今この瞬間の思考日記とメモ。

人生について考えることを書いてます。

(後編)子供の習い事と親の自己満足について

前編後編の間。

 

…。自分が残した、自分が自分に課した宿題(仮)を終わらせること。

それはその時の感情によって、時折「宿題」になったり、「少し面倒なメモの続き」になったりします。

 

そう…。「それ自体」は変わりなくそのまま存在しているのに、その日の気分や自分の精神状態(笑)によって「私」は、それを全く違う感覚と思考で「受け入れている」そんな気がします。

 

前編を書いてから半年が経ちました。

この下に続く「後編」と名づけた内容は、もはや「後編」ではなくなりましたが、それでも「後編」と名づけた理由は…特にありません(笑)。ただ、今日はタイトル選びに悩み、それに思考を取られることがあまり意味がないと感じました。今はそう感じてそう行動する。それだけのことです(笑)

 

だから、その内容も「Aの次、Bから」というわけでもなく、前編の内容を今の視点で書き直しています。

 

思考は変わり、ものの見方も変わる。それによって言葉が変わるのも自然なことかもしれません。

 

何より言葉はそのものではないことを感じるとき、

自分が発した言葉に執着・依存せず、一貫性やプライドを維持させることに固執しないとき、まるで渓谷の中で流れる川をありのまま眺めるようにその言葉を見つめるとき、

自分によって生まれた「ストレスや葛藤や苦しみ」といったものが、ほんの少し…なくなっている気がします

 

前編はこちら↓↓↓ 

*後編も相変わらず、抽象的で根拠もなく誤解満載ですので、ご注意下さい。(笑)lcpam.hatenablog.com

『(後編)子供の習い事と親の自己満足について』

 

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*9月の子供用ビーチサンダルと庭の芝生。

 

「子どもの成功と達成=自分の成功」 

自己満足の対象としての子ども。

前編では少し話がそれてしまいましたが、これについて少しだけ書いてみました。ただ、その前に「問題」「解決」という概念について少し触れてみたいと思います。

 

「問題」「解決」と「私」

私たちは何か葛藤や知らないこと、選択や数々の問いに迫られたとき、それに「問題」という概念を被らせて、それと同時に「解決」を捜し求めているのではないでしょうか。

 

たとえば「幼児に英語教育は必要なのか」という問いがあります。

その問いは、時間とともに周りの教育方針(だれだれはこうしている等)などによって何度も問われ、やがて解決すべき「問題」となるのではないでしょうか。

 

その瞬間、私たちは知らない間に、違う表現をすると「気づかない間に」それにとらわれ始めます。そして、それと同時に「親たるもの」の私が、広い視野の人生経験が豊富な「私」が、その主体として現れます。

 

もしその私が、子育てに熱意を持っているなら、時間をかけてあれこれ調べては「解決策はこれだ」と「問題」を乗り越える方法を生み出します。

 

または、私が子育てにそれほど熱意を持っていないなら、妻や夫の話、周りの話、ちょっと調べたネットの話、自分が良いと思った過去の話に頼る方法を出すか、もしくはその何れでもない無関心(逃避)を見せるかもしれません。

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 *庭の色葉もみじと夏の終わり。

「子育て」とその「判断基準」

では、熱意を持っている親が正しくて、熱意を持っていない、又は無関心な親は正しくないでしょうか。そのどちらが賞賛されるべきで、そのどちらが非難されるべきでしょうか。

 

私は、私と違う(そうではない)親をみるとき、彼らを非難し、冷笑し、自分の子育てを正当化し始めるのではないでしょうか。

 

どうして私や親にそのような思い・感情・思考が引き起こされるのかを理解しない限り、私は時折A側の親になったり、B側の親になったり、C側の親になり、常にそうではい親と周りや社会などといった限られた一面だけをみて正しくない、間違っていると非難し、自分の教育方針を正当化し続けるのではないでしょうか。

 

モンテッソーリシュタイナー教育

英才教育と数々の先行学習。

運動神経を発達させるという体操や数々の運動。

数学の思考に効果があるという算盤、ユーチューバー。

周りの友達が殆ど夢中になっているという野球やサッカー。

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 *散歩中、見つけた花。

 

