人生と育児、思考について思うこと

男としてのフェミニズム。育児と家のことなど思考を書いてます。

あなたの「偏見」を聴かせてください。

f:id:olewakbh:20190603004050j:image

© 2015 Warner Bros Entertainment Inc. All Rights Reserved.

*映画: her 世界でひとつの彼女より。

*好きな映画ですが、本文とは関係なさそうです;;

 

【※注意:前書き必読】

この記事は、どうしてもツイ(140字)に収める自信がなくて逃げるようにパソコンに向かっている自分を自分が見つめながら、苦笑いで書いているそんな内容の記事であって、

…と訳分からないことを言いながら、そのすっきりしないもしくは怪しい詐欺話に引っかかるかもという警戒感を抱かせながらもとにかく読ませるために、ゆるいタイトルを偽って間違って知らないうちにクリックさせる裏の意図がばれないようわざとピリオドを入力しない前書きによる「このくだらない前置きは一体いつ終わるのか」という疑問が、ただでさえ少ない読者をもなくしてしまう可能性を意識せざるを得なくなった焦りを逆手にとって他の記事にもこのような前置きがあるかもという誤解をわざと招くようなウザさを演出することで、同情でももう一回クリックしてしまったら私の勝ち。

(はぁ、はぁ、最後は呼吸混乱状態...。思考=言葉の私としては夜中のマラソンのような前置きでした;;運動は苦手なのでもう二度としません。お騒がせしました。それでもすっきりしないもやもやの方がございましたら、コメントにご意見を残してください!😆)

 

そんな前置きは、置いといて(置いとくなら最初から置くなということですが、そういう自虐孤独漫才も本当に置いといて;;;)

 

今日は「偏見」について思うことを書いてみました。

 

もし途中で眠くなったり、イラっとしたり、嫌な上司の匂いがして「胃がきりきり」してきたら、スマホの画面はそのまま(焦り;)で「吉澤佳代子」の「胃」をお聴きください。

きっと、彼女の可愛い歌声が鎮痛薬となるでしょう。

 

「吉澤佳代子」の「曲名:胃」

(患者様へ ※記事閲覧前後で1日2回服用(?)をおすすめします)

https://music.amazon.co.jp/albums/B01BCMPRH0?do=play&trackAsin=B01BCMPVVC&ref=dm_sh_1aYusrqfcRpK70sPAKLfP8G3i

 

 「偏見」という言葉があります。

その「偏見」という言葉を書く前から頭に思い浮かぶもの。

それは皮肉にも彼自身(偏見氏のこと;)の意志とは関係なく、読み手の「偏見」が最初から反映されていると感じます。

 

そうです。

最初から「偏見」を「偏見の目」でみている自分がいます。

私たちは、こうやってブログをみる(?)時もその書き手に対する偏見を頼りに、ブログを読み、理解してます。

 

書き手が専門職であればあるほど、多くの読者を持っていればいるほど、そして多くの「いいね(ここでは★ですが)」があればあるほど、読む「価値のある記事」もしくは「良い記事」だと思ってしまう偏見を持っています。

(⇦結局、自虐を拒否してしまった書き手の「読み手」への露骨な心理攻撃?)

 

しかしそれは裏返すと私たちは偏見がないと他人へ近づくことができないことかなとも感じます。

 

こんな物騒な世の中、そして同じネット時代。

何の情報もなくありのままの姿をそのまま受け入れることなんて...。

下手すると詐欺に遭ったり、クソ(?)記事に大切な時間と感情を奪われるかもしれません。

 

...その通りです。

 

私たちは物騒な現実からも、そして目に見えない、さらに物騒だと思い込むネットからも自分の身を守らないといけなくなりました。

そしてそういった日常を毎日送らないといけません。その毎日によってさらに強くなる偏見と偏見そして偏見。

 

その偏見はある意味、

自分を守る盾でもあるのかなと思ったりします。

 …。

f:id:olewakbh:20190603005109j:image

© 2015 Warner Bros Entertainment Inc. All Rights Reserved.

*映画: her 世界でひとつの彼女より。

*本文とは関係なさそうでも無い?

