場合においてのみ、結果だけを目的とするのものとは異なる行動が可能になり、また、そこから苦痛や悲しみが生みだされることも無くなるのです。

 

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瞑想とは、過去によって占められた精神を空(empty)にすることです。そうすることができたとき、もはや行動そのものが瞑想になります。

 

なぜこれが必要なのかといえば、わたしたちの生活とはつまるところ、関係性における行動によって成り立っているからです。過去のイメージから精神を解放するためには、瞑想という行為が必要なのです。

 

- アートとしての教育 クリシュナムルティ書簡集(小林真行訳) -

 

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人生について...少し話をしませんか。

 

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人生について…

違うようで似ている、
あなたと私の、人生について…
今から、少し話をしてみませんか…?

 

…勿論、いつものように、
スマホ画面をスライドしながら、
内容を読み飛ばし、たまに…
写真の前で少し止まるような、
そんな感じでも構いませんので…

 

心地よいソファーに包まれて
コーヒーを片手に、そうやって
気楽に互いの話に耳を傾ける
昔からの友人のように…

あなたと私、二人で、
私たちの人生について、
…少し話をしてみませんか?

 

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あなたが好きなあのドラマのように
笑ったり、泣いたり、感動したり…
そうやって感情を揺さぶる激しさは
ないかもしれませんが…

 

白い泡がゆっくり弾くコーヒーのような

癒される何かはないかもしれませんが…

 

…それどころか、少し違和感を感じたり、
心のどこかでずっと押しやってきた何かを、
二度と眺めたくなかった何かを突きつけられ、
不快感と苛立ちを覚えるかもしれませんが…

何事も、真剣に話し合う二人の友人のように…

 

未来の予定など気にすることなく、
今ここで話をするためだけに、
そうやって…互いに向き合って…
話をしてみませんか?

とてつもなく大きな木の下で、
気持ちいい朝の日差しとそよ風に
揺れている葉っぱの光を感じながら…
言葉にはできない、忘れていた
あの懐かしさの中で、一緒に座って、

 

...少し話をしてみませんか?

 

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「否定されるかもしれない」
「ただ頷いているだけかもしれない」


そういう心配や不安に悩まされることなく、
まるで赤ん坊を観察するかのように、
語られる話に自分が出来る全ての注意を
払って見守るかのように…

あなたの人生の話を...

 

数々の出来事と喜怒哀楽を、
そしてそこから学んできた全てを…
それで…思わず一緒に笑ったり、

泣いたり、怒ったりする、その話を…

「良い」「悪い」と言わずに、
否定したり、無闇に共感することなく、
それで何の意図も何の目的もなく、


語られるその話を、ただ…ありのまま傾聴し、
言葉と、言葉ではないその全てを感じ取るように、

あなたに対する記憶やイメージを全て忘れ、
それで、話をしているのはあなたではなく…
まるで自分自身であるかのように…

 

そうやって…互いに向き合って…
少し話をしてみませんか?

 

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人生とは何でしょうか。

それは朝九時から夕方六時まで仕事に出かけ、家に帰ること。それで、次の仕事までの間、疲れを癒したり、何かの娯楽を楽しんだりする、その日常のことでしょうか…?


生計のために何かのスキルを習得し、宣伝をし、競争に勝ち抜き、それからは決まりきった日常から安心感を感じ、それを継続させるために日々悩み、苦しむことが人生でしょうか?


そして経済的余裕ができれば、精神的余裕を求め、気高い社会貢献やボランティアに専念すること。それで、自分の信念や価値観が間違っていないことを何度も、正当化し続け、それをまわりに、子どもに何気に自慢し続けること。


無数の目標を作り出し、それを達成するために頑張り、それで、自分を認めてくれる誰か、花まると共に、喜んでくれる誰かを期待しながら生きていくこと。

 

毎日自ら作り上げた葛藤と苦しみを、持ち帰って相手を憎み、ストレスを発散し、そして次の朝には何もなかったかのように誰かと出会うこと。

 

…それが、人生でしょうか。

 

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もし、そうではないもの、

その全てを否定すれば...

そのとき初めて...

本当の人生というものが、

言葉では伝えることのできない何かが、

 

ゴールや最後の目標にではなく、

まさにその否定と同時に...

最初に現れるのでしょうか?

 

... 私には分かりません。

ですが、人生とは...もしかしたら...

それらとは全く違う何かかもしれません。

 

また、この全ての話を、

何年も同じ話をしている、

私のちっぽけな信念や価値観とは、

全く無関係な何かかもしれません。

 

それで... もしかしたら、

これまで正しいと思ってきたことは、

何もかも間違っていたかもしれません。

 

...ですので...