数え切れない物事の数だけ、

数え切れないほどの「問題」がある。

もし、私が子ども(主体)と共にそれらを見ないで、「私」「親」としてみるとき、やがてそれは一つの「問題」となり、そこには相変わらずその問題を「解決」すべき「私」が現れるかもしれません。

 

もし、その「私」が熱意を持っているならば、「問題」を「解決」するためにあらゆるもの、あらゆる手段、あらゆる正当化を使おうとします。

 

それは「自分の幼い記憶」であったり、

「どこかで読んだブログ内容」であったり、

「有名な子育て専門家が語る教育指針」であったり、

「テレビで偶然、目にした理想の子どもの姿」であったりするかもしれません。

 

「私」「子ども」「重ね合わせ」

 そして「私」は「それらの内何れか」又は「それら全て」に自分の子どもを重ね合わせようとしているのではありませんか。

 

自分の幼い記憶の中で味わった感情を子どもには味わせたくない…もしくはその反対のことを優先する感情を。

 

感化されたブログの子育て方法をわが子どもにもさせてみたい…気持ちを。

 

米大統領、グーグル創立者、アマゾンCEO…モンテッソーリ教育出身の名前でその必要性と根拠を自分と周りに言い聞かせるその感情

 

テレビの編集裏にある全体像を見ることなく、幸せそうにはしゃいでいる子どもやそれを見守る教育者に対する自分の偏見と羨望そして共感を。

 

… これらに、私たちは気づいているでしょうか。

 

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*見ているのは、想像力溢れるその無垢な遊びでしょうか。それとも心配や危険性のことでしょうか。

 

大事なのは、優れた教育方針でも、

成功を招く子育て…なんかでもなく、

「そうやって何を見ることではなく、

その何かを見ている「私」なのではないでしょうか。

  

常に自分の記憶や思考に執着し、「あるがままの子ども」に偏見を持たせている「私」を見ない限り。

 

有名ブログや記事の理想に酔い、その理想を自分の子どもに重ね、何かの楽しみを感じている「私」を見ない限り。

 

難しい用語の教育指針を「今を生きるあるがままの子ども」の立場で考えることなく、盲目に従い、有りきった有職者の傲慢な解説のように語っている自分を見ない限り。

 

そういう「私」に気づかない限り…

私たち親は子どものあるがままを見ることができるでしょうか。

  

その教育方針を、自分の狭い世界で描く「理想の子ども」の立場として考えることこそ、正しくないこと、間違っていることなのではないでしょうか。

 

今、子どもは何を見ていて、何を話しているのか。

見ていますか? 聞いていますか?

 

頭で見ていると理解しているつもりではなく、「私」は本当に子どもを見ていますか。

それとも「私」は、「私」を見ているだけでしょうか。

 ...。

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言葉にならないその言葉を、その無邪気な行動を、「私」は本当に見ているのでしょうか。

私たち親は、それらに「問題」「解決」というフィルターをかけて、見ているつもりでいるのではないしょうか。

 

「私」は誰でしょうか。

「親」でしょうか。

「私そのもの」でしょうか。

それとも「親」「私」そのどちらにも拘っている姿でしょうか。

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飽きもせず何時間も同じ滑り台ではしゃぐ娘と息子。

良い写真を残したいと思う「私」が、

カメラのレンズを通して子どもを追うことをやめるとき。

教育方針や小1の壁、全ての不安と問題と葛藤が…

落ち葉と砂を被りながら、赤い鉄柱を力強く握る

その天真爛漫な姿を見えなくしていることに気づきます。

 

「求めるものは全て今ここにある」ことに気づくとき

子どもは「私ではない私」を

決して言葉で言い表せない「その笑顔」

常に迎えてくれています。

 

その笑顔に思わず流れるこの「涙」が、

葛藤や幸福、心配や喜悦それら全てを含む「涙」が、

本当の「愛」であることに気づくこと。

そして「幸せ」も一つの言葉に過ぎないことに気づくこと。

 