 

しかし、ふと気づくのです。

いつの間にか自分が…

偏見を守ろうとしながら、

「あなたを守ろうとしている」ことを、

... いや、「あなたを理解しようとしている」ことを…。

 

そしてその偏見が自分に言うのです。

「この人とは何か通じるものがある」

「この記事を書いた人の話がもっと聞きたい(願望露出?)」

「まるで私の鏡のよう...」

 

フェミニズム・男らしさ・こどもの習い事・育児について…。

 

私は、数多く(これで24記事:数えたりはしないで下さい;)の記事で「偏見」について、そしてそれがいかにいけないことなのかを熱心に語りました。

 

偏見に訴えるその記事をもう一度読み返して、やっと自分の言葉に隠れていた「偏見」に気づきます。

...

自分が訴えたかったのは、もしかしたら「偏見」に気づいていない「自分」だったのかな...って。

 

それで時には強い口調で、

時には自虐の笑いを使って、

そう...、誰よりも知っている、

「自分への撫で方」で言い聞かせていたのかな…って。

 

そして自分はまるで「偏見に囚われていない人を演じる」ことで、

「自分への気づき」を少しでも遅らせたかったのかな...って。

それは、気づく自分が怖い。またそういう自分として見られるのが怖いという「偏見」だったのも気づかないまま... … …。

 

 

★ご覧の通り、私に読者は2名(感謝しかありません)しかいません。

そして一日閲覧数も多くて20程度の貧弱なブログです。🙇‍♂️

それにもちろん私は特定分野に詳しい専門家でも、育児に長けたベテランでも何でもありません。それをどう考えるか=どんな偏見を持つかは、これを読む方の自由=自分次第です。

 

しかし、

その理由が同情であれ、検索の間違いであれ、私のブログとこの記事を読んでいる方を「閲覧数1」という数字の「偏見」でみないこと。

 

たとえ1日の閲覧数が「あなたの1」で終わっても、その価値に喜び、そして感謝への気持ちを感じる素敵な「偏見」が自分にできればなと思うそんな日です。

 

「偏見」は「自分」でもあること。

そして自分を見つめることは「あなた」を見つめることでもあること。

それに気づく不思議な夜、「あなたと自分の偏見」そしてその「距離」について考えます。

 

But with you my dear
I’m safe and we’re a million miles away

でも あなたと一緒なら
何も心配ない100万マイルかなたでも。

*映画: her 世界でひとつの彼女より。

 …。

 

最後までご覧いただき、ありがとうございました。(*^^*)

 

※あなたの大切な偏見をお聴かせ下さい。今ここでいつも待っています😇

「ブログ」と「チラシ配り」は似ている

 

「ブログは一方通行」

ツイッターは両方」

 

という偏見(?) が定着してしまい、どうしてもツイッター発信がメインになっている昨今です。

 

ツイッター

@lcpam2

https://mobile.twitter.com/lcpam2

←言い訳を利用し、間接広告をする古い手口です。

ご注意下さい。

 

 

信号待ちの横断報道で...ふと、

「チラシ配り」と「自分のブログ」 が似ていることに気づきます。

 

「都会行バス」が一日1~2本あるかどうか(バス停が古くて時刻表がよく見えない;)の田舎、しかもバス停から徒歩16分(距離感が一番難しい; )の「畑のど真ん中」で、

 

「私の話」という「チラシ」 を一人で配っています。

 

「もっと赤く刺激的な言葉を使うべきか」

「論争を招きやすい(突っ込みやすい)口調にするか」

「共感を呼ぶ言葉を慎重に入れるべきか」

「イメージしやすい、優しい(疲れない)画像をどこに入れるべきか」

「一方的な内容で、説教になっていないか」

 

思考が遅い私は、何時間、時には何日間も悩んで記事という「 チラシ」を作り上げます。

 

そして、悲壮な顔で、

パソコンからその「田舎の畑」 に向かうのです。そして到着。

 

風の音と、

ロマンチックな麦の揺れ。

ひょうひょう~動く薄金色のグラデーションと

微かにみえる鯉のぼり。

 

「あ。なぜかビールが飲みたい...」

...あ。景色に酔ってる場合ではない!

