韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について日常から気づくことを書き残しています。思考の軸は、インドの哲人クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)。5年目ブロガー。21年冬Amazonペーパーバック出版。これからもぼちぼち続けていきたいと思います。コメントや批評全てご自由に。

ブログと自然体についての小考察。

久しぶりのブログ更新。

 そう…久しぶりのブログ更新である。

(強調の意味は特にない…)

 

ブログに対して、前回の内容も含めて自分自身に課したハードルが高かったのか。それともツイッターのやり取りの速度と、その速度による刺激が強かったのか。

 

まぁ、一番大きな原因は「面倒くさい…と感じている」ことだろうけど、今回の空白は「その感情を言ってはいけない」と思っている、自分に対する「違和感」を感じるきっかけになった。

 

数日前から(また)久しぶりに結膜炎にかかり、目薬が必須の生活を送ることになった。また、それを理由に今は午睡という名目(?)でツイッターを休んでいる。

 

開始するのもやめるのも勿論本人(自分)の自由だが、どうも「よーし!ブログやるぞ!」と思い切った自分(またはそう他人に告げたことを覚えている自分)に対する意識は、皮肉にも「決してその後の感情や思考まで自由にさせている」とは言えない。

 

そう。「自由意識によって始めたこと(ブログ)が、今度はそれを意識することによって、自由を制限してしまう」ということに気づいてしまったのである。

 

そういう経緯もあり…今回のこと(結膜炎を含む一連の些細な出来事)は、やっとタイトルについての説明になる「自然体」について、そして「その重要性」について考えるきっかけ、もしくは「触媒剤」になったかもしれない。

 

しぜんたい【自然体】

① 柔道で、自然なままで立った基本的な姿勢。右自然体・左自然体がある。

身構えたり、先入観をもったりしないあるがままの態度。 「今回の審議には-で臨む」

  

「自然体」について、辞書にはこのように書かれていたが、あくまで言葉の意味は「定義」ではなく「解釈」という自己流の視点からすると、

 

自分にとって「自然体」とは、

「着飾ることなく、そのときの(自分の)感情や思考などをそのまま受け入れること。さらに、それにより得られる近視眼的な視点による平穏状態」…かなと勝手に解釈してみた。

 

そこからもう少し思考を巡らせて、「心の余裕」は、この「近視眼的な視点」により生まれるのではないかなとも。(「心の余裕」については、自然体の気持ちで書きたいときに書きます)

 

「ブログを書き続けること」とその「ゴール」とは何か。

 

自己満足・副業のため・孤独の解消・満たされない承認欲求の獲得など…そのゴールはいろいろあるだろうけど、自分にとってそのゴールとは何かを考える。すると、はやり…いまだかすかなぼんやりしたイメージしかつかめない。それから、苦しみながら達成したゴールの価値をどうみるべきか。(まぁ、こういうことを考えるから自然体にならないだろうけどww)

 

最後に、以前ツイッターに投稿した内容を付け加える「ズル」を持って、久しぶりのブログを締め括りたい。

 

栄養も読み応えも…何もないブログを…有難う。

まぁ、暇つぶしの「触媒剤」でもなれたら嬉しい。

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有難う。