韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について日常から気づくことを書き残しています。思考の軸は、インドの哲人クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)。5年目ブロガー。21年冬Amazonペーパーバック出版。これからもぼちぼち続けていきたいと思います。コメントや批評全てご自由に。

「おっさん」と「宇宙の真理」

事実の前にちいさな子どものようにしゃがみこみ、今まで学んできたあらゆる概念を全て捨て去ってもいいという気持ちになることだ。

どこであろうと、どんな深淵であろうと、自然に導かれるままにあとをついていく。

さもなければ、何も学ぶことはできないだろう。

<T・H・ハクスリー>

 

:無駄な前書き

先ず、この余りにも怪しいタイトルをクリックして下さった方に、その熱情若しくは判断ミスに、心からお礼を申しあげたい。

 

タイトルを書いた瞬間から、この話も、恐らく…いや、きっと「シリーズもの」になるだろうなと不安がよぎったが、一先ずいつものように一歩一歩...適当に踏み出してみようと思う。(笑

 

ちなみに、私は物理学専攻者でも宇宙に関する凝った知識も持っていないし、もちろんそれらを超える神秘的な何かは一度も経験していない。(当たり前だがw

そして、これからいかなる怪しい団体、怪しい宗教の勧誘をするつもりは全くないので、ご安心ください(余計に怪しいw)

 

… 大体このあたりで、画面の真下に向けて光のようなスピードでスクロールされ、ページが変わるはずだがw

 

…ここ最近、無駄な前書きがどんどん長くなっているので、今回はこれぐらいで…。(笑

 

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*一応、蟻が映っています。

 

宇宙の真理とは。

 突然だが、一つ想像をしてみよう。

今、貴方の目の前に「蟻(あり)の群れがいる」。

その群れは新しい建築物(マンションや高層ビルなど何でも)を住処にしながら、仲間と協力し本能に従って暮らしている。

 

そう。その蟻にとって建築物は、人間の地球(さらには宇宙)のようなもので、無くてはならないものである。水や食べ物そして住居全てがその中にあり、生まれて死ぬまで、そして前の世代から次の世代へとその生を永遠に続けさせてくれる絶対的な存在である。

 

例えば、蟻に人間のような思考能力があるとしよう。

では、蟻は「建築物が建てられた理由」について理解することができるだろうか。

...。

 

言い換えれば、蟻は自分より高次(測定不可能な領域にあるもの)のものを理解することができるだろうか。「できない」「できる」などと、答えをすぐ口に出さないでじっくり考えてみてほしい。

 

この問いを調べるために、蟻は建築物の中を隈なくを歩き回り、コンクリートの色や壁の凹み、排水溝や木のドア等々を確認するかもしれない。また、特定の部屋が特定の目的だけで使われていることに気付いたり、効率よく食料が確保できる場所や防虫剤のない安全な空間を見つけ出すかもしれない。 

しかし、こういった表面的で断片的な観察が、はたして「建築物が建てられた理由」の究明にどれほど有効であるだろうか。そして、それらから集められた情報によって考えられた一定の公式が、その答えを見つけるヒントになり得るだろうか…。

 

そう。蟻と同じく、人間の持つ認識という次元に限られている私たち人類が、果たして無限の宇宙とその真理について正しく理解することができるだろうか。

 

仮に一部分であるが「それ」を理解したとしよう。しかし、それがいかに画期的で素晴らしい発見だとしても、その理解はしょせん思考の範囲内で留まるのではないか。

 ...。

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人類と科学の進歩

言うまでもなく現在の人類は、眩しい科学発展を遂げてきた。目に見えない電波は膨大なデータを秒速で運んでいて、我々は日常において常に場所や時間を越えた文明の利器による特典を受けている。そして、それと同時に科学は「宇宙の真理」の究明にも絶えずに挑戦し続けてきた。

 

ガリレオの地動説からニュートンの万有引力、そして相対性理論と量子力学に至るまで、科学はまるで科学技術さえあれば「宇宙の真理」に近づくことが出来るかのように…様々な理論を作り出し、細分化し、また数字によって公式化させ、さらにそれを深く掘り下げてきたと言える。

