韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について、クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)の言葉から気づく日常を書き残しています。コメントや批評全てご自由に。

(日記) 雑草と美

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... 道端に咲いた花。


その名もない花に興味を持つ人はどれぐらいいるだろう。

 

その花の前に、自分の足を止め、意識を向かわせ、自分ができる全ての注意を払って観察する人はどれぐらいいるだろう。

 

この長い人生の中で、

雑草を見つめ、それを注意深く観察することに、人はどれぐらいの時間を使っているだろう…。

 … 道端に咲いたその花は、私にそう聞いているようだった。


私が決してそうしないのは、その行為には価値がない、人生の限られた時間を有効に使うことだけが大事で優先されるべきことだと思っているからだろうか。

 

…「そんな余裕、そんな無駄な時間なんてないんだ」

そうやって私はその限られた時間を有効に使わないこと、その価値に沿わないことを「無駄」と決めつけてはいないだろうか。

 

「余裕」とは何だろう...。

このとてつもなく長い人生の中で、私に「余裕」とは何だろう。それについて、私は一度でも真剣に考えたことがあっただろうか...。

もしかしたら私は、その考えこそ「無駄」だと決めつけ、考えることをやめようとしていたのではなかろうか。

 

「余裕」とは何だろう...。

それはやるべきこと、優先的に行われるべきこと、価値が高いこと全てが片付いてから…それらをやらなくてもいいときに訪れる余った時間のことだろうか。

その余裕は、私の人生の中でどこにあったのだろう。

無邪気な幼年期、大学合格後、数回の夏休みや冬休み、社会人になったばかりのとき、彼女とデートをしている間、子供が生まれ引っ越す家を片付けている間…無数の過去の中で、果たして余裕はどこにあったのだろう…。もしその中に余裕がないというならば、どうして私は「余裕」を無くしてしまったのだろう。

振り返ってみると、私は常に「無駄」を無くそうと必死だった。「余裕」は、常に「安定や目標の中」にあるものと信じ、ずっとそれを追い求めていた。

 

どうして私は、道端に咲いた花に気づくことも、それを踏みにじっていることも、気づかないまま「余裕」を探し求め、どこかに向かっていたのだろう。

 

たとえ花に気付いても、私は決して花を観ようとせず、ただそれを「雑草」と言い、片付けてしまっていた。

そうやって、それ以上の価値・それ以上の「何か」を見出そうとせず、常に何か少し遠くにあるもの、決して届くことのない日常とは無縁の、優雅で立派でそして素晴らしいものの中で、人生の価値を探そうとしていた。そしてその「価値」「余裕」「幸せ」が、いつもそれらを探し求めている自分のとなりを、通りすぎていくことに気づかない。

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…  

私は、どこかに向かう足を止め、しゃがみ込んで足元に咲いた花を観た。

そこには、ほんの少しの力でもつぶれそうで、あまりにもか弱い花びらと葉が鮮やかな色で、人工とは無縁である、自然そのままの形を纏っていた。そしてその眩しい鮮やかさとか弱さを残したまま決して周りを意識することなく、静かに道端で花を咲かせていた。

誰も描くことのできない花びらの色やグラデーション、それぞれ異なる形をしたバラバラの葉っぱが魅せる「個でありながら全体」としての一体感とその香り。それは自らが一つの花であり、全ての自然そのもののようだった。

 

美とは、決して花の絶好期にだけあるのではなく、その全体にある…。

固く強い種の中に、柔軟で力強い茎の中に、どこでも新芽を育もうとするそのエネルギーこそ美である…。

それは決して私が、その名前や特徴など言葉や写真あらゆる知識を持って理解したり、それによって気づいたりするものではなかった。

その美を、花は言葉や知識ではなく「その存在全て」を通して静かにそして強烈に教えていた。


「きれい」「かわいい」「いい香り」… 反動としての自分の言葉(思考)をただ見つめ、見守るとき。

その感情と言葉が、時間と共に萎んでいく様子を決して「良い」「悪い」と言わずに、ただゆっくり観察するとき、それら(思考や感情)はまるで早送り動画を見ているように徐々に花を咲かせ、萎んでいく。

やがってそれら全てが無くなったとき、思考という花が咲き枯れて消え、反動や感情を伴わない観察だけが残るとき、私に何が起こるだろう。

 

私に、その「私」という思考すら無くなるとき、目の前にある花と自分の間に、思考によって生まれる無数の感情やイメージ、そして無数の区別が全て無くなるとき、私に何が起こるだろう…。

 

そのとき、花は、まるで人生で初めてそれを発見したかのような新鮮さと驚き、そして輝きを持って存在していた。その観察の中で、私は花であり、花は私である。

 

花とは

その形 香り 色 美しさであり

その全体が花なのです

花を手にとって引き裂いたり

言葉によってバラバラにしてしまうと

花はなくなってしまいます

かつてあったものの記憶が残っているにすぎません

それはけっして花ではありません

 

瞑想とは

咲いているときも

枯れはてようとしているときも

その美しさをたたえた

花の全体にほかなりません

 

‐ j.クリシュナムルティ-

 

 

追記:感染病がなくても、日常は常に混乱し苦悩と悩みでいっぱいのように感じます。これから、「コロナ」という言葉が日常からなくなるとき、その空白だけ、私はまた何かを埋めていくのかなと思うと、怖いのは感染病なのか、そういう自分なのか...笑)


自己流です。非難も同意も何でも構いません。それでほんの少しでも余裕と無駄について見出すことができればそれで充分です。