「本当の自分とは…」あるJKとの会話。
JK R:「本当の自分とは何か」…。
ある日の午後、JKの呟き(Twitter)にリプライを送った。
lcpam2:
どうして「本当の自分」が必要でしょうか。
どうして人はこうも…「自分とは何か」にとらわれているでしょうか。
時々「問いそのもの」が、そしてその問いへの答えを探し求める行為それ自体が、答えを閉じ込めてしまっているように感じます。
どうして本当の自分が必要でしょうか…。
JK R:
自分とは何かに囚われているのは、
自分は紛れもなく自分であるという
ことを確信したいからではないでしょうか。
確かなものなんてひとつもなくて、
せめて自分は自分であることを信じていないと、
信じられるものが無くて不安定で、不安だから、
自分を探し求めるんじゃないですかね。
…
lcpam2:
自分とは何かと問う自分と、
ありのままの自分との間に分離があるとき。
そして、こうありたいと何かへの安心や安定を求めるとき。その分離と求めが不安と葛藤を生み出していないでしょうか。
「確かなものなんてひとつもない」という事実を前に、安心・安定を求めてそこから逃げることなく、それを観て、その事実に留まることができますか?
もしできれば、何かまた違う視野が生まれ、そしてその視野が自分の知覚全体に影響を与えるかもしれません。
大学・正社員・結婚 ... 未来の安心・安定を求めるかぎり、こうありたい・何かになろうと絶えず努力するかぎり、葛藤や悩みが止むことはないかなと。
確信を持つことは一つの事実もしくはイメージにとらわれ、それ以上問わなくなること、その過去に満足し安心していることではないでしょうか。
私の周りの殆どの人がそうだと感じます。
そしていつも確信やらイメージやらでいっぱいですw 答えを求めずに問い続けることが大事だと感じます。
「今」は常に変化し変わっています。
確信や安定も同じく変わるものなら、まぁそれは頼りになるかもしれませんw
...。
その後、リプライはなかった…。
そう。その日の午後、おじさんの説教が、気持ち悪い迷惑になったのは明らかだった…。
・・・・
「あれが、彼の本当の姿なんだ... 。」
誰かを非難するとき、その非難と同時に自分に何が起こるだろう。
「悪い」「がっかり」
「みっともない」「だらしない」
自分の思考が瞬時に言葉となり、その言葉が作り出したイメージを通して、誰かを非難・評価し、「あれが本当の姿だ」と言うとき。
… そのとき、私に何が起こるだろう。
人は、決してその結論やその確固たるイメージが、自分の偏見や先入観から作り上げられていることを疑わない。そして、絶え間ない自分への疑いや見出しの煩わしさから逃れ、また自己主張という快楽に浸りたがる。そうやって、人は、刻々と変化する対象を、自分の決めつけや結論から判断し、一定の枠にはめていないか。
妻や夫・子供・友人・芸能人・政治家… あらゆる対象との関係の中で、一定のイメージが固定されるとき、私はその対象を注意深く観察しようとするだろうか。そこには、貴方と私、対象と私との関係ではない「イメージとイメージとの関係」があるだけである。
そして、自分に対しても同じ関係を求めるとき、「本当の自分とは何か」と問うのではないか。
カフェでの一息を喜ぶ自分。
スマホの中の政治家を非難する自分。
子供を笑顔で見守る自分。
仕事を失うか怯える自分。
彼氏の愛が足りないと不満の自分。
誰かの言葉に感化の涙を流す自分。
特定の人を助けることで喜びを感じる自分。
エコやボランティアを崇拝する自分。
他人との比較から安心を見つける自分。
… そして、これら全てから「本当の自分」を探そうとする自分。
「本当の自分」という言葉と、それを探し求める動きの中に「より高い価値の自分でありたい」という欲望と願望が、「変化しない・確かなものとして」の安心感や快楽があるのではないか。
「好き」
「ほっとする」
「これが私の生き甲斐」
「貴方といると幸せ」....
人は、その快楽が大きければ大きいほど、そしてそれが社会的に価値が高いと見なさればみなされるほど、その一部分としての自分に「本当」というレッテルを貼り、そこから安心と満足という更なる快楽を、永遠に求めていないか。
「どうして本当の自分が必要でしょうか…。」
その問いを自分に向かわせていると…
Kのある言葉が頭に浮かび上がった。
「… 私は知らない。そして知りたくない」
...。
追記:
...あなたの「自分探し」はもう終わりましたか?それとも、まだ進行中ですか?
... あるJKとの会話から自分探しについて少し書いてみました。
... 誤解はしないでください。
それも、一つのイメージに過ぎませんから。
ありのままを観るとき、そこに本当の関係が生まれるのです。
...。