 

人生について…

 

違うようで似ている、

あなたと私の、人生について…

今から、少し話をしてみませんか…?

 

最後にあるゴールや結論ではばく、

最初が、常に最後である...

私たちの話を…。

 

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(予選通過) 写真コンテストに応募しました。

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#写真について説明して下さい。

 

恒例や安心という言葉が、異例や不安に変わっていく日常の中で迎える入学式。


初めての小学生という人生の一大イベントに、子も親も…不安と同時に希望や期待に胸を膨らませるのではないでしょうか。


しかし、すっかり「コロナ」という言葉に慣れてしまった日常で、「自粛」という言葉にも親も子も「萎縮」されてしまったのではないかと思う今頃です。

 

そう、振り返ると、「4月」や「桜」という言葉には、いつも「希望」と「期待」が、校庭のどこかで、咲き乱れる桜の下で、また少し緊張した一年生の小さな肩の上で、眩しく輝いていたのを覚えています。


しかし、いつのまに…その「希望」と「期待」は、慎むべき「何か」、遠慮すべき「何か」として…その姿を消しつつあることに、そのもどかしさに、親は大人は…ついつい寂しい表情になってしまうのではないでしょうか。

 

今回応募した写真は、人生初めてのスーツを着て、入学式予行練習に出かけた息子の後ろ姿を撮ったものです。


憧れのランドセルと桜道、ピカピカのイギリス風スーツに、予行練習や入学式のことは、すっかり忘れて息子は笑いながら踊っていたのを覚えています。

 

また、ランドセルの上で踊る桜の影は…まるでランドセルそのものが、ワルツに合わせて入学を喜ぶかのような、そんな錯覚を呼び起こすほどでした。

 

そういう錯覚も大事にしたいと思い、作品名もシャッターと共に頭に流れてきた、ワルツ「美しき青きドナウ」から、「美しき青きランドセル」としました。

 

…あなたの「希望」と「期待」は、今、どこで踊っていますか?

***

 

#本コンテストへの意気込みをご記入ください。

 

意気込みを聞かれる、これを読んでいる方に、私はこう尋ねたいと思います。

 

「写真に必要なものは何でしょうか」と…。

それは、派手な構図やテクニックによる、一度も見たことのない何かでしょうか。


それは、今は廃盤となった幻のカメラで撮る何かでしょうか。最新テクノロジーで武装した、目が回るような速度と設定で、あらゆる被写体を完璧にとらえる、それでその完璧さをもって何かを伝える何かでしょうか…。

 

それとも、写真とは…
ファインダーを覗き、自分が見たい何か、自分が渇望する何か、自分が探し求めているその何かを、ありのまま自ら眺めることでしょうか。

 

ですので、写真とは、もしかしたら被写体ではなく、被写体を眺める「自分自身そのもの」なのではないでしょうかと。

 

その時、大事なのは、あらゆる数字やコントロールに長けているノウハウやスキルではなく、目の前の何かをありのまま眺めることができる、その無垢さという感受性ではないでしょうか。そしてその感受性こそ、写真に必要なものではないでしょうか。

 

もちろん写真には、特徴溢れる被写体や斬新な構図、その目新しさも大きな魅力であるとは思います。ですが、そこに感受性が無ければ…、被写体を、自分自身をありのまま眺めることが出来なければ、斬新な構図、その目新しさが何の意味を持つのでしょうかと尋ねたいと思います。

 

それで、自分の写真にそういうのがあるかどうか... 私には分かりません。


ですが、それは互いの非難や否定ではなく、ただ…ともに眺める、それでともに見出す、そういう問いではないかと思いました。

 

ありがとうございました。

 

-「さくら芸術文化応援団」応募内容より -

 

(日記) 抵抗とエネルギー

 

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ちゅうりっぷだ!

 

心配事や時間に追われ、

玄関と車を何度も行き来している

自分の隣で...娘はそう叫んでいた。


少しの無駄も許されない、

少しの余裕や休息も...与えられない、

息が詰まりそうな平日の朝という

世界からかけ離れたところで…

 

娘は、ただひとり…

大きく見開いた瞳を輝かせながら、

キラキラ光る、小さい靴を止め...

赤い鉢の中で、静かに朝日を浴びている

チューリップを眺めていた。

 

「いち、にい、さあん、よおん、ご!」

「ごこもある!」...

 

言葉では言い表せない花びらと香り。

その下で色鮮やかに煌めく青い葉っぱ。

 

それはまるで...世界一の染料を、

花びら一つ一つに染めたような、

目が痛くなるほど、強烈な色彩と光を放つ、

これまで一度も見たことのない花だった。


はやく!はやく!遅刻しちゃうよ!


