韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について日常から気づくことを書き残しています。思考の軸は、インドの哲人クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)。5年目ブロガー。21年冬Amazonペーパーバック出版。これからもぼちぼち続けていきたいと思います。コメントや批評全てご自由に。

【抜粋】自然と責任

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川辺に一本の木があり、私たちは数週間、来る日も来る日も、朝日がまさに昇ろうとするころに、その木を見ていた。木々の向こうの地平線にゆっくりと日が昇ってくると、この木は不意に黄金色になる。

すべての葉が生命に輝き、見つめて時間がたつにつれて、木の名前は何でもかまわないが―大事なのはその美しい木だから―とてつもない質の高さが、川の上やあたり一面に広がっていくように思える。

太陽がさらに高く昇るにつれて、葉は揺れてダンスを始める。そして、時間ごとに木はその質を変えていくように思われる。太陽が昇る前には物憂げで、静かで、遠くて、威厳にあふれている。

 

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一日が始まると、光を受けた葉が踊りだし、すばらしく美しいものが有する特別な感覚をこの木に与える。

真昼に向かって影は濃くなり、太陽を避け、木に守られて木の下に座れるようになる。木が一緒にいてくれるから、まったく寂しくない。座っているとき、木々だけが知っている深くて変わらぬ安心で自由な関係が、そこにはある。

暮れかかって西の空が夕日に照らされるころ、この木はだんだんと物憂げに、暗くなって、自らを閉ざしていく。空は赤や黄色、緑色になるが、この木は静かにひっそりと夜に向けて安らぐ。

この木との関係を確立するなら、あなたは人類と関係をもつことになる。そのとき、あなたはこの木、そして世界の木々に責任をもつ。

だが、この地上の生き物たちとの関係をもっていないなら、あなたは人類との、人間とのどんな関係も失うだろう。

私たちは決して一本の木の質を深く見つめることがない。私たちは決してそれに触れず、その堅固さを、ざらざらした樹皮を感じないし、木の一部である音を聞かない。楽群を通り過ぎる風や葉を揺らす朝の微風の音ではなく、木そのものの音、樹幹の音、根の沈黙の音だ。その音を聞くためには、とてつもなく鋭敏でなければならない。この音は世界の雑音でもなければ、精神のおしゃべりの雑音でもなく、人間の争いや戦争の俗悪さでもなく、宇宙の一部である音なのだ。

 

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私たちが自然と、昆虫や飛び跳ねるカエル、丘陵でつがう相手を求めて鳴くフクロウと、ほとんど関係をもっていないのは奇妙なことだ。私たちは地上の生きとし生けるものへの共感をまったくもっていないように見える。

もし、自然との深くて変わらぬ関係を確立できれば、決して欲望にまかせて動物を殺さないだろうし、自分たちの利益のためにサルやイス、モルモットを傷つけたり、生体解剤をしたりしないだろう。私たちは自分の傷を癒し、身体を稽すために、他の方法を見つけるだろう。

だが、精神を獲すとなると、話はまったく別になる。その癒しは、自然とともに、あの木のセメントのあいだから顔を出す葉とともに、そして雲に覆われて隠れている丘陵とともにあるとき、徐々に進んでいく。

これは想像でもなく、ロマンチックな感傷でもなく、地上に生きて動く全てのものと関係性のリアルリティである。ひとは何百万頭もののクジラを殺してきたし、今も殺しているこの殺戮から私たちが得たものは全て他のの方法でも手に入れることができる。だが、ひとは明らかに生き物を、華奢なシカや美しいガゼル、立派なゾウを殺すことが好きらしい。

 

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私たちは殺し合うことが好きなのだ。

この人間の殺し合いは、地上の人類の歴史で一度も止んだことがなかった。だが、自然との、現実の木々との、数との、花々との、草や勢いよく流れていく雲との、深くて長くて変わらぬ関係を確立できたなら、ーそうしなければならないのだがーそのときには、私たちは、どんな理由があっても、ほかの人間を殺戮することは決してないだろう。

組織化された殺人は戦争であり、私たちは特定の戦争や核戦争、その他の戦争には反対してデモをしても、戦争そのものに反対するデモは決してしない。私たちは、他の人間を殺すことは地上最大の罪であるとは、決して言わなかったのだ。

 

抜粋 : Krishnamurti to Himself
(邦訳「最後の日記』平河出版社)