【抜粋】ところで君たちは瞑想について知っていますか?
ところで君たちは瞑想について知っていますか?
君たちはセックスには興味があるのではありませんか?楽しくさせられることに関心がある。地理や歴史を学ぶことにも興味が湧くでしょう。ときどきかもしれませんが...君たちは多くのことに関心があるのではありませんか?
瞑想は人生の一部です。それは世間の一部の愚かな人々のためのものだとは言わないでください。それは存在の一部であり、それゆえ数学やエレクトロニクスなどについて学ぶのと同様に、それについて学ばなければならないのです。
瞑想するとはどういう意味か知っていますか?
辞書によれば、それは「熟考する」「思いめぐらす」「沈思黙考する」「探究する」ことです。それについて少し話してみましょうか?
非常に静かに坐るか、あるいは横になると、身体がすっかりリラックスするのではないでしょうか?
本当に静かに坐ってみたことがありますか?強いてではなく。なぜなら強いてしたとたんに、万事休すとなるからです。
目を閉じるか、または開けて、非常に静かに坐るのです。目を開けておくと、ものを見始めますから、少々余計に気が散ります。
ですから、事物、木の曲線、葉群、茂みなどを見た後、それらをよく注意して見た後、目を閉じるのです。すると「何が起こっているのか見てみたい」と自分に向かって言わなくなるでしょう。
ですから、まずあたりのあらゆるもの、家具、椅子の色、セーターの色、木の格好を見つめなさい。
見つめ終わると、外を見たいという気持が減じます。あの青空を見終わったから、それでいい、もう見たくないと思うようになるのです。が、まず見なければなりません。
それから静かに坐ることができるのです。静坐するか、あるいはとても静かに横になると、血液が楽に頭に流れていくはずです。
なんの緊張もなくなります。背筋を真っ直ぐに伸ばし、足を組んで坐れと言われるのは、そうすると血液がより流れやすくなるからなのです。屈んでいると、血液が頭により流れにくくなります。
で、君たちも非常に静かに坐るか、横になるかしてみなさい。強いたり、そわそわしたりしてはだめです。もしそわそわしていたら、「そわそわしてはだめだ」と言わずに、それを見守るようにしなさい。
それから非常に静かに坐ったら、自分の精神を観察してみなさい。とにかくそれを見守るのです。それを正そうとしてはだめです。「この考えはよい、これはだめだ」と言わずに、ただ見守るのです。
すると君たちには、観察者と観察されるものがあることが見えてくるでしょう。区別があるのです。で、その区別があるやいなや、葛藤が起こるのです。
さて、観察者なしに観察することができるでしょうか?観察者なしの観察があるでしょうか?
これは良く、それは悪い」「これは好きだが、それは嫌いだ」、あるいは「彼女がこれ、またはそれを言わないでくれればいいのだが」「もっと食べるものがあればなあ」とか言うのは観察者なのです。
観察者なしに観察すること。
ときどきそうしてみなさい。それは瞑想の一部です。ともかくそれを始めること。それで十分です。
で、もし実行してみれば、いかにとてつもないことが起こるかわかるでしょう⋯身体が非常に英知にあふれてくるのです。
いまは駄目にされているので、それには英知はありません。わかりますか?私たちは身体本来の自然な英知を殺してきたのです。
で、その英知が回復すると、身体が「正しい時刻にベッドに行きなさい」と告げるのを見出すでしょう。それを望むのです。それはそれ自体の英知と働きを持っているのです。
ですから、もしそれが怠けたいのであれば、怠けさせるのです。おお、君たちはこのすべてが何を意味するかわかっていませんね!ためしてみなさい。
私は、君たちがここを英知豊かな人間となって出て行ってほしいのです。ただ試験に合格するだけでなく、英知をみなぎらせ、よく気づく、素晴らしい人間に育ってほしいのです。少なくともそれが、君たちへの私の思いなのです。
- j.クリシュナムルティ | 学びと英知の始まり(大野純一訳) -