私たちは本当に生きているのでしょうか。
Q) 生の意義は何でしょうか。
生の意義は生きることです。
恐れがあるとき、生全体が模倣、まねすることの訓練をされているとき、私たちは本当に生きているのでしょうか。生は生きるに値するのでしょうか。
権威に付いていくなかに、生きることがあるのでしょうか。あなたが誰かに付いていくとき、あなたは生きているのでしょうか。たとえそれが最も偉大な聖人や政治家、もしくは学者であっても、です。
あなたは自分自身の道筋を観察するなら、あなたは誰かしらに付いていくことしかしないことが、 分かるでしょう。この付いていく過程が、「生きること」と呼ばれるものです。そしてあなたはその終わりに「生の意義は何でしょうか」と言う(聞く)のです。
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あなたにとって、生はいま意義があるのです。あなたがこの権威すべてを片づけるときだけ、意義は訪れうるのです。権威を片づけることは、とても難しいのです。
権威からの自由は何でしょうか。
あなたは法律を破るかもしれません。それは権威からの自由ではありません。しかし過程全体を理解するなかにこそ、 自由はあるのです 。
すなわち、精神がどのように権威を創り出すのか、私たちの一人一人がどのように混乱していて、ゆえに自分が正しい種類の生を生きているのだと保証してもらいたいのかを理解するなかに、 です。
私たちは、何をすべきかを告げてほしいから、誰かにより利用されるのです。科学と同じく心霊においてもです。 私たちはまねをし、模倣し、付いていっているかぎり、生の意義を知りません。自らの探し求めているものが成功ばかりであるとき、どうして生の意義が知られるでしょうか。...それが私たちの生なのです。
私たちは成功がほしい。内外的に完全に安全でありたい。 私たちは正しくやっている、救済や解脱などにつながる正しい道に付いていっている、と誰かに告げてほしいのです。
私たちの生すべては、伝統に付いていくことです。昨日の伝統や数千年の伝統に…そして私たちは、あらゆる経験を、自分たちが結果を達成するのを助けてくれる権威にするのです。それで、私たちは生の意義を知りません。
私たちが知っているのは恐ればかりです。
誰かの言うことへの恐れ、
死ぬことへの恐れ、
ほしいものを得ないことへの恐れ、
間違いを犯すことへの恐れ、
良いことをすることへの恐れ、です。
私たちの精神はとても混乱し、理論に捕らわれています。そのため、私たちは生が自分たちにとってどんな意義があるかを、説明できないのです。
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生は何かとてつもないものです。
「生の意義は何でしょうか」と問うとき、質問者は定義がほしいのです。彼が知るのは、定義、単なる言葉ばかりになるでしょう。
もっと深い意義、
とてつもない豊かさ、
美しさへの敏感さ、
生きることの無量性ではないのです。
J.クリシュナムルティ | 知恵からの創造