今日も...。

「今を生きる」子どもから学び続けるまだまだ未熟な「私」です。

そこそこA氏 (最後で最初のお話)

「どこで間違っていたんだろう」

「どうして私の人生はそこそこの人生になったんだろう」

  ....lcpam.hatenablog.com

 

真面目なそこそこAは、今度は生きることについて

その答えを探しはじめた。

 

答えのない人生なんて.. いやだ..。

今まで.. 数多くの苦痛と非難と、

理不尽な出来事に耐えてきたのに...。

 

それは暗いトンネルのようなものだった。

そこそこAは、その先にあると信じる光を目指した。

 

いつかこの苦痛が終わることを、

いつか自らの意志と感情で生きていける所に辿り着くまで、汚いトンネルに耐えながら進んでいく。

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数え切れない、そして絶え間ない苦痛と、

一時的な幸せについて考えれば考えるほど、

それは掴むことのできない、遥か遠くにあるようだった。

 

あのときの自分の犠牲。

受け入れるしかなかった多くの暴力が。

女性として生まれた瞬間から背負うしかない重みとその重みの違いを妬む悲しみ

そしてその重みが、さらに重く重なっていくその耐えがたい重みを…。

彼女は抵抗し叫びながら、時には諦めながら受け入れてきた「人生という重み」を…。

 

その重みは彼女から自由を奪い、幸せを奪い、そして人生の意味を奪っていった。

それを彼女は、傍観者のように仕方なくただ眺め、受け入れることしかできなかった。

 

その人生と彼女との間にある、「重い沈黙」が何よりその重みをさらに増していた。

 

しかし、彼女には子どもを立派に育てたという感覚があった。旦那と子どもそれぞれ違う形だとは言え、という感覚もあった。しかしこれら全てが「人生の重み」となってトンネルの中に見え隠れしていた。

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「... ... ...。」 

「…私は…今、泣いているの?」

怒りか感動か分からないが、彼女の頬を伝って落ちた。

 

「涙は愛で、愛は涙であり、苦悩と幸せは一つだ」

「犠牲と報いに囚われている限り、光は幻に過ぎない」

「そうやって光を求めている限り、トンネルは終わらない」

...

鏡の向こうで、疲れている自分を静かに見つめなさい」

「子供のご飯・仕事の都合・節約・家事…少し遠い未来の不安…何も考えず、ただ観察することで見えてくるものを見てごらんなさい」

「そこに座っている「そこそこA」という名前も、これを読んでいるあなたの名前も...全て言葉に過ぎないという沈黙が見えるだろうか」

「私と(望む)私。私のあなたとあなたのあなた…のように互いのイメージと区別が存在しない一つの沈黙を感じることができるだろうか」

 

...その声は「トンネルの外」から聞こえてきた。

 

「...全てを諦めろっていうの?!!

この重い人生をそのまま背負っていけっていうの?!!

私はもう少し…幸せで…もう少し苦痛を感じたくないだけなのに…

それがそんなに贅沢なことなの?!...

それが私が母になり、生まれてきた理由なの?!」

 

鏡の向こうに、皺が波打つ彼女を「そこそこA」は静かに見つめていた。

そして返事の代わりに長い「沈黙」が返ってきた。

そこには「そこそこA」を見ている人と、見られている人がいた…。

 

彼女は「そこそこA」であり、「そこそこA」は彼女であることを…鏡は「沈黙」で教えてくれていた。

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... 薄暗い雲が屋根の端っこにかかる。

雑草がそよ風に気持ちよく揺れていて、

そのリズムに合わせて名前の知らない

鳥たちが微かな日の出を喜んでいた。

 

どこかのカエルの足跡も、目的地のない

ナメクジも、蜻蛉の羽の緊張も、

そして遠くから聞こえる飛行機のエンジン音も…

その真ん中を自転車がゆっくりと流れていく。

...その全てはそのままの姿で眩しく輝いていた。

 

... 