しかし今日も僕は...

まるで何かから逃げるかのように、

朝日で輝いている、あの小さい手を

無心に、強引に...引っ張っていた。

 

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「約束」「遅刻」「生計」...

何かへの心配事や不安。

そしてそれらを作り上げた社会や

特定の対象に抱く不満と憤り。

 

しかし手を引っ張り、車を走らせても

...どんなにそこから逃げ出しても...

自分に「不自由」を感じさせる、あの感覚が、

その中でもがく自分への苛立ちや自己嫌悪が...

消え去ることは... けっして無かった。

***


抵抗。

何かから不自由を感じるのも、

その不自由の反動として自由を追い求めるのも、

その目標としての自由に辿り着けない自分に

苛立ちや自己嫌悪を感じるのも、

全て... 自分が作り出した葛藤、

そして...抵抗でしかなかった。

 

人生という果てしなく続く川の中で、

比較、競争、快楽、無慈悲、暴力...

激しい流れに溺れないように...

それで自分自身を頼りに、ただ一人、

立ち向かわせる、生きるエネルギーが、

今日も...終わることのない葛藤と抵抗で

消耗されていく...。

 

そして... それが、何千年も何万年も...

果てしなく続いていることに...

その大きな「悲しみ」の川に...人は生きていた。

 

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葛藤や抵抗を抱えずに、

それで生きるエネルギーを消耗せずに、

生きることは、可能だろうか?

 

何かの不自由から自由を求めるのではなく、

自分に苛立ちや自己嫌悪を感じることなく...

 

その全ての不毛さと危険性に気づき、

その気づきという、「自由」の中で...

生きることは、可能だろうか?

...

私は、ただひとり…

自分自身を眺め、そう問うていた。

そのとき...。

咲き乱れる香りと色彩で輝く朝が、

これまで一度も見たことのない、

途方もなく美しい朝が... 目の前に広がっていた。

 

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lcpam.hatenablog.com

 

(日記) 傷と愛

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傷。

目の前で動く、あの時計のように、

道端に咲いた、あの一輪の花のように、

実際に存在する、一つの事実のように、

 

人の意識の中で、

日々の日常の中で、

傷は...人生の一部分として

常に自分の居場所を持っていた。

 

「昨日の些細な傷」

「何十年前の深い傷」

「コンプレックス」

「トラウマ」...。

 

...そこには常に

吐き気と違和感が、

不快感と怒りが、

そしてそれらから生まれた

痛みと悲しみがあった。

 

しかし人は...常に...

その痛みと悲しみの反対側、

より居心地よく、より安心できる

どこかを探し求め...できるだけ、

自分の傷から遠く離れたどこかに

それを少しでも忘れさせてくれる

誰かに逃げていた。

 

そうやって人は...

自分とは別々の何かのように

常に離れた場所から、傷を眺める。

 

そのとき、傷は、

癒されるべき何かとして

治癒されるべき何かとして

解決されるべき問題として

常に...人生の一部分として

その居場所を持ち続ける。


しかし人は...

自分や傷という感覚は

全て思考の動きの一つに

過ぎないということに...

そこには、けっして距離も区別もなく、

それで「傷=自分自身」であることに

気づくことなく、そしてその気づきの

必要すら感じることなく、

 

いつも自分と傷を区別し、

その区別がもたらす、痛みと悲しみを

当たり前の事実のように受け入れ、

傷を背負った犠牲者としての

傷ついた被害者としての自分自身に...

今日も涙を流していた。

 

***

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昨日より気高く、

昨日より慈愛深く、

昨日より高いレベルに...

 

「こうあるべき自分」

「これこそ本当の私」

 

毎日、無数に作り上げられる

「自分」「私」というイメージ。

 

自分が描くイメージを通して

夫(妻)や友人や子どもを眺め、

喜び、怒り、涙を流し、

今日もまた無数の傷が作られる。

 

そして人は...

それを関係と呼んでいた。

 

「自分が描く自分」

「あなたが描くあなた」

 

しかしその時、関係は、

ありのままの、変わり続ける刻々の

自分とあなたの関係ではなく、

互いのイメージによるものにすぎなかった。

 

そして人は、自分のイメージが壊れたとき、

「傷ついた」「侮辱された」と叫び、

今日もまた...新しい傷を作り出していた。

***

 

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傷は...

それを作り出した誰かを許すことで、

和らぎ、無くなるような何かだろうか。

 

それは本当に...

