韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について、クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)の言葉から気づく日常を書き残しています。コメントや批評全てご自由に。

生と美と、止むことのない笑いさざめき。

f:id:olewakbh:20220324184051j:image

を登ってゆくと、樹や茂みのない不毛の岩の間に、巨大で近づくことのできない岩から湧き出している、小さな渓流があった。それは渓流と呼ぶには大げさで、小さな流れとでも言うべきものであった。

流れ下って滝となり、さざめき、また流れ下って谷に落ちると、それはもう力の限り叫んでいた。それは街や渓谷や森や平野を通り抜けて長い道のりを行くであろう。それは圧倒的な流れの河となって、岸を洗い流れつつ自己を浄化し、岩の上では打ち砕け、遙かかなたまで流れ、海へ向かって果てしなく流れていた。だがそれはまだあの偉大な海に達しているのではなく、とても広くて深く、豊かで素晴らしい河なのであった。

f:id:olewakbh:20220324184126j:image

やがては海に注ぎ、その広大で底知れぬ水の中へ消え去ってゆくだろう。しかしその海は何千マイルも離れたかなたにあった。だが、ここからその海に至るまで、それは生と美と止むことのない笑いさざめきであった。何ものも、工場やダムさえも、それを止めることはできなかった。

f:id:olewakbh:20220324184608j:image

それは本当に素晴らしい河であった。広くて深く、その渓流には数多くの町が点在し、自由奔放で、決して己を渡さなかった。全生命がその上にあった。平野、森、孤立した家、 愛、そして破壊があった。

f:id:olewakbh:20220324185242j:image

長くて幅広く、優雅で使い古された橋がその上に架かっていた。他の大小の川がそこに合流していたが、それは、小さい流れや大きな流れの、それらすべての流れの母であった。それはいつも満ち溢れ、絶えず自己を浄めていた。そして夕刻、雲の深まりゆく色彩の中で、黄金色の木のそれを眺めるのは祝福であった。

だが、 遙かかなたにある小さな流れ、それを生み出すために非常に凝集したように見える巨大な岩々の間の、その流れが生の始まりであり、その終焉はその堤や海のかなたであった。

***

f:id:olewakbh:20220324184909j:image

瞑想はその河に似ていたが、しかしそれには始まりも終わりもなかった。それは始まり、その終焉はその始まりであった。原因というものはなく、その運動は、その再生であった。

それは常に新しく決して古くなることはなかった。それは時の中にその根を持っていないので、決して傷つけられることはなかった。強制したり、いかなる努力をすることもなく、せせらぎと共に始め、時間と空間を超えて瞑想することは良いことである。そこには思考と感情は入り込むことができず、経験も存在しない。

- クリシュナムルティの神秘体験 p.360 -