いつの間にか、私はトンネルの出口に立っていた。

そして「トンネルは振り向くときに現れること」に気づいていた。

 

...「うわあああ。ああ。ママがいい!!」

末っ子のいやいやに、私はいつもより明るい声で答える。

「は~~い!ママがいくよ!」

 

黄色く小さい蝶がゆっくりと庭を散歩している。

そして私はあの散歩のように流れる涙を…

感じながら鏡の向こうから...今を生きる。

...。

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子どもの毎日から学ぶもの。

毎日 「何かのために」

大きな声で何かを伝え、

何かを調べて何かを考え、

何かの結論に至っては、

何かの行動に移す・・・こととその繰り返し。

 

「ああ。疲れた・・・」

そして毎日のように嘆く言葉とともに

また「何か」を探し始める。

 

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常に「何か」に追われている

自分を見つけて時々、

「だめだな。これじゃ・・・」

自分の姿を気にするけど、

 

これもまた、

いつもの「何かのために」という

行動パターンの一部。

 

ブログでも仕事でも生活でも、

私はまさしく、その「何かのために」

常に「何か」に向かって怒っている。

 

「既存の価値観」

「不条理な社会のシステム」

だと、言い聞かせているけど、

その中には「それじゃないもの」が

多く存在する。

 

「そうじゃないもの」・・・

それは、自己中心的な「私のエゴ」が

決して語ろうとしない、認めようとしない。

「私(のエゴ)に反対するもの」

 

「物事に対する私の意見に反対するもの」

「教育観や人生の価値観に反対するもの」

「私の上に立ち、従わせようとするもの」

 

つまり、それは、

「私を否定し、傷つけようとするあらゆるもの」

 

「自分を傷つけようとしている」

勝手に考え、勝手に結論に至っては、

その相手や言葉、あらゆる対象を

拒否しようとするもの、傷つく前に

「何か」に声を荒げ、戦わせるもの。

 

「自分が大事」

「自分は正しい」

と思いたがる私のエゴによるもの。

 

私を「守るための」

知識という偏見・先入観・思い込み・・・

手段を選ばず頑なに、

自分を守ろうとするもの。

 

そのエゴが安全だと思ったとき・・・

心に余裕ができて初めて・・・

他人の話を少し聞いてあげようとするもの。

 

そして、そういう自分に気づいては、

「なんて!素敵なんだ!」と

自分を褒めたがるもの。

 ・・・

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「こどもの遊びに付き合うこと」

「庭を歩く猫をみること」

「目的もなく散歩をすること」

「本を読みながら頬笑むこと」

 ・・・

 

「何かのために」ではなく、

「エゴ」によるものではなく、

「ただ感覚を見つめること」

「そしてその感覚に従うこと」

 

すると、

大きな声で何かを伝える必要も、

何かを調べて考える必要も、

何かの結論に至る必要も、

何かの行動に移す必要もなくなる。

 

スローライフ

ミニマリスト

「ゆるい生活」

「頑張らない自分」・・・

 

トレンドや言葉に反応し、

その言葉を、もう一つの

何かのために」としないこと。

 

「そうだ。こうしなくちゃ・・・」

「こうならなくちゃ」と思うのではなく、

「何の目的もなく」

「何かのために」を忘れ、

今、自分が感じることに従うこと。

そして、そういう知覚すら忘れ、

心で見つめるとき。

 

目を光らせながら笑っている、

子どもの輝く顔に。

溢れるほど心が満たされている

ことに気づくとき。

 

「幸せ」と言われる感覚は、

「幸せのために」

「何かのために」からではなく、

言葉や考え、目的といった

それら全てを忘れた瞬間、

偶然そこにあった...

ことに気づくことなのかもしれない。

 

そう。・・・子どもは、

その素晴らしい毎日を通して、

それを遥かに超える「何か」

常に教えてくれているのだと...。

今。そして人生の価値について考えること。

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10代、20代、30代・・・

歳を重ねる度に、よく口にする言葉。

「毎日(今)が、前より何倍は速く流れる」

 

そう。振り返ってみると、「バブル崩壊リーマンショック・IT世界到来・デフレ経済」といった言葉を並べなくても、人生における世界は、その程度を連日更新しながら、生きづらい世の中になっていて、今も進行中だ。