人生に欠かせない何か、

癒され、治癒されるべき何かだろうか。


それで...人生とは、

その果てしない痛みと悲しみを

受け入れながら、生きることだろうか。

...

人は、

その痛みと悲しみからその反対側に、

自分を慰めてくれる誰かに逃げることなく、

また「傷」という言葉を付けることなく、

自分に「傷ついた」と言うことなく、

ただ...それと共にとどまることができるだろうか。

 

それで...いかなるイメージも、いかなる傷も

作り出すことなく、生きることは可能だろうか?

...

...自分。

目の前で動く、あの時計のように、

道端に咲いた、あの一輪の花のように、

実際に存在する、一つの事実のように、

 

「自分」という感覚も、ただ...

一つのイメージに過ぎないことに気づく時、

 

その気づきの中で、

自分に、そしてあなたに向き合う時...

 

その時、

あの雑草のように、

関係が、愛が...

静かに、花を咲かせるに違いなかった。

 

 

lcpam.hatenablog.com

 

【抜粋】自然と責任

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川辺に一本の木があり、私たちは数週間、来る日も来る日も、朝日がまさに昇ろうとするころに、その木を見ていた。木々の向こうの地平線にゆっくりと日が昇ってくると、この木は不意に黄金色になる。

すべての葉が生命に輝き、見つめて時間がたつにつれて、木の名前は何でもかまわないが―大事なのはその美しい木だから―とてつもない質の高さが、川の上やあたり一面に広がっていくように思える。

太陽がさらに高く昇るにつれて、葉は揺れてダンスを始める。そして、時間ごとに木はその質を変えていくように思われる。太陽が昇る前には物憂げで、静かで、遠くて、威厳にあふれている。

 

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一日が始まると、光を受けた葉が踊りだし、すばらしく美しいものが有する特別な感覚をこの木に与える。

真昼に向かって影は濃くなり、太陽を避け、木に守られて木の下に座れるようになる。木が一緒にいてくれるから、まったく寂しくない。座っているとき、木々だけが知っている深くて変わらぬ安心で自由な関係が、そこにはある。

暮れかかって西の空が夕日に照らされるころ、この木はだんだんと物憂げに、暗くなって、自らを閉ざしていく。空は赤や黄色、緑色になるが、この木は静かにひっそりと夜に向けて安らぐ。

この木との関係を確立するなら、あなたは人類と関係をもつことになる。そのとき、あなたはこの木、そして世界の木々に責任をもつ。

だが、この地上の生き物たちとの関係をもっていないなら、あなたは人類との、人間とのどんな関係も失うだろう。

私たちは決して一本の木の質を深く見つめることがない。私たちは決してそれに触れず、その堅固さを、ざらざらした樹皮を感じないし、木の一部である音を聞かない。楽群を通り過ぎる風や葉を揺らす朝の微風の音ではなく、木そのものの音、樹幹の音、根の沈黙の音だ。その音を聞くためには、とてつもなく鋭敏でなければならない。この音は世界の雑音でもなければ、精神のおしゃべりの雑音でもなく、人間の争いや戦争の俗悪さでもなく、宇宙の一部である音なのだ。

 

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私たちが自然と、昆虫や飛び跳ねるカエル、丘陵でつがう相手を求めて鳴くフクロウと、ほとんど関係をもっていないのは奇妙なことだ。私たちは地上の生きとし生けるものへの共感をまったくもっていないように見える。

もし、自然との深くて変わらぬ関係を確立できれば、決して欲望にまかせて動物を殺さないだろうし、自分たちの利益のためにサルやイス、モルモットを傷つけたり、生体解剤をしたりしないだろう。私たちは自分の傷を癒し、身体を稽すために、他の方法を見つけるだろう。

だが、精神を獲すとなると、話はまったく別になる。その癒しは、自然とともに、あの木のセメントのあいだから顔を出す葉とともに、そして雲に覆われて隠れている丘陵とともにあるとき、徐々に進んでいく。

これは想像でもなく、ロマンチックな感傷でもなく、地上に生きて動く全てのものと関係性のリアルリティである。ひとは何百万頭もののクジラを殺してきたし、今も殺しているこの殺戮から私たちが得たものは全て他のの方法でも手に入れることができる。だが、ひとは明らかに生き物を、華奢なシカや美しいガゼル、立派なゾウを殺すことが好きらしい。

 

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私たちは殺し合うことが好きなのだ。

この人間の殺し合いは、地上の人類の歴史で一度も止んだことがなかった。だが、自然との、現実の木々との、数との、花々との、草や勢いよく流れていく雲との、深くて長くて変わらぬ関係を確立できたなら、ーそうしなければならないのだがーそのときには、私たちは、どんな理由があっても、ほかの人間を殺戮することは決してないだろう。

