韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について、クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)の言葉から気づく日常を書き残しています。コメントや批評全てご自由に。

雨と沈黙 : 恐怖なしに生きる。

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*七月の空と海風。

 

「雨の予感」を説明するのは難しい。

それは、風の向きや激しい雲の流れだけでなく、そこに、いつもと違う独特の空気、そして沈黙があるからである。もちろん空気も必ず湿っているわけでも、カラッとしているわけでもない。それは決して数式や条件など何かの公式によって導かれるものではなく、刻々変わりつつある何かへの刻々の知覚である。しかし、なぜか人はそれを感じ取り、こう呟く「あ、…雨が降りそう…」と。

振り返ると、その知覚には常に沈黙がある。

庭の草の沈黙。ぬるい時には冷たい風の沈黙。蝶の羽から伝わる緊張の沈黙。茂みの中のカエルの沈黙。遠くの山々が雲を運んでいく壮大な沈黙。帰路を急ぐ鷹の羽の沈黙。

そしてその全てを見つめ観察する私の沈黙。

その雨に、全ての注意を払っている、そのほんの一瞬。

思考はその沈黙をもって、時間(思考)から自由になり、その時初めて、思考の外側(時間ではないものの中)で、それら全てに気づくことができる。

しかし、常に多忙な日常の中で、その沈黙に出会うことはごく僅かである。素晴らしい夕日を眺める、その僅かな瞬間でさえ、思考はそれを昨日もしくは思い出のと比較し、自分が作り上げた過去のイメージを通してそれを眺める。そして「そういえば、あの時の夕日は素敵だったな...」と考える。

イメージ(過去)を通してモノや人を眺めるとき、人は決して目の前の対象と向き合うことができない。その時、向き合っているのは現にあるモノではなく、自分自身のイメージに過ぎない。日常で時々遭遇する僅かで貴重なその沈黙は、そうやって一瞬にして消えてしまう。

しかし、私たちの日常において思考はいかなる手段よりも強い力を持っている。思考は、成功や目標を達成したいという自らの野心を叶う手段として経験(過去)をその拠り所とし、常に自分を今と未来(目標)とに分離させる。またそれ自身の動き(時間)の中で、願望の実現のために独裁者のように拳を突き上げ、自分を奮い立たせる。しかし、思考は決して彼自身が、独裁者(非行為者)であると同時に愚かな民衆(行為者)であることに、気高く掲げたあらゆる目標や願望その全てが自分を苦しめる葛藤と苦悩の源であることに気づかない。


「〇〇になりたい」
「〇〇であり続けたい」…

死ぬ瞬間まで(もしくは死後も)自分を突き動かしているその願望。

思考を忍耐強く観察すると、思考は決して「無」からは生まれないこと、また願望には必ず「恐怖」が存在することに気づく。

 

失敗への恐怖がないとき、人は「成功」という「願望」を必要とするだろうか。

「絶望」が存在しない時、はたして「希望」が必要だろうか...。

思考において成功への願望には必ずそれを失う、もしくは失敗する恐怖を内包しているのではないだろうか。

 

大学への合格、事業の成功、良い結婚と育児、良い父親や母親、そして心理的な達成や克服といったありとあらゆる願望。その裏側に潜む未獲得や未達成の恐怖が、人を願望に突き動かす原動力ではないだろうか。しかし、恐怖がないとき... はたしてその願望が居場所を持つだろうか。... それに気づくとき、目の前にあるその問いは、「いかにして願望を達成(成功する)できるか」ではなく、「いかにして恐怖なしに生きるか」に変わる。

 

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「恐怖なしに生きる」

育児・仕事・人間関係・キャリア・家族・老後・趣味・健康・介護・宗教... あらゆるもの、あらゆる対象を抱えているこの日常を生きる私たちが、はたして恐怖なしに生きることができるだろうか。

それは、仏教やインド宗教、キリストなどで掲げる「無願望」「無所有」「無限や不朽の愛」といった何かの思想や概念ではない。もしその思想や概念を注意深く観察すれば、その思想を実現しようとする行為こそ「もう一つの願望」であることに気づくかもしれない。

仕事や収入を失う恐怖。
妻や子供、家族を失う(絆が壊れる)恐怖。
立派な大人や親になれない恐怖とそれを非難される恐怖。
社会的成功や地位が得られない恐怖。
癌やボケ、あらゆる病気と死の恐怖。
天国や地獄…来世で幸せに暮らせない恐怖。

思考は、決してその無数の恐怖を作り出しているのが他ならない自分(思考)であることに気づかない。また、その恐怖をありのまま見つめようとせず、「願望」で覆い隠し、それを叶うべく未来への「努力」を通して恐怖からの逃避を試みるが、思考(源)が存在し続ける限り、恐怖は絶え間なく生まれ続け、決して消え去ることはない。

にもかかわらず、思考は自分が恐怖そのものであることを決して認めない。そしてその二元性(分離)が全ての葛藤や苦悩を引き起こす原因となる。

思考の動きは、それ自身の動きをもって、自分に「時間」という絶対的な感覚と同時にそれによる限界をもたらす。絶えず目標や願望を作り出し、それらへの努力を行う過程、つまりその心理的時間の中で、人は自分が作り上げた時間を、時には物理的時間と混同しながら、何の疑いもなく、それに縛られて生き、そして死ぬ。

その中で、人は必然として現れる苦悩と葛藤という事実に直面し、その苦悩と葛藤を「快」と「苦」に分離させ、苦」だけを取り除く手段として、ブッタ・イエス・フロイト・デカルトその他◯◯◯…「哲学」「宗教」「心理学」ありとあらゆる過去(知識)にすがり、そこから自分に都合の良い教えや手段を見出すが、その過程もなお、日常を生きるその思考と同じものに過ぎない。

 

人間が充分に生きることができないのは彼が死を恐れるゆえである。

そして逆に言えば、彼が死を恐れるのは充分に生きないからである。- ルネ・フェレ -

(クリシュナムルティ 懐疑の炎(大野純一訳))

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そうやって私が自分の思考にとらわれている間、突然雨が降ってきた。その雨は全てを呑み込みそうな勢いで、あらゆる場所に激しく降り注いでいた。

私は窓を開け、まだ工事中の庭を心配そうに眺めた。そして自分の足が少し泥で汚くなっていることにイライラを感じていた。

同じ時間、違う場所では多くの避難民が屋根の上で救助を待っているというのに... 。

 

恐怖なしに生きる........。

その言葉に、私はただ、

沈黙することしかできない。