韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について日常から気づくことを書き残しています。思考の軸は、インドの哲人クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)。5年目ブロガー。21年冬Amazonペーパーバック出版。これからもぼちぼち続けていきたいと思います。コメントや批評全てご自由に。

【抜粋】なぜ人間は...美しく死ねないのだろう?

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なぜ人間は...
そんなに惨めに、不幸せに、病を負い、老衰し、もうろくし、身体は曲がり、醜いままに死ぬのだろう?なぜ木の葉のように自然に美しく死ねないのだろう?われわれのどこが間違っているのだろう?

多くの医者がおり、薬や手術、または生きる上での苦しみ、楽しみなどもろもろのものがあるにもかかわらず、われわれは威厳と素朴さと微笑のある死に方ができないように思われる。

...子供に算数や読み書きを教え、知識を蓄えさせるに際しては、いずれは対面しなければならない陰鬱で不幸なものとしてではなく、毎日の生活に起きる何か青空や葉っぱの上のバッタを眺める日常生活の一部として、死の偉大な尊厳をも教えなくてはなるまい。歯が生えてきたり、小児の病の不愉快さをすべて味わうように、それは学びの一部分なのである。子供たちには並外れた好奇心がある。


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もし死の本質がわかるなら、すべてのものは死んで塵に帰るのだというような説明をしないで、恐怖心をもたないようにやさしく説明し、生きることと死ぬことはひとつであって、五十歳、六十歳、九十歳の後に死ぬというのではなく、死はあの木の葉のようなものだと感じることができるだろう。

歳取った男や女を見るがよい。なんと老衰し、迷い、不幸で醜く見えることか。生のことも死のことも、実際には何も理解しなかったからではないのか?彼らは生を使いきり、自己、「私」、自我を育て、それに力を添えるだけの絶え間のない紛糾によって、自分たちの生を浪費しきるのである。われわれは、ときには喜びや楽しみもあるが、酒を飲んだり、煙草を吸ったり、 夜更しをしたり、仕事、仕事、仕事でいろいろ紛糾と不幸せの中に毎日を過ごす。

そして一生の終わりに死と呼ばれるものに対面し、それを恐れるのである。死は常に理解されうるし、深く感じとられるものだと思う。子供は好奇心が強いので、死は病や老齢や思いがけない出来事で身体が駄目になってしまうことだけではなく、毎日の終わりはまた毎日の自分自身の終わりでもあるのだということを理解できるよう、導くことができるのである。


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復活というものはありえない。それは迷信であり独断的な信念である。この地上のあらゆるもの、この美しい地球上のあらゆるものは、生き、死に、生まれ来たり、しぼみ去る。このすべての生の動きを理解するには英知がいる。思考や本の英知ではなく、感受性に富んだ愛と慈悲の英知である。

....あらゆる美と色彩を備えたその落葉を眺めると、人の死というのは、それも生の終わりにではなくごく初めから、どんなものでなくてはならないか、たぶん非常に深いところから理解し気づくだろう。


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死とは何か恐ろしいものでも、避けたり延ばしたりするものでもなく、日の明け暮れとともにあるものなのである。それを悟るとき、無限の広がりをもつ想像を絶した感覚が訪れる。

- J.クリシュナムルティ‐

 

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