組織化された殺人は戦争であり、私たちは特定の戦争や核戦争、その他の戦争には反対してデモをしても、戦争そのものに反対するデモは決してしない。私たちは、他の人間を殺すことは地上最大の罪であるとは、決して言わなかったのだ。

 

抜粋 : Krishnamurti to Himself
(邦訳「最後の日記』平河出版社)

(日記) 反動と自由

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葉っぱの上で溶けていく雪。

どこかへ向かう静かな猫の足跡。

瓦の下で聞こえる鳥の鳴き声。

空き地の上で踊る鳶の黒い影。


「二月の雪」

 

人は常に言葉を通して、

その言葉が呼び起こす

イメージと感情を通して、

目の前の何かを眺める。


その時、

朝日で光り輝くあの美しさは...

春を待つ色鮮やかな葉っぱの

あのとてつもない生命力は...

いつも...その言葉の横を通り過ぎていく。

***

 

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「ライフ・シフト」

「経済的自由」

「FIRE」

「Nobody’s Perfect教育」...

 

仕事や生計のやりくりに、

果てしなく続く日常に感じる

ストレスと苦痛。

 

そのストレスや苦痛から、

そしてそれらが永遠と続く

かもしれないという恐怖から、

 

別々でありながら一つである、

その全てから逃れるために…

今日も人は、何かからの自由

追い求める。

 

その中で、自由は…

ストレスや苦痛の対義語として、

逃避の向こうにある終着点として

いつまでも未来の理想としてあり続ける。

 

生まれてから...このブログを読んでいる

今この瞬間まで...その数えきれない昨日の中で、

 

親や先生...無数の大人から教え込まれた

常識と言われる価値観と無数の正解。

 

そこにある無数の比較と競争。

意図と目的から始まる人間関係。

 

家庭、学校、会社、教会...

あらゆる所に溢れる常識と正解。

 

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「成功」「幸せ」「安心」

響きの良いスローガンで正解を押し付ける社会。

 

その中で、深い傷を負えば負うほど、

無力感を感じれば感じるほど...

 

人は、自分が受けた傷から、

その傷から導かれた経験から…

その反動として何かを眺め、受け入れ、

怒り、悩み、そして決意し、行動する。

 

そうやって...人生は何かの受け入れと、

その反発(反動)とで形作られていく。

 

しかし...

受け入れも、その反動も

どちらも束縛であることを、

自由は、決して束縛の中には

存在し得ないということを、

教えてくれる人は...どこにもいなかった。

 

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反動ではない人生。

国籍や遺伝子に条件付けられない人生。

伝統や教育の影響を受けない人生。

表面的な関係に傷つかない人生。

傷の反動から行動しない人生。

社会の常識と正解に振り回されない人生。

比較と競争の無意味さに気づく人生。

意図と目的に縛られない人生。

 

それで、成功や幸せ、そして...

ありもしない安心を追い求めない、

そういう人生を生きることは...可能だろうか?

 

「大きな夢を持ちなさい」

「幸せを見つけなさい」

夢や幸せという言葉で、

金儲けの近道やノウハウを、

そこに隠れた比較と競争を、

子どもに押し付けるのではなく、

 

束縛の危険性と自由の意味について

子どもが自ら気づき、見出させる教育は...

果たして可能だろうか?

 

私たち親は...今、

どんな人生を生きているだろうか。

 

その危険性と自由を見つめ、

そして自らの人生をもって、

子どもに何かを伝えているだろうか。

 

それとも...

単なる受け入れや、その反動から

作り上げられたちっぽけな価値観を

今日も、他人との比較と脅かしをもって...

子どもに押し付けているだろうか。

***

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日差しでキラキラ輝く雪。

その全てが終わるのを、

ただ静かに待っている猫。

 

気がつくと、僕は今日も...

目の前で舞い上がる雪を、

そのとてつもない美しさを

ありのまま眺めていなかった。

 

そして今日も、

自由は... 窓の向こうで、

自分の前を、通り過ぎていく...。

 

 

*くたびれ詩人|ハンバートハンバート

 

lcpam.hatenablog.com

 

人生の意味

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人生に意味があるでしょうか…?