 

そう。科学はその「科学」という特有の振動をもって、常に人類の「絶対的な基準」として振る舞い、その権威をもって観察しては証拠を集めてそれに適合する理論を作り出す。そしてまたその結果を観察し、それを時代によって変動する科学基準をもって評価し、さらにそれを検証していくという「終わりのない過程を繰り返している

 

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*ちなみに、日本です。

 

では、真理は科学だけの世界で、

このおっさんの人生とは無縁のものだろうか。

特定の国で生まれ、ゆえに特定の教育を受け、親とあらゆる環境に条件づけられながら成長してきた、ごく一般人としてのおっさんが、自然と子どもが好きで数学が苦手な...毎日一定時間になると電車でオフィスに運ばれて、パソコンと電話に向かって怒っている普通のおっさんが「宇宙の真理」について知ることは可能なのか。

 

このおっさんは、いかにして「宇宙の真理」を知ることができるだろうか。

それは、科学者が何十年いや、それ以上の時間をかけて検証し理論を公式化した発見とそのエキスを、満員電車の中で小さいスマホ画面をとおして「読む」ことによって?

 

「宇宙はビックバンから生まれた」

「果てしなく膨張を続けている」

「意識のフォログラフィである」

「無と有の同時進行でありながら、どちらでもない状態だ」

「時間は存在せず、観察のみが存在する世界である」等々 

我々はいつまでこのような断片的な観察と理論を追いかけないといけないだろうか。

 

蟻に話を戻そう。建築物の中にある部屋やどこかの金具について調べること。果たしてそれが「建築主」の設計意図を把握するのにどれほど有効であるだろう。

故アインシュタイン・故ホーキング博士・ロジャー・ペンローズ…「宇宙の真理」への究明は、どうしてこれほどごく限られた科学者に依存しているだろうか。人類は、一体いつから「宇宙の真理」を科学者だけの仕事に任してきたのだろうか。

 

そこで、科学者は「科学は、宇宙・あらゆる全てを数字で解明できることだ」と言う。しかし、次元の限界を超えることのできない人間の思考と、それによって発明された数字と言語が、果たして「宇宙の真理」を解明し、またそれを我々に「ありのまま」表す手段になり得るだろうか。

 

私は、有名科学者・いかなる科学知識に頼らずに「宇宙の真理」を見出すことができるだろうか。

 

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人を理解することの難しさ。

Aという人がいる。一週間前の彼女は体調が悪かったのか、一日中険しい表情をしていた。しかし、昨日は元気でいつもよりも活発に動いていて明るい態度を見せたが、今日は機嫌が悪く、時々うつ伏せになったりしている。

もし誰かが彼女を理解しようとするとき、断片的な反応や結果だけを観察し、その原因になり得ることを並べて公式化することが、果たして彼女について理解したと言えるのだろうか。数え切れない観察と結果によって彼女の過去や未来を予想することが、はたして彼女を理解するのに役に立つだろうか。

 

ある対象を理解すること。それは、理論や公式などいかなる偏見も持たずに、常に変化する対象を「ありのまま」見つめることではないだろうか。

 

理論は観測結果から推測される主観的な規則性そしてその理論による未来の予想には役に立つかもしれない。が、「ありのまま」は過去や予想としてのものとは異質のもののように思われる。

 

なお、公式や数字…数多くのデータが今と明日を正確に捉えることができるだろうか。それは、統計や観測結果による単なる推測に過ぎず、それゆえその推測はいつまでも過去の知識に基づいているだけであり、今目の前で絶えず変化し続ける宇宙・貴方・建築物などあらゆるものへの理解を可能にするだろうか。

 

つまり、「ある」は「知る」ことではなく、「ある」への気づきや知覚(自覚)は、決して「知る」「分かる」「理解する」ことで得られるものではない。

 ...。(大変だ。スケールが、、、