韓国人パパの人生と育児 with 瞑想

育児と人生について、クリシュナムルティの言葉から気づく日常を書き残しています。コメントや批評全てご自由に。

思考と願望

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久しぶりの外出。

閑散とした電車の中で、虚ろな目をした少女が私の前に立っていた。

数日は洗っていないような髪。ぼろぼろのスニーカーとトレンドとは程遠い小汚いジャージー。 何か不安そうにスマホを触る彼女は、明らかにまわりの視線を意識していた。

「ホームレス」「ネットカフェ難民」… 思考はあまりにも勝手に、あまりにも頻繁に、目に見えるあらゆる対象をイメージとして固定させ、それを評価し、分析したがっていた。またその対象がいなくなるや否や、常に新しい対象を持ち込んでくる。

そうやって思考は、決して休むことなく自分のことや他人のことで、常にいっぱいだった。その思考は、やがって「悩み」と「葛藤」となって自分を苦しめ、そして今度はその苦しみからの解放を望む「願望」「夢」「希望」が現れる。

思考は「思考そのものが、全ての苦しみと葛藤の原因である」ことを、決して認めようとしなかった。その代わりに、眩しい夢や希望を掲げ、自分を正当化することで、この単純でシンプルな事実から逃げているだけだった。

 

...。

「良い学校・良い職場・良いパートナー・良い結婚・良い育児・良い離婚」「良い老後・良い死に方」… 無数の「良い〇〇」の中にある「夢」「希望」「生きがい」と言ったあらゆる「願望」

そこには必ず、その「願望」と、そうではない「現実」との「ギャップ」がある。そして親とこの社会は、夢に向かって努力する人生に、無限の敬意と愛を与えていた。

「ああなりたい・こうすべきである・こうしてはいけない」... 願望を作り出せば出すほど、「今」という現実は「何か足りないもの・もっと努力すべきもの・未来へのステップ」としてさらに強調され、その価値を失っていく。

そうやって人は「願望」それ自体が「ギャップ」を作り出していること、またその「ギャップ」が「苦しみ」「葛藤」「悔しさ」「傷」などあらゆる感情を生み出し、自分を苦しめている事実に気づかない。そして、ヨガなどスポーツのように「無心」「無執着」「禅」「マインドフルネス」といった新しい何かの中で、苦しみを解決する新しい願望としての方法やノーハウだけを探し求める。が、「理想」と、それを叶うための「方法」への「努力」が存在する限り、そこから絶え間なく「人生の生きがい」を見つけ出す限り、決してその「苦しみ」が消え去ることはなかった。

 

願望のない人生。

 

「良いパートナー・良い市民・良い〇〇」無数の「良い」を捨て、願望や理想への努力を終わらせることができるだろうか? 

はたしてそれは無意味な人生、無責任で無能な生き方だろうか?

人生とは必ず、ひとかどの人物に、特定分野の専門家など、何かにならないといけないものだろうか?

... どうして親そしてこの社会は、その問いを投げかけることがないだろうか。

 

パートナーや子供、そして自分自身への思考が止むとき、全ての対象への願望が全て止むとき、そこにあるのは、無意味・無責任・無能な人生ではない、とてつもなく大きな意味を持つ「今」が、静かに輝いているだけである。

 

追記 :

より深く掘り下げてみたい方には、こちらの本も参考になると思います。

 

既知からの自由

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