 

「あの…。よかったら、私の話を聞いてください...」

 

私の小さい声に、

遠くから腰を丸めて作業していた麦わら帽子のお爺さんがゆっくり腰をあげる。

 

「こんなところで、何しているかい?」

 

初めての声に、つい興奮した私は、

「実は、お話がありまして...。」

と挨拶も忘れチラシを見せる。

 

「愛について。子育てについて、そして私が見ている世界の理不尽さについて...」

畑のど真ん中で私は初めて会うお爺さんに、ありったけの話を並べる。

 

黙々と私のチラシをみていたお爺さんがいう。

「... 全部、どこかで聞いた話だね」

 

「いや、あの!全て私が考えた話なんです」

「全て私が思考して言葉にしたものです!」

「…それが感想ですか?」

「私、今日朝からずっとこんな田舎の畑で大変なんですよ!」

「そんな話を聞くために、ここにいるわけではありません!」

「もう畑はゴリゴリなんです。なのに」…。

 

チラシを握り締めながら、

鬱憤を吐き出す私にお爺さんは言う。

「キミ、その顔がおとうさんにそっくりだな...。」

「それでスッキリしたかい?」

 

それからお爺さんは、

「それで、おとうさんは、もう赦したかい?」

 

「いや、父じゃなく私自信です!」

「彼は赦す必要も資格もないんです!」

「私自信の問題なんです!」

 

「...。」

 

お爺さんは少し悲しい顔で言う。

「彼は何も言っていない。大変だ。忙しい...と言ったのは君じゃないか?」

 

「...。」

 

バスに乗ってパソコンに帰ってくる。

チラシを見たのは何人なのか。

 

腰を丸めてパソコンを睨むその姿を、

「娘を抱っこした麦わら帽子の自分」が

ゆっくりと眺めている。

 

...。

lcpam.hatenablog.com

 

 最後に、前回の記事「子供の習い事…」で初めてコメントを頂きました。

この記事はその思考と気づきによるものです。

akihitosuzuki様 ありがとうございます。

ありがとうございます。

 

子供の習い事と親の自己満足について

子どもとフェミニズムについて色々考える最近です。

 

今回は、子ども(=私たちの幼児期も含む)の価値観形成に莫大な影響を与える幼児期における親の接し方について、思うことを少し書いてみました。

根拠もなく、故に誤解満載の内容となります。

どうかお手柔らかに読んでいただけると嬉しいです。

 

f:id:olewakbh:20190425231405j:image

 

「いつか役に立つから」

「学んでおくとあなたのためにもなるよ」

「英語話せないとこれから生きていけない」

「すべてはあなたの未来のため」

 

聞き覚えのある言葉ではありませんか。

もしくは、正に今子どもと自分に言い聞かせている言葉かもしれません。

 

個人的な話になりますが、

私は親の勧誘(選択肢はない)で小学生の頃2年間弟とピアノレッスンに通わったことがあります。

弟はかなり器用で上達も速く、いつの間に同年代でトップレベルになりましたが、あまり指が速くなかった私は毎日先生に叱られながら(指を叩かれながら)、時には馬鹿扱いされ、それでも我慢し続けた記憶があります。

そのせいでしょうか。今もピアノを見ると、未熟な自分と痛い指の感覚、そして弟を思い出してしまうのです。

 

それから30年が経った今も時々親から

「その時、ピアノ学んどいて良かったでしょ?」と言われたりします。

 

私たちは、過去の出来事においてそれが重要であればあるほど、「自分の選択は正しかった」と確認したい(もしくはされたい)傾向があります。

 

過去の子育てで「親としての役割を果たした、その選択は正しかった」というある意味=自己満足を、正にその対象から確認したいのは自然な欲求かもしれません。

 

しかし、時には良かれと思ってやったことが当事者にはトラウマになることだってあります。

これは特にその行為と受け取る側との立場(主客)が反対の場合によく起こる気がします。

 

つまり「その行為は誰のためなのか」という問題。

 

その行為が「やりたい主体(子供)の気持ち」からではなく、「やらせたい客体(親)の気持ち」から成立していないのか。

 

これは、幼児教育全般に大きな判断基準となり得ます。

 

その習い事って

「やりたいのは自分なのか?子供なのか?」

 

このシンプルな問いを、私たち親はあまり真剣に考えていない場合が多いです。

 

