生きるために生きる。
真夏の昼下がり。
窓を開けると、日差しより少しさわやかな風が頬を伝って向こうに流れていく。
目の前には、高い雑草がしなやかになびいていて、その上を紫色のトンボが風に逆らい、まるで止まっているかのように、飛んでいた。
柿の木の下には、蝉が動きもせず横たわっていて、その前を小さな虫やイモリが行く道を急いでいた。
庭の隅で疲れ切ったように葉っぱを垂らしているトウモロコシ。突然現れた黄緑の蝶は、その派手な羽ばたきで、自分の絶頂期を懸命に生きていた。
狭い庭であれ、広大な山々であれ、自然はけっして互いを批判し、対立することなく、共存する方法を知っていた。
茂った雑草や害虫、その他諸々が問題になるのは自然の中ではなく、常に人間の中である。
あらゆる昆虫や動物、そして自分の名前に無頓着な雑草たちは、調和や共存を学ばなくても自らそれに気づき、その気づきの中で懸命に生きていた。
「生きること」が「目的そのものである」とき、「生」にいかなる分離もないとき、「生きること」はそれ自身をもって調和(共存)であり、美であり、愛であり続ける。
… 「生きること」って何だろう?…
それは、朝起きて朝食を取り、出勤をし、仕事をこなし、暗くなったら家に帰って夕食を食べ、子供や家族の面倒をみたり、少し休息を取る、そういったことだろうか?
一ヵ月後であれ、何十年後であれ、けっして終わらない「未来の目標」に向かって勤勉に努力を続けること、やがてそれを達成する、その繰り返しのことだろうか?
その努力に疲れ、少し休みを取って余暇や娯楽を楽しみ、またその繰り返しに戻ること、「より良い生活のため」と言い、いろんなものを買い込んでそれに囲まれて満足することだろうか?
それとも、特定分野のスキルを取得し、専門家というステイタスに上ること、それで生計に困らない経済的・心理的安心感を見つけ出すことだろうか?
家・車・ブランド、所有物や年俸を優先し、常に「よりよい」ものへと動くこと、またはそういった物を手放すことで何かが得られると思い、「無所有」「ミニマリスト」に走ることだろうか?
CEO・COO・CFO・理事・会長・代表取締役・教授・首相等々言葉やイメージによって作り上げられた社会的権威(指導者)になり、多くの人の上に立ち、そして虚しい笑顔で謙虚さを装うことだろうか?
もしその全てが「生きること」なら、その人生は他人と何が違うだろうか。
その判で押したような生き方、この社会に適応しようと努め(子供にそれをおしつけ)、それによって生まれるあらゆる葛藤で苦しむこと、それでそこから逃げたり、傷ついた自分を慰めたりする日常の繰り返しが、本当に「生きること」だろうか。
「生きること」とは、それらとは全く違う「何か」ではないだろうか。
…。
「遊び」って何だろう?
「健康促進のために」と何かの目的をもって遊ぶことをはたして「遊び」と言えるだろうか。
無垢な子供を観察すれば分かるように「遊び」とは、ただ何かを達成するための手段ではなく、「ただ遊ぶため」として行動となる。
「ただ遊ぶために遊ぶ」とき、そこには目標と手段としてのいかなる分離もなく、ゆえに比較も競争もない純粋な「遊び」だけがある。
そのとき、子供の中には、その行為を心から楽しむ、無垢な「何か」が現れるのではないか。
… 生きること。
「余暇・娯楽」
「成功・出世」
「安心・安全」
「所有・無所有」
「権威・指導者」
ありとあらゆる目標を掲げ、それに向かって努力することが、本当に「生きること」だろうか?
目標があるとき、「生きること」はその目標を達成するための手段になるのではないだろうか。
そして、その目標を失ったとき、目標を得られないと感じるとき、恐怖や不安に怯えるとき、
人はその手段としての「生」に絶望し、自ら「生きること」を放棄するのではないだろうか…。
最愛の子供を亡くした親にとって「生きること」は、そういった目標や所有とは無縁の「何か」、子供が「ただ生きていること」だけではないだろうか。
「生きるために生きる」
「生きること」が「目的そのものである」とき。
「生きること」が、目的や手段として分離されないとき。
そのとき「生きること」は、それ自身をもって調和(共存)であり、美であり、愛であり続ける。
その「愛」の中で、子供や妻や夫 … あらゆる対象を見つめるとき、そこに全く違う関係、全く違う生き方が現れるのではないだろうか。
そして、それが「生きること」ではないだろうか。
… 今、あなたは生きていますか?