韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について日常から気づくことを書き残しています。思考の軸は、インドの哲人クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)。5年目ブロガー。21年冬Amazonペーパーバック出版。これからもぼちぼち続けていきたいと思います。コメントや批評全てご自由に。

友人への手紙

f:id:olewakbh:20231201082307j:image

5か月の末っ子とそれほど歳が離れていない男の子が、隣でベビーカーに乗ってせんべいをかじりながら私を見つめています。

「気になるの?」と声をかけると、目を背けることなく、恥ずかしがることもなく、私の目を直視する、すさまじいエネルギーを感じます。

何でも眺め、何でも掴み、何でもかむ。そしてきつくなると抱っこして!と手を広げる仕草に抱っこひもであやすおかあさん...当たり前のような風景ですが...愛おしい。かけがえのない風景でもあります。

そのように感じるのは、同じ年頃の娘の存在と、テーブルを挟んで互いにスマホを眺める無言の人々に、そういう日常に、あまりにも慣れてしまったせいかもしれませんが...

f:id:olewakbh:20231201082441j:image

今年の秋は、迷いが多い時期でした。そしてそれは今も進行中のようです。自分は何がやりたいんだろう。足りないのは覚悟なのか、時間なのか、それともじっくり自分を見つめる余裕なのか…3人の子供の親なのに悩みは膨らむばかりです。笑。

それから、偶然流れた末期がん患者とその家族のドキュメンタリーをみて、死について考えています。

f:id:olewakbh:20231201082323j:image

嗚咽、感嘆、悲しみ、いろんな涙と涙。死は不思議なものです。

経験できないもの、乗り越えることのできない絶対的な終わり、覚悟も時間も何もかも意味を成さないもの...それを美化することも、その反対のことも何もかもできません。ただそこに...あの得体のしれない恐怖から逃げ出すために目を背け、もがく思考があり、そして思考そのものである、私がいます。

クリシュナムルティは日常への死こそ、毎日死ぬことこそ生であると言いましたが、毎日への、穏やかな日常への執着から、それらがまだまだ続くと思う平凡な安心感から、生の喜びを...生きる実感や意味を見つけようとする私のような人に、死とは...まさに巨大な悲しみでしかないということを感じる一日です。

f:id:olewakbh:20231201082353j:image

いつか... そうね~いつかやろうね。

自分に、子供に、妻に投げかける言葉のように、自分の死もまた同じくいつかの死として片付けて生きていますと、ますますそういう自分に対して死ぬことは、はるか遠い未来の出来事のように感じてしまい、クリシュナムルティの言葉は単なる言葉にとどまってしまうのです。

自分の趣味や思想に合う何かに、誰かに出会うたびに、歓喜とともに湧き上がる喜びやエネルギー(たとえそれが違う意味のエネルギーだとしても)、そしてその背景にある自分の過去や条件づけに気づくたびに、また思い浮かぶクリシュナムルティの言葉。

だからこそ...その全てに素直に喜べないジレンマにまた気づく日々。条件づけからの自由、それこそ死そのものなのに、決してそれを欲しない、私がいます。

f:id:olewakbh:20231201082545j:image

思い出が増えれば増えるほど、分かち合いたい家族が増えれば増えるほど、生は毎回微妙に異なる執着を感じ取ることで生まれるエネルギーをもって人を動かしているようにも見えます。まるで生への執着こそ、生きている感覚だと言うかのように。

何十年もの歳月を経て幾千の思い出や過去を眺める、死との距離が物理的に近くなる、そういう年齢になれば...自分は死をどのように眺めるでしょうか、年齢という尺度を拒む思考が...それをどうながめるでしょうか...。

執着があるところには必ず葛藤や矛盾があるでしょうけれども...それらがいけない、死とはそれらへの執着から自由な何かであり、それこそ生であるという...まさにその言葉への執着もまた気付きにくい葛藤と悲しみでもあります。

夜空がとてつもなく広大で圧倒的な存在感を放つ夜です。遠く、黄緑色で光る家の中に、私の執着が愛情が、その全てがあります。

余計な話、失礼しました。お休みなさい。

 

lcpam.hatenablog.com

 

lcpam.hatenablog.com