行為の主体は、「目の前の子ども=足りない子ども」ではなく、親が思い描いている「未来の子ども=理想の子ども」になってはいないか。

 

「いやだ!これがやりたい!遊びたい!」

と叫ぶ子どもを、一人の人格ではなく、未来への備えもできない、精神的に未熟な「こども」として見てはいないか。

 

「子どもの成功と達成=自分の成功」

 

親は、一人の人間として1回の幼児期しか経験することができません。

 

誰もが経験するこの幼児期でのキーワードは大きく3つ。

「愛情」と「抑圧」そして「否定」

 

これらはいろんな形で幼児期の柱となり、個人の性格や価値観形成に莫大な影響をもたらします。

 

例えば、親に甘えられなかった「否定」された子どもはその「甘えたい感情」を「抑圧」する事で、「お利口さん」を演じ親に違う形で愛を受け取ろうとします。

 

「愛情」を求めるありのままの自分が「否定」される。感情の「抑圧」は、体と共に価値観として確立されて行きます。否定された悔しさと満たされない愛情。

 

「彼氏・彼女」「夫婦間」そして「子供」へと

その気持ちは年齢と社会的位置によって変化、対象を変えていきます。

 

....

 

ここまで書いてエネルギーが尽きてしまいました。最近チャージ後やたら電池消耗が激しいのはやはり年齢のせいでしょうか...

 

今日も素直になれず言い訳で逃げるおっさんです。

 

では、おしまい。

 

続き書きますので、あまり期待はしないでください。最後に、誰も気にしていないと思いますが、そこそこA氏後編、そこそこ悩んでます。

 

*参考*

子どもの精神発達についての研究「発達心理学」「遠藤利彦」の書籍や論文、そしてその他多数の本影響されまくり。

吐き気注意!「愛」について思うこと。

この内容は、ツイッターでのやり取りをきっかけに少し思考を加えたものです。読み手にとっては、納得しにくいところも多々あるかと思いますが、誤解なく(誤解されても仕方ないと思っていますが)読んでいただけると嬉しいです。

*関連イメージなどありません。途中で休みながら、ごゆっくりお読み下さい。

 

全人類に投げかけるような(?)、とてつもなく大きな問い。

 

 「愛とは何か」・・・

 

もちろん私には知識も視野も資格(?)も備わっていませんが、全人類(何十億単位)の中で1つのサンプル(これの価値は別にして;)として、「愛」について私がしてきた誤解と今も続いている思い込みについて書いてみました。

 

「ときめき」と「性欲」は「愛」なのか?

  

魅力的な異性に出会ったとき、私たちはいろんな形でときめきます。

そしてその人の言動が気になり、その人とのかかわりを増やそうとします。

 

そこで自分の感情を受け入れて(=認めて)素直にその感情に従うこと。そういう自分を大事にしながら、認めてあげることが「愛」なんでしょうか?

 

私はたった数回の恋愛を通してだけですが、2つの「愛」を見てきました。

 

自分が求む「愛」と、相手が求む「愛」

 

 全く違うこの2つは、ややこしいにも

同じ「愛」と呼ばれています。

 

もし自分が求む「愛」が、

「周りの環境の変化に屈しない強い生活力と包容力。疲れている自分を慰め、癒してくれる、なおかつ物事に前向きな母親のそのものに近い愛」だとしましょう。

 

しかし、そんな家父長制の理想ばかり求めていては、魅力的(この表現には個人差がありますが、異性として引かれる性的な魅力のこと)な異性と付き合うことは用意なことではありません。イケメンでもなく、同世代において優位に立つ要素が殆ど見当たらない私のような男性としては、ほぼ不可能に近いです。

>>>この思考自体がかなり男性的な思考であることをつい最近気づきました...。

 

…自分の「愛」を見つけられなくなると、もしくはその可能性が無限に低いと感じると、年齢と焦りと社会から求められる普通の基準(相当高いですが;)、そして最後は自分の意志(男性的な思考)によって、相手の「愛」にしがみ付きはじめます。

 (以下、男性目線です。吐き気にご注意下さい)

 

それは…女を口説くこと。

 

同男性間(ホモソーシャル)で優位に立つことができる「数の暴力(深度や深さではなく、単に経験数だけで優位に立つ構造又はそれを認め合う・・・馬鹿な行為)」をもって。

また紳士を演じることがまるで「男らしい男」の「掟=プライド」を守るかのように「愛」にしがみ付きます。

 ...

