お元気ですか。
前回のメールを読み返していたら、それからだいぶ時間が経っていることに気づきました。そしてまたその気づきもだいぶ久しぶりであることに気づきます。
それは、身の回り、いや思考のまわりに飛びつく情報のせいなのか、せかせかとルーティンな毎日を過ごすだけの自分のせいなのか... それともそれはただ...仕方のないことなのか...またこうやって思考は気づきを測定し始め、「ただ観察すること」ではなく、観察されるものと観察するもの(つまり、思考そのもの)との隔たりを埋めることに、その永遠に叶わない動きに、必死であるように見えます。
朝早く、起きたばかりの末っ子が私のところに向かってトコトコ歩いている足音、足元で一生懸命にベッドを登ろうとする背中を眺めていると、あれほど探し求め、崇められている幸福という言葉が、それに対する思考の動きが...いかに無意味で偏狭で虚しいか、言葉と言葉そのものである思考の限界を感じます。
平穏で静かで、常に変化し、率直な子供の顔がじっくり眺められる今こそ、生(喜び)であり、決して二度と訪れることのない幸せでもあります。そして突然それは何の予告も何の未練も残さず、終わり(死)をつけるのです。
強い条件づけ(過去)から反応する感情が、自分をかき乱すたびに、私は思考そのものになります。それから、それらが落ち着き、思考が過去の自分を眺めるときもまた然りです。
観察者のない観察、それが意味することは条件づけへの深い、いや深いという表現は間違っていますが...条件づけへの瞬き気づきではありますが、湧き上がる感情に、私はつい身を任せてしまいます。私は感情そのものになり、怒り、悲しみ、時には虚しい気持ちに包まれますが、それもまたそう遠くないうちに消え去り、過去という条件付けに折りたたまれてしまうのです。そしてそれを私は人生だと名付けて眺めてしまいます。
思いっきり生きることは、目の前に広がる今を思いっきり生きることは、決して容易いことではありません。それはまるで予備や準備なく訪れる残酷な出来事や敵意、または事件事故に裸で向き合うような無謀な行為のようにも見えます。しかしそういう認識こそ、今の社会から学んだ条件付けの一部であるのに、私は決してそれに気づくことなく、その気づきによる即座の行為に移ったりもしません。そこに、思考が自らを苦しめる無知の悲しみがあるように感じます。
最近体調を崩すことがありました。今は定期的にクリニックに通い、だいぶ元気になりましたが、少しのホルモン変化が思考に多大な影響をもたらすことに気づく事ができました。苛立ちや落ち込みが自分を襲うたびに、それによる行動が自分のエゴと離れていればいるほど、苦しみは倍増し、さらなる苛立ちや落ち込みを招くメカニズムがそこにありました。いかにこの脳が鋭敏で繊細なのか、またそれにいかに思考が関わっているのかについて気づく出来事でした。
余計な話ですみません。
お元気ですか。と尋ねたくて書いたつもりでしたが、またもや長くなり、申し訳ございません。では、どうかお元気で。
友人より