 

親や先生…

有名人や成功した事業家、

そして無数の学者や専門家…。

 

人が生まれてきた意味を、

人生と言われるものの意味を…

誰が見つけられると言うのでしょうか。

 

その意味は、

「夢をあきらめるな!」

「希望を捨てるな!」

毎年飽きもせず、同じ話を繰り返す

あのアニメ映画の中に、

 

「心に響いた」「感動した」

無数のレビューと過剰な暴力、

新しい刺激で埋め尽くされた

話題のドキュメンタリーや

ドラマの中にあるでしょうか。

 

日常に疲れ、真夜中や週末に

何かの趣味に没頭しているときに

感じる、その一時的な幸せの中に

あるでしょうか。

 

それとも、それは...

「私は、〇〇であることを信じたい」

「これこそ、人生の生きがいである」

…無数の信念と、それを突き通す、

その力強さの中にあるでしょうか。

 

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…人生の意味は、

一体どこにあるでしょうか?

 

「そんなの、人ぞれぞれだ」

「答えはない」

「答えは自分で見出すものだ」

「そんなこと、どうでもいい」

 

また、あなたは...

傾聴することなく、深く考えもせず、

...そう思っているのではないでしょうか。

 

その思い、その言葉は...

たまたまこの国で生まれ、

たまたま一定の常識や教育を教え込まれ、

その受け入れや反動で作られた価値観が

「私」や「自分自身」であると信じ込み、

また、その価値観に合わせて積み重ねていく

経験と知識に過ぎないのではないでしょうか。

 

もし、あなたがアメリカやインド、

フィリピンや韓国に生まれていたら...

果たして同じ価値観と同じ言葉を

口にするのでしょうか。

 

それとも、ただ...

限られた価値観がもたらす限界と窮屈さに、

それらを主張することの無意味さに気づき、

その気づきから…

誰かの言葉に耳を傾けるでしょうか。

***

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もしかしたら…

人生には何の意味も、

何の価値も無いのではないでしょうか。

 

そしてその無意味さを前にして、

人は不快感や不安や虚しさを感じ、

そのとき初めて…

人生に「意味」「価値」といわれるものが、

その言葉がもたらす安心と慰めが、

不安と虚しさを忘れさせてくれる何かが

とてつもなく重要になるのではないでしょうか…。

 

しかし…

成功や幸せ…人生の意味を求めて苦しむこと。

信念に囚われ絶え間なく葛藤を生み出すこと。

その苦しみと葛藤を正当化し続けること。

気高い信念を広めることに必死になること。

その信念と自分を一体化し続けること。

現実から目をそらし、夢や希望に逃避すること。

それこそ…

無意味なことではないでしょうか。

 

...

あなたにとって...

人生の意味は何でしょうか?

 

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* ふるさと | ハンバートハンバート

(日記) 慣れと沈黙

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の隙間から漏れ出る日差し。

青い葉っぱの上で輝く朝露。

今にも消えてしまいそうな透明な月。

 

穏やかで激しいその空き地には、

夜明け前の静けさが…

人が決して作り出すことのできない

沈黙が充満していた。

 

しかしそれは…

輝く朝露や透明な月への感傷でも、

そうやって自分が見たいものに集中し、

特定の何かを見つめることではなかった。

 

またそれは…

数えきれない昨日から探し出せるものでも、

自分のちっぽけな知識から見つけ出せる

ようなものでもなかった。

 

それは決して…

慣れることのできない何かであり、

静けさという言葉でしか言い表せない

何かであり、

 

そしてその言葉さえも…

全て無意味であることに気づくとき、

そのとき初めて訪れる、

静けさであり、沈黙であった。

***
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慣れること。

新しい環境に適応すること。

新しい人間関係に溶け込むこと。

 

未知の何かと対面するとき、

人はその何かに慣れることに

多くのエネルギーを注ぎ込んでいた。

 

未知の何か。

経験したことのない何か。

知らない、そして不慣れな何か。


その不確実性に

その不予測性に

その不安定性に…

 

人は決して…

その何かをありのまま見つめようとせず、

そこから不安と恐怖を感じ、常により確かで、

より安心できる何かへ逃げようとしていた。

 

また、不安と恐怖に居場所を失った思考は、

それらに「問題」や「ストレス」という

名前を付けては、ありもしない幻を

作り上げていた。

 

そして人は、その幻と自分とを分離させ、

まるで別個に存在する一つの事実のように

それを眺め、その解決に、それからの逃避に

苦心していた。

 

しかし思考は、自分を苦しめているのは、

他ならない自分自身であることに…

自分と苦しみは別個ではないことに...