自分が求める「愛」はどこから来ているのか。

それを相手に求めている理由は何なのか。

その「愛」によって自分は本当に幸せになれるのか。

 

…「愛」に対する省察も気づきもしない(できない)まま、男は「性欲」と「愛」すら区別できず、自分の「愛」を隠し相手の「愛」を、まるで自分も求めていて、さらにその「愛」を与えることが自分の使命であるかのように演じるのです。

 

そして結婚。

 

時間が経つにつれ、互いが求む本当の「愛」が見えてきたとき。私たちは何かが違うことに気づき始めます。

 

相手から自分が求める「愛」が得られない、

もどかしさと戸惑いと不安。

 

今度こそ、自分が求める「愛」を与えてくれる相手を探そうとします。

 

しかしそもそも自分の「愛」が間違っていたことを、それが思い込みであるという大事な思考を「男のプライド=男性性」が邪魔します。

いや拒否します。

 

「男のプライド」は揺るぎないもの。

決して認めてはいけない「聖域」みたいなものだと思っているんでしょうか。

 

「俺は間違っていない!」

「悪いのは変わってしまった彼女ではないか!」

「あの可愛かった彼女はどこへ行ってしまったんだよ!」

そうです。やっと自己責任の逃げ道を見つけた男は、家事不参加と夜遊びを自己合理化することで、それをさらに行動で訴えるのです。

そしてツイッターに妻が変わってしまったと嘆くのです。

 

 

 「愛とは何か」・・・

答えは私の思考と共に、もしくは年齢と共に変わるかもしれませんが、 

今の私の答えは、「求め合う「愛」すべて」

 

「愛」について悩むことが大事だな…と思う最近です。

 

おしまい。

 

ツイッターでもお待ちしてますw

@lcpam2

https://mobile.twitter.com/lcpam2

コンビニと育児は似ている。

f:id:olewakbh:20190416142739j:image

*四月のジューンベリー

 

...

 

「結局、また悪いのは私ね」

...

 

7時帰りの旦那は、子供に怒るなと言いながら、私に怒る。

... 

 

子供教育とか週末予定とか株利益とかも

いいんだけど。

... 

 

少し休ませて。

少しだけでいいから一人にさせて。

 

それから、

考えてみるから...。

 

 

☆☆☆

日々の育児で夫婦はスタッフ化する。

 

楽しかった日常のルーティンは、その対象が子供になる途端モンスター化する。

 

最大増員2名のスタッフは、互いのシフトを確認しながら必死にルーティンをこなす。

 

しかしこのシフトには最大の弱点がある。

それは、有給がないこと。

いや休暇そのものがないことだ。

 

... 

それが何を意味するのか。

親にならないと分からないのだ。

いや分かる必要がなかったが正しい。

 

あと少しで10連休のゴールデンウィーク

保育園も10連休...。

 

100年に一度の大型連休が、

100年に1度の子育てに重なる。

それを2名いや...時々1名のスタッフで乗り越えないといけない。

 

現実を愚痴っても何一つ変わることはないけれど、こうやって書いてみることで何か新しい思考が出てくるかもしれないというまたもや虚しい期待。

 

「なら産まなきゃいいのに」

「周りに助けてもらえばいいのに」

「結局悪いのは夫婦じゃん」

 

小学校止まりの思考に言ってあげたい。

 

親として愚痴る自己防衛ではなく、

本気で思っている言葉。

 

産んでよかった。でも大変だと。

この二つは常に同時でありながら、

因果関係ではないことを。

 

....

 

「ほら、結局悪いのはあなた達じゃん」

 

...

もしあなたの親があなたを産んで大変だったと口をこぼしたら、あなたは同じことが言えるだろうか。

 

「私、産まなきゃよかったじゃん」って言えるだろうか。

 

...

 

誰も悪くない。

そして誰も悪い人になる必要はない。

 

...

 

悪役なんてない。

それが辛い理由だなんて

今更気づく。

 

...