【抜粋】瞑想と行動
わたしたちは誰もがみな、葛藤のない生き方を求めているはずです。
人々はそうした生き方を、例えば僧院生活の中に求め、僧侶としてあちこちを放浪したり、俗世を逃れて洞窟や象牙の塔の中に引きこもったりすることで、苦しみや悲しみが存在することのない生き方を見いだそうとしてきました。
にもかかわらず、人類は内側の世界においても外側の世界においても戦いに明け暮れる生き方に身を委ねてきたのです。
たとえ僧侶になろうと、さまざまな苦闘、混乱、不安を経験することから逃れることはできません。わたしたちはもはや人生を戦場として受け入れて反目しあうだけでなく、自己の限られた意識の内側においてすら分裂を招いています。
わたしたちは騒乱を引き起こすような生き方しか知らないので、さらなる不安や絶望を招くような行動しかとれないのです。
それでは、そもそも葛藤を生まない行動というものは存在するのだろうかという問題を考えてみましょう。
行動とは、どう行動すべきかというイデオロギー的な概念を指すのではありません。まさに今この瞬間になされる行為、それが行動です。
これまでになしてきた行為、あるいはこれからなそうとしている行為のことではあり得ません。前者は行為の記憶に過ぎず、後者は過去の行為を現在の視点から投影したものに過ぎないからです。
わたしたちは行動について思案を巡らせ、それを現在において実行し、必要とあれば修正を加えます。つまり、行動とはわたしたちが過去に巡らせた思考によってもたらされたものなのです。
したがって、今この瞬間を起点とする行動というものは決して存在せず、そこにはつねに過去の影が差しているのです。ここで言う影というのは記憶や経験や知識のことであり、いかに行動すべきかを規定するイデオロギーや概念のことです。ですから、わたしたちが真の意味で行動することは決してないのです。
今ここに過去をもち込み、それによって未来の結果を生みだそうとする分裂した行動は、すべて思考のなせる業です。思考は過去の産物であり、それゆえつねに新鮮さを欠きます。
思考の中には何ら新しいものが存在しないため、思考に支配された行動はもはや行動ではなく、単に結果や効果たらすためのものに過ぎません。しかし、生きることや感じること、関係性をもつことは常に現在のできごとであり、現在とは刻々と移ろいゆく過程なのです。
このように、あるがままの現在とこれまでの過去との間には絶えず矛盾がつきまとうため、どのような行動をとっても必ず軋轢が生じるのです。
普段、行動と呼ばれているもの、およびそこから生じてくる葛藤にまつわる以上のような仕組みをすべて理解できたとき、思考ではなく、静寂と沈黙そのものの精神状態によって行動が導きだされることはあり得るのかという問いかけが生じてきます。
こうした場合においてのみ、結果だけを目的とするのものとは異なる行動が可能になり、また、そこから苦痛や悲しみが生みだされることも無くなるのです。
瞑想とは、過去によって占められた精神を空(empty)にすることです。そうすることができたとき、もはや行動そのものが瞑想になります。
なぜこれが必要なのかといえば、わたしたちの生活とはつまるところ、関係性における行動によって成り立っているからです。過去のイメージから精神を解放するためには、瞑想という行為が必要なのです。
- アートとしての教育 クリシュナムルティ書簡集(小林真行訳) -