死ぬまでそれを繰り返していることに…

その果てしない悲しみと虚しさに

気づかなかった。

***

 

慣れること。

不安と恐怖が自分に問題となるや否や、

それを解決するための目標が現れるや否や、

そこには常に、その目標から得られる

何かの結果や報いが、そしてそのための

努力あった。

 

しかし、その目標が達成されたとき、

その努力が終わるとき…

人は、決してそこにとどまることなく、

その穏やかで静かな平穏を保つことなく…

 

新たな恐怖と不安を見つけ出し、

新たな問題とストレスを抱えて

自分を苦しめはじめる。

 

そしてその繰り返しが...

「生きること」「人生である」と

何度も自分に言い聞かせていた…。

***
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がつくと、

その空き地は、黄色い輝きで溢れていた。

あちらこちらに咲いた雑草と花は、

まるで子供のように陽光に喜び、

生き生きしていた。

そしてその上を、心地よい鳥のさえずりが

行き交っていた。

 

あの月と同じように…

思考が、その姿を消したとき、

 

そこには相変わらず…

決して慣れることのない

全く新しい静けさと沈黙があった。

 

そして…それが「人生」かどうか…

…それが「生きること」かどうかは

 

…単なる言葉に過ぎない、

無意味さ、そのものでしかなかった。

 

 

* 寝れない夜に feat.yama | くじら

 

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(日記) 集中と大人

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集中しなさい!

親から先生に、

先生から教授に、

教授から上司に...。

 

時間と共に、

自分の年齢と共に、

その語り手は変わっても...

 

彼らはいつも

何かに集中することを

それで何かを達成することを

高声で言っていた。

 

そして気づくと...自分も

彼らと同じように...

自分の子どもに向かって

全く同じ言葉を言っていた。

***

 

り返ると、

その一方的な命令と口調が、

常に、ある違和感と共に、

反発や反動としての感情を

呼び起こしていた。

 

そして私は、その感情から

目の前にいる、大人を睨んでいた。


そう...

幼い自分にとって大人とは、

あらゆる学位や資格と同時に

全ての学びをやめた人であり、

 

自分の職業に甘んじ、

決まりきった、その機械的な

日常の中で、表面的な言葉を

繰り返すだけの人であり、

 

教えるというとてつもない

価値に気づくことも、自らは

いかなる集中もしない人であった。

 

そして、家に帰ると、

生への気づきの欠如がもたらした

あらゆる自己矛盾に気づくことなく、

それがいかに子どもの夢を奪い、

傷つけていくのかに気づくことなく、

 

夫や妻という都合の良い役割や区別から

家事や教育を片方に任せ、

自分は第三者として趣味に没頭し、

その娯楽と快楽を人生の価値や

慰めにしたがる人であり、

 

っぽけなその人生信念を

いつも... 高いところで語り、

その結果でしかない目の前の貧しさを

都合よく他人と比較し、自己合理化し、

 

その貧しさを、その結果全てを

子ども自らの力で克服することに

そのための理想や教育の押し付けに、

熱心な人であった。

***

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人とは何だろう...。

 

それは、それがどんな形であれ、

社会に適応しようともがき、

そのための効率さだけを追い求める

そういう人だろうか。

 

そこから得られた安心と快楽を

人生の価値ややり甲斐とみなし、

それを子どもに押し付ける人だろうか。

 

一定の地位やステイタスに上っては

それ以上学ぼうともせず、

お決まりの安心と慰めの中で生き、

お決まりの給料で気晴らしの趣味を

楽しむ人だろうか。

 

ちっぽけな自分の姿に気づくことなく

常に古い過去の思い出に浸り、

そこから何度も栄光や快楽を見つけ出す、

孤独で虚しい、ありのままの人生から

目をそらし、そういう自分を合理化する

人だろうか。

 

自分が描く狭い理想の将来から、

目に見える学習成果やその能力から、

自分の子育てが正しかったと言い聞かせ、

それを気高く自慢する人だろうか。

 

それが... 彼らの言う「大人」だろうか?

***

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人は言った。

勉強や仕事、あらゆることには集中が、

そしてその積み重ねである努力が必要だと。

 

しかし、

何かに集中することは、

それ以外のことに無関心であること。

意図的にそれらを無視し、脇にやっておく

排除ではないだろうか?

 

「レベルアップ」

「テスト合格」

「何かの達成」

「あらゆる昇進」

「より良い転職」

 

それが小さな趣味であれ、

何かへの合格や成功であれ、

もしくは貧しい人を助けるためであっても、

 

分野や社会的価値に関係なく、

何かの目的から生まれた集中は、

その目的、そしてそれへの努力以外の

あらゆる気づきを、放棄することでは

ないだろうか。

 

集中は一定の結果をもたらし、

またその結果は自分に大きな

快楽や自己満足感を与える。

 

そしてあらゆる結果から

好みのものだけを選び取り、

その集中と努力を褒め称え、

それらを常に正当化する。

 

そうやって人は、

その集中がもたらした快楽と

自己満足にすっかり魅了され、

永遠とそれを繰り返していないだろうか。

 

それこそ、彼らが高声で叫んでいた、

集中というものの正体ではないだろうか。

 

たして彼らは、

特定の目的と意図、そこから生まれた

集中という排除からではなく、

自分の目の前にいる対象を

全体として見つめたことがあっただろうか?