そして、多くのマスコミ、有識者と言われる専門家らは口を揃えて「世の中の生きづらさ」を嘆く。まるで「競争の激化と目まぐるしく変化する、世の中についていかないと生きていけない」かのように・・・。

 

それで、私たちは、歳を重ねる度に自分の周りの世界を、ますます生きづらく、その生に対する競争も激しさを増していくと無意識的にいや、意識的にも考えてしまう

 

その無意識と意識を持つことが、自分の人生にもたらす影響。

私たちは、このことについて・・・真剣に考えたことがあっただろうか。

それが自分だけではなく、子どもや周りの人にも多大な影響を与えている「進行型」であることの意味について…。

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一体、何が、私たちを生きづらくしているのか。

 「目的と手段」としての人生。

 

「AI時代に生き残るための教育とは」

「成功のための子育て」

「成功を導く世界リーダーの名言」

 

私たちの意識の中に、その思想と思考に、深く根をおろしている、「資本主義思想」とそれに基づく思考。誰もが成功を叫び、「成功(目的)」への努力(手段)を、人生における「最大の価値」のように掲げる

 

そして、それは違うというと、冷たく罵倒し、その人の無能さと無力さを指摘し、民衆に勝ち負けを判断させる…。誰の言葉に説得力があるかという論理で。

 

幸せを含む人生の全てを手に入れたかのように見える、いやそう思わせる権力者」によって、私を含むそうではない「殆どの非権力者」は、思考する余裕・時間も持てないまま、それをいつの間にか人生の価値として当たり前のように受け入れては、その事実に気づかない。いや、もっと言えば、気づきたくないのかもしれない。

 

それは、資本主義において金(資本)が、時間として、時には思考そのものとして大きくその力を行使しているからであり、生きづらいけど、それでも生き延びること。

さらに、その中で「成功」することへの憧れや価値をおくことが、この世界における最大の価値と定義されているからに他ならない。

 

そうやって、「成功」は、私たち個人(の自我)に、人生における目指すべき「目標」として認識(思考)されるとたんに、最初からそうだったかのように、人生の絶対王者の如く振舞い始めるのである。

 

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人生における価値とは何か。

… 周りの世界と自分としての「自我」、そして家族などそれをまさに「全体」として見渡し、感じ、見つめながら、その中から日常に隠れた価値に気づき、喜び、分かち合い、時には悲しむなど、といった全体と一部としての感覚に基づいて自分と人生を見つめ、見出し、それをありのまま受け入れること。

 

今私たちは、ごく限られた「物質的な世界」を「全体」とみなし、そこで生き残ること、そしてそのための競争に勝ち抜き、誰よりも優位に立つ「成功」を手に入れることを、人生における最大の「価値」としてみなし、生きているのではないか。

また、そういう価値について、その本来の姿について深く考えることなく、子どもたちに押し付けているのではないか。

 

その「限られた一部としての価値」を、全体としてみなし、何よりも重んずるとき、「今」はその価値という目標を達成するための「手段」に他ならない。

それは、たとえば、大学合格のための厳しい勉強期間を、未来への「価値ある投資」として捉え、今の辛抱や努力に対する代償をその未来に向けることに似ている。そして、それを助ける者は、さらにこう言うかもしれない。

「過去は変えることはできないけど、今の努力次第で、未来は変えられるんだ」と。

 

「現実が辛い、もっと上を目指したい」人にとって、恐らくこの言葉は大きな希望となるだろう。

孤独で辛い自分の「今」に対し、自分次第ではあるが、果てしない「報い」を約束するかのような願望という欲望。

そして失敗とみなす「今」を挽回できるチャンスのようにみえるだろう。

 

その願望と欲望通りに、ある人は、それを行動をもって実現させようとするかもしれないし、一部の人はそれを実現するだろう。

勿論こういった行動やそれを助ける人が間違っているとは言わない。今の自分に満足せず、未来への希望を目標とし、さらにそれを行動に移すことは個人としては素晴らしいことであり、またそれによって得られた結果や過程から学ぶことも多いだろう。私は決してこういったものを否定・非難するつもりはない。

 

