韓国人パパの人生と育児 with 瞑想

育児と人生について、クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)の言葉から気づく日常を書き残しています。コメントや批評全てご自由に。

全く新しい教育とは。

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冬の朝。霜と雑草。

 

「お兄さんより小さくて弱いね」...

命の誕生と同時に「比較と競争」の世界に投げ出される子供たち。

 

目に見える外見や言葉といった表面的な比較。社会への適応能力や配慮深さなど計ることのできない内面的な比較。また、数えきれない無数の「比較」により駆り立てられた「競争」の世界に、子どもはあまりにも無防備に投げ出されています。

 

「やればできる」

「頑張って立派な大人になる」

「絶え間ない努力の中に人生の価値がある」

「誰かの役に立つ人になれ」…

親・先生・先輩・年上... 等々無数の大人は、その関係を利用し、人生に「生きるための経験」「信念」という名前を付けては、時には傲慢に、時には遠回しに、比較と競争を押し付けます。そしてその比較と競争の中には、いつもそれらを実現させるための「努力」、良い子供・良き親・良い学生・良い後輩…「良い〇〇」になるべく、必ずその手段としての努力があります。

 

進学や入試、就活や子育てから婚活や妊活等々に至るあらゆる事にある無数の努力。人生は「努力」の連続ではないかと思うぐらい、人は絶え間なく努力を続け、そして「勤勉」「真面目」とそれを評価し、それこそ人生における美徳だと語ります。果たしてこの世に「努力」から自由な人は、どれぐらいいるでしょうか。

しかし、その努力がいかに無垢な子供を変化させていくのか、いかに一人の人間として良き市民として形作り、条件付けていくのか、私たちは気づいていません。

また、日本人・中国人・韓国人…比較と競争が〇〇人という無数の区別を作り出し、その区別がランキングや格付けと言った無意味な競争を生み出していることに、私たちは気付いていません。

 

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経済成長率・出産率・長時間勤務日数・幸福知数...モノだけでなく感情、ありとあらゆる物を数字化し、比較と競争を当たり前のように思う世界。ヨーロッパーの旅行番組、自国をべた褒めする番組…テレビの向こうにある生活やイメージに羨望したり冷笑したりする、小さい四角に囲まれた有名人と、その全てを虚しく眺める人々。

 

「アメリカ、ファースト!」と叫ぶ指導者を、冷ややかな視線で批判しながら、「Made in JAPAN」に誇りと安心を感じる人々。

 

「入試・資格テキスト」

「コスパ優先生活ノウハウ」

「早期教育の手引書」

「一流の営業スキル」

「成功に導くコミュニケーションスキル」

「幸せな人生の見つけ方」に至る... 生き残りを叫ぶありとあらゆる分野のマニュアルと書籍の中にあるものと、あまりにも日常の一部分、人生の一部分になってしまったもの。

今を、この世界を生きる人の多くは、比較と競争のない世界、比較と競争による努力が存在しない人生を知りません。

 

比較と競争のない世界。

それは、他国・他人との比較だけでなく、自分との比較を含む全ての比較がない世界。

「生き残る」ためではない「生きることそれ自体が目的であり、全てである」人生。

今を生きる私たちにとって、それらについて考え、自ら見出していくことは無駄なことでしょうか。その見出しの中で人生を生き、その危険性を子どもに伝えることは、果たして非現実的で無意味なことでしょうか。

 

もし、子供が

かけっこが遅くても、

言葉がたどたどしくても、

成績が良くなくても、

やりたいと思うことがなくても、

親や社会全てがいやだと反抗しても…

 

親の心の中に「比較と競争」が無ければ、それらを正すための「努力」を励まし、より高い未来を描くようにと促すでしょうか。それとも、親は、目標や努力を強いることなく、子どもの今を見つめ、それらの理由や原因を子供と一緒に見出し、探求しようとするでしょうか。

 

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比較と競争のない世界では、優れた身体能力、優れた成績、一流の〇〇〇は意味を持ちません。そこで意味を持つのは、「自らの見出し」「自らの気づき」、そして特定の目標に縛られない「見出しと気づきによる内部からの自発的な行動」ではないでしょうか。

 

その行動の中には、比較や競争による妬みも、悔しさも、目標を持つことで強いられる過酷な努力も、またそれを促すことで生まれる果てしない悲しみも存在しません。

 

そのとき初めて、子供は自らの力で、生まれてきた私という命の尊さについて、とてつもない人生の価値について、問い、見出していくことができるのではないでしょうか。そして、それを手伝うこと、それこそ「本当の教育」ではないでしょうか。

 

本当の教育とは、比較と競争を促し、その結果で決め付ける教育とは無縁の教育。一方的な知識の注入や価値観の押しつけではない教育。時間に追われることなく、物事の原因を自ら見出させる教育。いかなる権威や賞罰に頼ることなく、親も先生も同じ立場で悩み探求する教育。無数の問いや見出しの数だけ、無数の正解が存在することを穏やかに伝える教育。比較と競争から生まれる恐怖と、その果てしない悲しみを教え見つめさせる教育。自ら見出した進路がどんな道であれ、更なる価値を見出させ、それを見守る喜びを与える教育。 そう、それは、私たちが決して経験したことのない教育です。

 

成功や権威、女性・男性、アメリカ人・キリスト教… 絶え間ない区別と、それらによる無数の偏見と思い込みと、あらゆるイデオロギーからも自由な教育。この無慈悲な社会に決して条件付けられていない教育は、ただの理想、妄想のような話でしょうか。

それは発達心理学や教育学… などごく一部の専門家の研究分野、もしくは彼らだけの仕事に過ぎないでしょうか。

  

「〇〇よりもよくなるように努力しなさい」

「今度こそ〇〇君に勝てるように頑張ろう」

「これができたら、これを許す」

「〇〇点を越えたら、賞をあげよう」

無数の比較と競争によって傷つき、悲しんできた自分に気づくこと。意識的に又は無意識的に、それらを子供に押し付けている自分に気づくこと。

 

その静かな気づきから、その悲しみへの理解から、子供を見つめるとき。私と子供の間には、全く新しい関係が生まれるかもしれません。

 

その関係とは、決して成功や出世、そのための努力を押し付けない関係。世間や過去の偏見に囚われない、今を見つめ合う関係。いかなる年齢や立場に関係なく、フラットに語り合える関係。日常の全てにおいて自ら敏感に見出し続ける関係。

 

しかし、それは、自ら見出すことなく「理想の話」「妄想に過ぎない」と言葉や意見を付けるやいなや、消えてしまう何か、いかなる目標によっても、いかなる努力によっても得られない何か、問いと見出しの中にのみ現れる答えなど最初から存在しない何か、それで決して「どうやって」「どんな方法」と問うことなく探し求める何かです。

 

そのような比較と競争のない教育。それによって生まれる全く新しい教育、全く新しい関係をこの人生の中で、見出してみませんか。

 

 

ありがとうございました。