比較と価値
今どきの服を身にまとった若い彼女は言った。
「…本当は、今、自分が住んでいるここがあまり好きじゃないんだ」
「でも、東京や違う場所を旅して帰ってくると…やっぱり、ここがいいなと改めて感じるんだ」と。
彼女のまわりには、同じ服を着た友人が何人かいたが、しかし彼女の話に耳を傾ける人は誰もいないようだった。
彼女たちは、ひっきりなしにスマホを触りながら、そこから聞いた話、それを使った経験や人脈などの話を自慢げに、しかし控えめに話していた。
そして、コーヒーが無くなるやいなや、その話もまた次の場所へと移り行くだけのように思えた。
***
比較
何かの価値を見出すとき、その価値に気づくとき。
そこには、常に「比較」があった。
「住んでいる場所」
「新しい職場」
「新しい彼氏や彼女」
「新しい小物やスマホ…」
そして「自分の過去にあったものや感情」…。
人は何かの価値を認識するためにと、絶え間なくそれに対比する対象を持ち込み、比較することで、いとも安易に、長所と短所を区別し、それを評価する。
その評価が、自分の先入観や過去の記憶の投影に過ぎないかもしれないということを考慮しないまま… 比較から見つけた長所や短所に目を向け始める。
そして、その片方を手にした今を… 自分が知っているあらゆる知識や経験、愉快もしくは不快な感情に合わせて正当化し始める。
「…あ、今(の)でよかった」
「…あ、前(の)がよかった」…。
しかしその正当化が、満足であれ、後悔であれ、それは依然として、比較からなる単なる正当化に過ぎなかった。一定の基準によって導かれた結果としての…。
***
いかなる比較無しに、
何かの価値を見つけることはできるだろうか。
偏った価値観や過去の感情に縛られることなく、一時的な(今の)感情に振り回されることなく、その感情をあらゆる言葉で正当化することなく…。
何かの価値に「ありのまま」気づき、見つめ、それに深く感銘を受けることはできるだろうか。
… 何かのメソッドとして自己開発書を読むように、単に「比較してはいけない」というもう一つの知識、もう一つの信念として受け入れ、蓄積するのではなく…。
誰かの言葉、
過去の記憶、
自分の価値観…
あらゆる比較から「自由」になる時、
その時。
窓から見えるあの景色は、
彼女にどう映るだろう…。
友達の話はどう聞こえるだろう…。
その時、彼女は初めて、自ら終わることのない比較の鎖を外し、眩しい景色を見つめ、そのとてつもない鮮やかさと生命力に驚き、また、語られる話の中にある微細な感情を汲み取り、共感し、それが意味するものを、自分の中から見出していないだろうか。
いかなる比較も、
いかなる正当化も、
いかなる基準も持たずに
何かに向き合う時。
価値とは、
その時はじめて現れるものかもしれない。