(日記) 夕方の雨と「死」
一日の終わり。エレベーターの扉からしみ込んでくる雨の匂い。急いで傘を取り出す、帰りを急ぐ人々は、明らかに朝よりも雨に寛大になっていた。
夕方の電車の中、楽しく小話をする人。目的地を忘れ、ゲームに夢中な人。子供ををあやす抱っこ紐のお父さん。既に夜の繁華街の中にいる若い女の子たちと、その声の大きさを注意する仕草には笑みがこぼれていた。
朝と同じ満員電車の中には「華やかに笑ってる広告」よりも自然な笑顔が、そして人を感じさせる「何か」が、笑顔と共にあちらこちらに溢れていた。
…
些細な日常の中で、「死」について真剣に考える人はどれぐらいいるだろう。
「一生、死ぬことはない」
「死は、自分と関係ない」
「死は遥か未来のことだ」
「考えてもしょうがない」
意識的であれ、無意識的であれ、私を含む殆どの人が、そう思いながら生きているのではないか。
「ウイルス拡大、死者〇〇人越え...」
「交通事故で死亡1名...」
その中には、スマホで時々遭遇するニュースの中の用語として、保険書類に出てくる契約内容の一部として、ウイルスの危険性を示す数字、軽い冗談のネタとしての死が、表面的で抽象的で、決して危なくない日常のものとしての死がある。
一方、ある日突然、自分の周りに「死」が近づいてくると、経験したことのない、とてつもない悲しみや恐怖に襲われる、とてつもなく悲しく、避けたいもの、排除したいものとしての死、「私の死」または「私の周りの死」がある。
人は「死はただそこにある」という事実に、ありのまま向かい合おうとしない。そしてその事実を前に「残酷」「無情で悲惨」「非現実」と、無数の言葉と感情でそれを覆い隠す。そこには、常に「死」という言葉や観念によって生まれる思考が、自分の無数の過去としての経験や知識、そしてそれらが投影された未来である思考が存在する。
「もっと〇〇な人生が送りたかったのに…」
「〇〇すればよかったのに…」
自分には目標に向かって努力する時間が残っていないという思いと、それによって生まれる無数の虚しさと悲しさ。「未来=希望」としての時間が無くなると感じるとき、思考はその安全な居場所を失い、不安と恐怖そして果てしない「絶望」をもたらす。そしてその「希望」から快楽を感じれば感じるほど、「絶望」はより大きく跳ね返ってくる。
「素晴らしい父親(母親)になりたい」
「幸せな人生を送りたい」
人は、無数の希望と願望の中に「そうなれない自分への絶望」が隠れていることに気づかない。希望にこだわればこだわるほど、人生は不幸をより鮮明にし、そしてその絶望に怯え、それを打破しようとさらに希望への努力を求める。そうやって人生を通して希望を求める限り、過去の記憶から絶え間なく喜びと快楽を求め続ける限り、絶望は決して無くなることはないかもしれない。そう、皮肉にも、「絶望」は「希望」を求めるまさにその中に存在する。
「自分にもう少し時間があったら...」
人は希望を抱くことで絶望からの解放を望み、死を「ありのままの事実」として受け入れることを拒み、絶えずにそこから逃げようとする。この悲しみから、この苦痛から一刻も早く逃れたい願望が、この事実からの逃避を生み、それによって必然的に無数の苦痛と恐怖が生まれる。しかし、いかなる行動に関係なく確固たる事実として「死はただそこにある」だけである。
はたして私はそういう死を「ありのまま」見つめることができるだろうか。
「〇〇と、二度と話ができないこと」
「未来としての時間があまり残っていないこと」
「大切な存在がいなくなること」
「子供の未来を見届けることができないこと」
「もう親孝行が出来ないこと」…。
その無数の悲しみと絶望を見つめること、その思考の原因を自ら見出すことに私たちはどれぐらい真剣だろうか。
それは、もしかしたら無数の相手に対して自ら作り出した無数の「こうあるべきイメージ」と、そのイメージが傷付くことで生まれる「私の…悲しみ」「私の…怒り」「私への...自己憐憫」なのではないか。
...。
「もし明日死ぬことが分かったら、今日私は何をするだろうか?」
...。
そのとき、私は絶望や悲しみで頭を抱え、一人で孤独な一日を過ごすだろうか。それとも明日のことで悩むこと、過去のことに執着すること、それら全てに悲しむことの無意味さに気づき、少しでも大切な人と一緒にいたいと思うだろうか...。
常に自分を振り回している「私の〇〇」「私への〇〇」という「思考」が、「死」を感じるとき、そのとき、絶望と共に本当に大切な「何か」が現れる。
無数の過去と未来に「死」ぬとき、思考が静まり返るとき、「生」はまさにその死、その沈黙の中にあるかもしれない。
...。
ありがとうございました。