ただ、その根底にある視点や価値によって失われるもの、いや気づかないもの。そう。気づかないものについて考えてみたことがあるだろうか。その根底にある「人生の価値」を見出すことの意味について。

 

「物質的な世界」と「成功」を、

「全世界」と「最大の価値」とみなすとき、

「今」はその価値達成のための「手段」となってしまう

やがてその姿勢が、自分の人生全般に大きな負の影響を与えていることを、私たちは気づいているのだろうか。

それは今までの人生における価値が「今この瞬間」ではなく、いつか来るべき「未来の瞬間」に向けてその焦点が全て当てられていたことへの気づきでもある。

 

それは、成功ストーリーや数多くの証拠を手にし、それを都合よく集めては思考という理性(実際は非理性的な思考にも関わらず)を通して、それが妥当で、人生の目指すべき正解であると、結論(意味)づけ、それを自分に言い聞かせながら正当化していく過程そのものである。そしてその揺るぎない結論としての価値を子どもと妻、そして周りの人に押し付けるのである。

 

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ヒグラシの鳴き声や、名もなき雑草の美しさや、夕日に染まる非日常の色、蛙を追う子どものステップ、蜘蛛の巣を見つめる輝く子どもの目、腕を歩く蟻の感覚、アゲハ蝶の美しい羽ばたきに・・・その無限の価値に気づいて喜ぶこと。

 

この気づきと喜びは、「未来の瞬間」に向けた感覚からは決して得られない。「今この瞬間」を見つめることによってのみ感じられる思考ではない、つまり「感覚」である。

 

勿論その感覚は、自然からだけではなく、子供や家族のちょっとした感情の変化に気づくこと、そしてランダムに見える日常の出来事を今の価値として解釈し、そこから人生の価値を見出す姿勢にも繋がる。

 

また、「今この瞬間」は、今でありながら、常に「未来その瞬間」であり続けることに気づくとき、内面における人生の価値とは「過去」「今」「未来」のように時間という思考により区別されるのではなく、全て「今この瞬間」を如何にして生きるかによって、見出すことができることに気づき始める。

 

いつか訪れるであろう「願望の未来」への過程としての「今」ではなく、「今この瞬間」の価値を見つけ、喜ぶことで満たされる「今」として生きることは、「未来」もまた「今」と同じであることに気づく過程。

 

・・・話を元に戻し、

そう。「毎日が、前のより何倍は速く感じる」のは、「今この瞬間」ではなく「未来への悩みや不安」を歳を重ねるほど多く抱えているからかもしれない。

 

また、そういう悩みや不安としての「今の視点」は、人生における視点を狭くすると同時に素晴らしい日常の価値に気づかせてくれず、「明日」「未来」にだけ目を向かせ、更なる悩みと不安を感じさせているのかもしれない。そしてその悩みと不安は、「今の私」をありのまま受け入れることを拒む姿勢に繋がる。

私が望む、「私」は「未来の私」。「何かになりたい私」であって、それは常に「今の私」ではないからだ。

 

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・・・自分の人生の中で、一番幸せな時期はいつですか?

この質問に、多くの人(幼児期に傷を負っている人もいると思いますが)は、「幼児期」を挙げるかもしれない。

もしそうだとすれば、ワクワクする今の価値に気づき、毎日をそういう視点に基づいて生きていたからではないだろうか。

恐らく毎日(今)に溢れる価値を見つける喜びとその感覚により長く感じられていたのである。

「記憶の量≒時間の感覚」は、「感覚の量」に比例するのかもしれない・・・。

 

・・・歳を重ねながら、知識を増やしながら、そして経験と自我を確立しながら・・・私たちは「今この瞬間」にある素晴らしい価値を忘れ「欲望や願望の未来」を追いかけてきたかもしれない。また、その「目的」を達成するために、大切な「今この瞬間」を「手段」とみなし、犠牲にしてきたのではないか。

今一度「今この瞬間」だけでも・・・少し立ち止まって考えてほしい。

 

本当にその目的や目標を達成することが、

自分の人生における最大の価値なのかを。

 

