(後編)子供の習い事と親の自己満足について
前編と後編の間。
…。自分が残した、自分が自分に課した宿題(仮)を終わらせること。
それはその時の感情によって、時折「宿題」になったり、「少し面倒なメモの続き」になったりします。
そう…。「それ自体」は変わりなくそのまま存在しているのに、その日の気分や自分の精神状態(笑)によって「私」は、それを全く違う感覚と思考で「受け入れている」そんな気がします。
前編を書いてから半年が経ちました。
この下に続く「後編」と名づけた内容は、もはや「後編」ではなくなりましたが、それでも「後編」と名づけた理由は…特にありません(笑)。ただ、今日はタイトル選びに悩み、それに思考を取られることがあまり意味がないと感じました。今はそう感じてそう行動する。それだけのことです(笑)
だから、その内容も「Aの次、Bから」というわけでもなく、前編の内容を今の視点で書き直しています。
思考は変わり、ものの見方も変わる。それによって言葉が変わるのも自然なことかもしれません。
何より言葉はそのものではないことを感じるとき、
自分が発した言葉に執着・依存せず、一貫性やプライドを維持させることに固執しないとき、まるで渓谷の中で流れる川をありのまま眺めるようにその言葉を見つめるとき、
自分によって生まれた「ストレスや葛藤や苦しみ」といったものが、ほんの少し…なくなっている気がします。
前編はこちら↓↓↓
*後編も相変わらず、抽象的で根拠もなく誤解満載ですので、ご注意下さい。(笑)lcpam.hatenablog.com
『(後編)子供の習い事と親の自己満足について』
*9月の子供用ビーチサンダルと庭の芝生。
「子どもの成功と達成=自分の成功」
自己満足の対象としての子ども。
前編では少し話がそれてしまいましたが、これについて少しだけ書いてみました。ただ、その前に「問題」「解決」という概念について少し触れてみたいと思います。
「問題」「解決」と「私」
私たちは何か葛藤や知らないこと、選択や数々の問いに迫られたとき、それに「問題」という概念を被らせて、それと同時に「解決」を捜し求めているのではないでしょうか。
たとえば「幼児に英語教育は必要なのか」という問いがあります。
その問いは、時間とともに周りの教育方針(だれだれはこうしている等)などによって何度も問われ、やがて解決すべき「問題」となるのではないでしょうか。
その瞬間、私たちは知らない間に、違う表現をすると「気づかない間に」それにとらわれ始めます。そして、それと同時に「親たるもの」の私が、広い視野の人生経験が豊富な「私」が、その主体として現れます。
もしその私が、子育てに熱意を持っているなら、時間をかけてあれこれ調べては「解決策はこれだ」と「問題」を乗り越える方法を生み出します。
または、私が子育てにそれほど熱意を持っていないなら、妻や夫の話、周りの話、ちょっと調べたネットの話、自分が良いと思った過去の話に頼る方法を出すか、もしくはその何れでもない無関心(逃避)を見せるかもしれません。
*庭の色葉もみじと夏の終わり。
「子育て」とその「判断基準」
では、熱意を持っている親が正しくて、熱意を持っていない、又は無関心な親は正しくないでしょうか。そのどちらが賞賛されるべきで、そのどちらが非難されるべきでしょうか。
私は、私と違う(そうではない)親をみるとき、彼らを非難し、冷笑し、自分の子育てを正当化し始めるのではないでしょうか。
どうして私や親にそのような思い・感情・思考が引き起こされるのかを理解しない限り、私は時折A側の親になったり、B側の親になったり、C側の親になり、常にそうではい親と周りや社会などといった限られた一面だけをみて正しくない、間違っていると非難し、自分の教育方針を正当化し続けるのではないでしょうか。
モンテッソーリやシュタイナー教育。
英才教育と数々の先行学習。
運動神経を発達させるという体操や数々の運動。
数学の思考に効果があるという算盤、ユーチューバー。
