(日記) 土曜の朝と「愛」
*畑と歩道の境に咲いた雑草と花。
地元の餅つき大会。
子ども二人をつれていつもの散歩に出かける。
風邪や寒さ、数え切れない親の心配は気にもせず、
遠くの山から降り注ぐ小麦色の光は、眩しさよりも暖かさを感じさせる穏やかで静かな朝そのものだった。
道端に落ちているあらゆるもの、所々咲いている雑草と花に目を奪われ、手を離してしまう子供の無垢さを…
遠くに聞こえる車の音や何かの予定時間に囚われ…親は、見つめ、向き合うことができない。そして「安全のために」「約束を守るために」…「何かのために」と正当化し、あの小さい手を強引に引っ張るのである。
*誰かに守られているコスモス
「収穫が終わり静まり返った田んぼのにおい」
「遠くを急ぐ渡り鳥の羽ばたきのリズム」
「おたまじゃくしが泳いでいた水溜りの影」
「一年中食べれそうな畑の白菜が放つ存在感」
「輝く陽光に目を奪われた息子の後ろ姿」
「おはよう!すれ違うおじさんの白い息」
雲一つなく、建物と山々全ての境界線が果てしなく青く光る、この静かで眩しい空に、私たちは気付いているだろうか。
私たちが、決して子供と同じ瞬間にいることができないのは、私の心が、「週末・親・約束・仕事・安全・安心・休息…」といったあらゆる心配事、あらゆる時間という思考に囚われているからではないだろうか。
心配事・時間・偏見や思い込みなど何も考えずに…ただ遠くの山を眺めるように…
足を止め、歩道ブロックの隙間に咲いた白い雑草を、口を大きく開けて無我夢中で語っている娘の姿を見つめるとき。
私の目は、あの小さい目のように、あの眩しい太陽を見つめているかもしれない。
そして、自らが花になって、娘に話しかけるとき。当たり前のようにそれに答え、優しく触れ合う小さい手に気付くとき…。
ほんの少しの間。
私は、花であり、娘の友達でありつづける。
常に足りない時間と金に追われる毎日。
「親としての責任」「夫(妻)としての責任」
誰のためなのか分からない無数の約束と、無数の責任。
私が、子供や妻よりも約束や責任を重んずるとき。その約束と責任を果たせなかった子供や妻を愛することができないと言うとき。その時、私に「愛」はあるのだろうか。
「愛」は、70・80・90…数え切れない人生の過程や、その先…「目標・終着点としての終わり」にあるのではなく、
「正当化している自分」
「目を奪われる静けさ」
「雑草の花にかける声」
「優しい手を見つめるその瞬間」に隠れているかもしれない。
*エバーフレッシュと窓