競争から勝ち抜いて、人の優位に立ち、高価のマンションを買い、成功と呼ばれる誰しも羨ましがる生活を送ることが、貴方にとって本当に人生最大の価値なのか。

知識を極め、ノーベル賞を受賞し、名誉ある人生として有名になることが、人生いや、我々人類における最大の価値なのかを・・・。

 

「どうせ・・・できっこないから、どうせああいうすごい人生って、自分には不可能だから」という諦めからの正当化ではない。

 

既知の思考や知識に頼らず、人生の価値を自ら見出すことの意味。

「何かになりたい」「何かであり続けたい」その欲望により作られた私という「自我」ではなく、今の価値に気づき、共感し、喜んでいる「私(心)」が見出す「人生の価値」の意味について。 

その見出しで見えてくる「今この瞬間」の価値を、今そして「これからの今」につないで生きたい

そして、ありのままの自分を受け入れる一人の親として「人生の価値」と「それを見出すことの意味」について、子どもと共に考えていきたい。

 

 

・・・最後に、故J.クリシュナムルティ並びに、故岡本夏木氏に深い尊敬の念をお伝え致します。 

 

長い文章をお読み頂き、有難うございました。

ブログと自然体についての小考察。

久しぶりのブログ更新。

 そう…久しぶりのブログ更新である。

(強調の意味は特にない…)

 

ブログに対して、前回の内容も含めて自分自身に課したハードルが高かったのか。それともツイッターのやり取りの速度と、その速度による刺激が強かったのか。

 

まぁ、一番大きな原因は「面倒くさい…と感じている」ことだろうけど、今回の空白は「その感情を言ってはいけない」と思っている、自分に対する「違和感」を感じるきっかけになった。

 

数日前から(また)久しぶりに結膜炎にかかり、目薬が必須の生活を送ることになった。また、それを理由に今は午睡という名目(?)でツイッターを休んでいる。

 

開始するのもやめるのも勿論本人(自分)の自由だが、どうも「よーし!ブログやるぞ!」と思い切った自分(またはそう他人に告げたことを覚えている自分)に対する意識は、皮肉にも「決してその後の感情や思考まで自由にさせている」とは言えない。

 

そう。「自由意識によって始めたこと(ブログ)が、今度はそれを意識することによって、自由を制限してしまう」ということに気づいてしまったのである。

 

そういう経緯もあり…今回のこと(結膜炎を含む一連の些細な出来事)は、やっとタイトルについての説明になる「自然体」について、そして「その重要性」について考えるきっかけ、もしくは「触媒剤」になったかもしれない。

 

しぜんたい【自然体】

① 柔道で、自然なままで立った基本的な姿勢。右自然体・左自然体がある。

身構えたり、先入観をもったりしないあるがままの態度。 「今回の審議には-で臨む」

  

「自然体」について、辞書にはこのように書かれていたが、あくまで言葉の意味は「定義」ではなく「解釈」という自己流の視点からすると、

 

自分にとって「自然体」とは、

「着飾ることなく、そのときの(自分の)感情や思考などをそのまま受け入れること。さらに、それにより得られる近視眼的な視点による平穏状態」…かなと勝手に解釈してみた。

 

そこからもう少し思考を巡らせて、「心の余裕」は、この「近視眼的な視点」により生まれるのではないかなとも。(「心の余裕」については、自然体の気持ちで書きたいときに書きます)

 

「ブログを書き続けること」とその「ゴール」とは何か。

 

自己満足・副業のため・孤独の解消・満たされない承認欲求の獲得など…そのゴールはいろいろあるだろうけど、自分にとってそのゴールとは何かを考える。すると、はやり…いまだかすかなぼんやりしたイメージしかつかめない。それから、苦しみながら達成したゴールの価値をどうみるべきか。(まぁ、こういうことを考えるから自然体にならないだろうけどww)

 

最後に、以前ツイッターに投稿した内容を付け加える「ズル」を持って、久しぶりのブログを締め括りたい。

 

栄養も読み応えも…何もないブログを…有難う。

まぁ、暇つぶしの「触媒剤」でもなれたら嬉しい。

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有難う。