 

資格と同時にそれ以上の学びを終える

のではなく、あらゆる対象から学び続け、

自分自身の姿に絶え間なく、

気づいたことがあっただろうか?

 

その気づきをもって、

ちっぽけな自分の姿を観察し、

その観察から生まれた謙虚さを

知ることがあっただろうか?

 

趣味や気晴らしに逃げることなく、

過去に浸る必要を感じることなく、

自らの虚しさを正当化することなく

ありのままの他人や子供や生徒に

向き合ったことがあっただろうか?

 

子どもに自己満足以上の何かを

見出させ、意図的な集中からではない、

心から好きなことに夢中になることの喜びを

それでいかなる比較も排除もない何かを

伝えたことがあっただろうか。

 

その気づきの中で、

その向き合いの中で、

その見出しの中で、

人生を生きたことが、

一度でもあっただろうか。

***

 

もしかしたら、あなたも...

この長いブログ記事の中で、

自分に響く言葉だけに集中し、

「そうだ」「そうではない」と

第三者として、部外者として判断し、

 

秒後にはスマホを閉じ、

またいつもの日常に、その大人ごっこに

戻るのではないだろうか。

 


なたは... 今、大人ですか?

それとも、まだ大人ごっこに夢中な、子どもですか?

...

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lcpam.hatenablog.com

 

(日記) 沈黙と瞑想

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の影に沈む太陽が

足元に垂らす長い影。

 

遠くから聞こえる子供の笑い声。

冷たく固まった冬の田んぼの上を

自由に飛び交う鳥たち。

雑草畑の中であらゆる気配を

眺める野良猫。

 

都心の喧騒や慌ただしい日常から離れた

小川のような、ゆったりとした田舎の片隅。

 

そこには独特の「静けさ」が、

決して人が作り出すことのできない、

どこか懐かしい「沈黙」があった。

 

行き交う車、

流れる雲、

風になびく名もなき雑草と花、

乾いた土の冷たい匂い、

遠くから聞こえるあらゆる命の音...。

 

「美しい」

「醜い」

「素晴らしい」

いかなる意見も感想もなく、

その全てを呼び起こす「私」という

観察者も存在しない、その時に...

不意に、その沈黙はやってきた。

 

それは名付けることのできないであり、

あらゆる言葉を超える刻々の喜びであり、

そして瞑想だった。

 

しかし、その涙を、その喜びを、

もう一度繰り返したいと願うや否や...

それは一瞬にして色あせ、

その経験への執着を生み出していた。

****

 

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言葉無しには、思考はあり得ない。

言葉は思考そのものである。

 

目の前に広がる刻々の事実

そのありのままへの説明は

事実そのものではなく、

思考が生み出した言葉の羅列に過ぎない。

 

しかし思考は言葉を

その当のものと思い込み、

その思い込みが常に、

ありのままへの知覚を妨げる。

 

自分が...

知っているもの、

自分の経験や価値観、

社会の常識や美徳。

 

未来・夢・イノベーション、

安心安全・コスパ・プライド、

自己肯定感・やりがい・進化、

希望・絆・平和...。

あらゆる言葉が作り出すイメージ。

 

人は、そのイメージから

ありもしない喜び安心を追い求め、

ありのままの事実から逃避する。

...。

 

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しかし、子供はどうだろう。

まだ言葉を知らない子供たちはどうだろう。

 

大人のように子供も

言葉やそのイメージを通して

何かを眺めるだろうか...。

 

それとも

思考やイメージを作ることなく、

無垢な観察をもって...

毎瞬間に新しく出会っているだろうか。

 

無垢で透明な瞳。

何かを見つめるその注意深さ。

飽きもせず同じ遊びに耽る無垢さ。


大人はいつからその全てを忘れてしまっただろう...。

 

いつから... 「無垢さの終わり」を人生だと思い込んでしまっただろう...。

 

ありのままを、その沈黙への気づきを忘れ、言葉とイメージに逃げてしまっただろう...。

 

... 問いは「気づき」であり、

そしてそれ自身への「答え」であった。

 

* 冬の子ども | ビューティフルハミングバード