毎日。何回 … 時計をみていますか?
毎日。何回…時計をみていますか?
… 形の異なる針を目で追う度に、
異なる時間に追われていることに気づきます。
無数の締め切りや出勤、そして登校...。
デートや誕生日そして新年のカウントダウン…。
... 限られた時間と特別なイベント、そして楽しい約束に至る...あらゆる出来事と無数の約束には、必ずと言ってもいいほど、「時間」が関わっているように見えます。
… オフィスや学校の机に座ること。
… 彼氏と別れ家に帰ること。
... 残った誕生日ケーキをどうするか悩むこと。
… 新年の特別番組が終わること。
いつの間にか、
あの「時間」が「過去」として記憶されていること。
その数百・数千、数えきれない「過去」に私たちは生きています。
そして私たちは、
「時計の針」に「時間」に追われながら…
あの「過去」から絶え間なく、
「自分に快楽を与えてくれるもの」
「自分を傷つけないもの」
「より安心できるもの」
「効率よく、金銭的にためになるもの」等を探します。
そういう私たちにとって「時間」とは、まだ過ぎていなくても、まだ経験していなくても… 何も新しくなく、依然として「過去」でしかないのではありませんか。
… そういう意味では、四十、五十… 八十。
年齢は違っても、過去に生きる人にとって「時間」とは、単なる「過去」の連続に過ぎないのではないでしょうか。
その「時間」の中では、
眩しい夕焼けや色鮮やかな庭の花も、過去に経験したもの、繰り返される日常の一部に過ぎず、何も新しくなく、少しも素晴らしくないと感じているのではないでしょうか。
しかし、子供にとって「時間」はどうでしょうか。
庭の花に毎日かけるその「優しい声」
生まれて初めて見るかのような「輝く目」
昨日喧嘩した友達と手を繋いで「スキップする足」
全てを忘れ、庭の蝶を追いかける「後ろ姿」
… 子どもにとって「時間」は「過去」ではありません。それは、言葉では言い表せない「その何か」… 決して「過去」と「未来」に縛られない「その何か」です。
蝶を追う「大きく輝いている目」を見たことがありますか?
何度も同じことを聞いては喜ぶ、その無垢さに気づいたことがありますか?
「過去の楽しみ」や「未来への期待」からではなく、「今」を精一杯生きる、その「輝き」こそ、私たちが忘れ、失ってきた、あの「時間」あの「何か」なのかもしれません。
…「今」あなたの「時間」は、どこにありますか?
このブログも、溢れるネット情報も、そして数えきれない専門書も...。
それら全ても、また「過去」に縛られた「時間」の中でしか存在しないことに気づくとき。
そのとき、あなたの「時間」は、今どこにありますか。
...。