韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について、クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)の言葉から気づく日常を書き残しています。コメントや批評全てご自由に。

命とヴィーガン

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端に咲いた花。
きれいに植えられた並木。
小さい鉢の中のサボテン…。

植物は、そこがどこであれ、その居場所にこだわることなく、常に自分に与えられた環境をありのまま受け入れ、そして自分ができる全てのエネルギーを持って、生きていた。

また、あらゆる動物たちも、狭く汚い畜舎、効率優先の人工的なケージや機械的な工場…人間によって作られたあらゆる場所で、もしそこから一歩も出ることなく一生を終えることになるとしても...それを受け入れ、そこで育ち、子供を産み、子育てをしながら、懸命に生きていた。

「プレミアム・上等・セール・特別価格…」

人間が自分をどう評価しようが…、彼らは自分に与えられたあらゆるものをありのまま受け入れ、生と向き合っていた。そしてそこには、常にとてつもない生への懸命さとエネルギーがあった。

しかし人は、自分の居場所やあらゆる条件を、ありのまま受け入れることなく、それを絶え間なく何かと比較し、常に「より良い」ものへと動いていた。そして「より良い」ものへの「努力」、その努力がある限り… 現実(ありのまま)と理想(より良いもの)との葛藤がある限り、苦しみや悲しみが絶えることはなかった。

 

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べられるために生まれる命。

雛から孵化するや否や、眩しい蛍光灯に照らされ、そのか弱い目を開けるや否や、一度も陽光を感じることなく、性別で無惨に殺される命。


親や自然から生きる術を学ぶことなく、生まれるや否や親と引き離され、狭いケージに閉じ込められ、果てしなく遠くへと移動する命。

そして死なない限り、決して自由になれない命。

無数の命が、一生、日差しをみることなく、陽光の温かさそして生きる喜びを感じることなく、飼育され、病気になり、物のように捨てられ、死んでいく。

生まれて何ヶ月後。

その命の多くが切断され、防腐処理され、笑顔の商品パッケージの中で、何日もお客さんを待っていた。そして賞味期限が近付くと、無表情と共に半額のシールが貼られていく。


その命、その生は、

そこで終わったのだ。

 

誰かの口の中で、

もしくはどこかのゴミ箱の中で…。


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らは言った。
肉は人間にとって欠かせない、重要な栄養源であると。

そして都合の良いデータを持ち込み、人間にとってそれがいかに栄養的に大事であるか、またそれがいかに綺麗に管理されているかを、ありとあらゆる権威を借りて、力説していた...。まるで宗教のあれのように。

しかし、彼らにとって大事なのは、その正当性とデータの信頼性、そして彼らが抱える膨大なシステムであって、

決してその根源にある「命とは何か」「全ての自然にとって大事なのは何か」という問いではなかった。

また、彼らは肉を食べないことの危険性、栄養の偏りが招くリスクを並べることにも熱心だったが、決して「家畜」という一方的な観点を捨て、この繰り返される悲しみから「肉を食べることが、人間にとって本当に必要か」「繰り返される無数の殺傷と暴力が、本当に必要か」を真剣に問おうとしなかった。

「フレキシタリアン」
「ペスカタリアン」
「ベジタリアン」
「ヴィーガン」

多くの人がその単語が持つイメージ、それを語ることや実践することで得られる感情や感傷に浸り、流行のそれのように、関心を向け始めていた。

繰り返し流れる残酷な映像。
冷たいケージの中で涙を流す動物の目。
何度も蹴られ、起き上がれない仔牛…。

まるで人間のそれのように、人はその暴力や涙の意味を解釈し、感情を移入させ、その反動として怒りや憐憫を覚えていた。

そしてその怒りと憐憫は、何か新しい話題として、話のネタとして、気高い自己アピールの手段として、簡単にそして無意味にシェアされていた。

しかし命とは何か」「この美しい地球で共存する共同体とは何か」「いかに人間が自分中心的に生きているのか」「いかに人がそれを正当化したがるか」について自ら問い、見つめ、見出そうとする人は見えなかった。

 

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に目的があるだろうか?

家族のおかずになるために、友人との楽しいひと時のために...今もどこかで、特定の目的のために、命が奪われる。

家畜だから。
人間が生きるため。
生計のため。

手段を選ばず、暴力を繰り返し、それを一定の目的で正当化することの危険性に、目を向ける人はどれぐらいいるだろうか。

「平和」という目的を掲げ、それを実現するために行われるあらゆる暴力…。それによって導かれた状態が、はたして平和と言えるだろうか?

手段と目的は決して別個ではなく、手段が目的そのものではないだろうか。核兵器が暴力や恐怖をもたらすことはあっても、決して平和をもたらすことはないように…。


段の危険性に気づくこと。
目的への絶え間ない問いかけではなく、その達成だけを優先し、効率や金儲けだけを盲目的に追いかけることの危険性に気づく時、命とは、それらと私たちとの関係とは、その気づきの中にあるのではないだろうか。

その気づき、その関係からではなく、特定の主義(観念)から生まれた行動に、はたして何の意味があるだろうか?

 

気づきや自らの見出しからではなく、オーガニックやヴィーガンの著名人もしくはベストセラーの中にある刺激的な言葉や権威に感化され、その反動として権威や観念を受け入れること、

「フレキシタリアン」「ペスカタリアン」「ベジタリアン」…それでその観念の中で、好みの言葉を選び、自分をその中に閉じ込めることに、何の意味があるというのだろうか…。

 

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青々と広がる草原。

どこから来たか分からない、

その気持ちいい風には

微かなコスモスの香りが漂っていた。

 

あの無限に広がる雑草と

木々の黄緑の波の真ん中で、

空に指を突き上げ、

私は静かに何かを待っていた。

 

長いけど、少しもそう感じない

時間が通り過ぎ、

黄赤色の尻尾をしたトンボが、

指の上にとまった。

 

そのトンボは決して図鑑や

写真では分からない、

宝石のようなきれいな目で

私を見つめていた。

決して少しも警戒を緩めずに…。

 

細い脚の感覚が、

指から全身に伝わってくる。

 

それはトンボの脚であり、

あの風であり、

そして目の前に広がる自然

その全てであった。

 

そこには、決して教科書や

大人からは学ぶことのできない

何かがあった。

 

その時、私は決して…

「命とは何か」

「全ての自然にとって大事なのは何か」

を問わなかった。

 

それは… ただそこに…

私の目の前に... そして私の中にあった。

 

 lcpam.hatenablog.com

 

後記

「ヴィーガンですか?」
「お肉は食べないですか?」

よく聞かれる言葉です。
が、ヴィーガンでもなんでもありません。

 

しかし、どう説明したらいいか?
果てしない思考の末に

「... ええ。お肉は基本食べません」
と答えたりします。

 

説明ではないですが、
命とヴィーガンについて
少し長めの説教をw書いてみました。