周りの友達が殆ど夢中になっているという野球やサッカー。
*散歩中、見つけた花。
数え切れない物事の数だけ、
数え切れないほどの「問題」がある。
もし、私が子ども(主体)と共にそれらを見ないで、「私」「親」としてみるとき、やがてそれは一つの「問題」となり、そこには相変わらずその問題を「解決」すべき「私」が現れるかもしれません。
もし、その「私」が熱意を持っているならば、「問題」を「解決」するためにあらゆるもの、あらゆる手段、あらゆる正当化を使おうとします。
それは「自分の幼い記憶」であったり、
「どこかで読んだブログ内容」であったり、
「有名な子育て専門家が語る教育指針」であったり、
「テレビで偶然、目にした理想の子どもの姿」であったりするかもしれません。
「私」「子ども」「重ね合わせ」
そして「私」は「それらの内何れか」又は「それら全て」に自分の子どもを重ね合わせようとしているのではありませんか。
自分の幼い記憶の中で味わった感情を子どもには味わせたくない…もしくはその反対のことを優先する感情を。
感化されたブログの子育て方法をわが子どもにもさせてみたい…気持ちを。
元米大統領、グーグル創立者、アマゾンCEO…モンテッソーリ教育出身の名前でその必要性と根拠を自分と周りに言い聞かせるその感情を。
テレビの編集裏にある全体像を見ることなく、幸せそうにはしゃいでいる子どもやそれを見守る教育者に対する自分の偏見と羨望そして共感を。
… これらに、私たちは気づいているでしょうか。
*見ているのは、想像力溢れるその無垢な遊びでしょうか。それとも心配や危険性のことでしょうか。
大事なのは、優れた教育方針でも、
成功を招く子育て…なんかでもなく、
「そうやって何かを見ることではなく、
その何かを見ている「私」なのではないでしょうか。
常に自分の記憶や思考に執着し、「あるがままの子ども」に偏見を持たせている「私」を見ない限り。
有名ブログや記事の理想に酔い、その理想を自分の子どもに重ね、何かの楽しみを感じている「私」を見ない限り。
難しい用語の教育指針を「今を生きる子ども」の立場として考えるのではなく、盲目に従い、有りきった有職者の傲慢な解説のように語っている自分を見ない限り。
そういう「私」に気づかない限り…
私たち親は子どものあるがままを見ることができるでしょうか。
その教育方針を、自分の狭い世界で描く「理想の子ども」の立場として考えることこそ、正しくないこと、間違っていることなのではないでしょうか。
今、子どもは何を見ていて、何を話しているのか。
見ていますか? 聞いていますか?
頭で見ていると理解しているつもりではなく、「私」は本当に子どもを見ていますか。
それとも「私」は、「私」を見ているだけでしょうか。
...。
言葉にならないその言葉を、その無邪気な行動を、「私」は本当に見ているのでしょうか。
私たち親は、それらに「問題」「解決」というフィルターをかけて、見ているつもりでいるのではないしょうか。
「私」は誰でしょうか。
「親」でしょうか。
「私そのもの」でしょうか。
それとも「親」「私」そのどちらにも拘っている姿でしょうか。
飽きもせず何時間も同じ滑り台ではしゃぐ娘と息子。
良い写真を残したいと思う「私」が、
カメラのレンズを通して子どもを追うことをやめるとき。
教育方針や小1の壁、全ての不安と問題と葛藤が…
落ち葉と砂を被りながら、赤い鉄柱を力強く握る
その天真爛漫な姿を見えなくしていることに気づきます。
「求めるものは全て今ここにある」ことに気づくとき、
子どもは「私ではない私」を、決して言葉で言い表せない「その笑顔」で常に迎えてくれています。
その笑顔に思わず流れるこの「涙」が、葛藤や幸福、心配や喜悦それら全てを含む「涙」が、
本当の「愛」であることに気づくこと。
そして「幸せ」も一つの言葉に過ぎないことに気づくこと。
今日も...。
「今を生きる」子どもから学び続ける
まだまだ未熟な「私」です。