韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について、クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)の言葉から気づく日常を書き残しています。コメントや批評全てご自由に。

親にとって写真とは。

どうして子どもは、

生き生きとした生命力に満ちているのか。

 

昆虫を観察したり、夢中になって歌ったり踊ったり、ひたすら謎の文字を書いたり...毎瞬間その輝く瞳であらゆるものを見つめ、そこから必ず楽しみやワクワクを見つけ出す。子どもは「今を生きている」がゆえに、生き生きとした生命力に満ちています。

 

それに比べて、私たちはどうでしょう。

進学・良い大学・正社員・競争や比較により形作られた教育、またこの社会が生み出したあらゆる偏見と条件づけ、そして人を適応者・不適応者など絶え間なく分離する価値観の押し付け。それらによって私たち大人は、いつの間にか「輝く生命力」を失ってきた気がします。

その生命力は、昨日友達とした喧嘩・親のしつけ・正しい生活習慣という押し付け…あらゆる「過去への執着」から自由になること、年金や口座の残高・明日の仕事・人間関係における葛藤・健康への心配などあらゆる「未来への不安」から自由になることで初めて現れるのではないでしょうか。

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「あるがまま」は「自由そのもの」

過去でも、未来でもない。まさに「今を生きる」ことで得られる「自由」。なお、「今」のあらゆるものに気づくその敏感な「感受性」

それこそ私たち大人・親が失ってきた「あるがまま」の姿であり、大切な「自由そのもの」でもあるのではないでしょうか。

 

そして、それを見ている「私」「親としての私」が、その「あるがまま」を残したいと願うのはある意味ごく自然なことかもしれません。

 

「データとして残したい」

「アルバムにしてゆっくり楽しみたい」

「思い出を残す有るまじき親でありたい」

…と願う気持ち。

 

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それは子どもの姿に愛情を感じる親なら、ごく自然に感じることなのかもしれません。

 

しかしながら、はたして「この瞬間でしか存在しない」その輝きと感受性をカメラで捉えることができるのか。刻々常に変化し続ける「今」を、写真で残すことができるのか。恐らく、その答えは、永遠に「ノー」ではないでしょうか。

 

シャッターが切られ、データとして記録された瞬間。その中にあるのは「あるがまま」の「今」ではなく、0と1のデータや細かい画像ピクセルによって再現された「過去」としての記録だけではないでしょうか。

 

そう。それ自体が既に過去であることに気づくこと。「言葉はそれを表すそのものではない」ように、写真もまた「今を生きる子どもそのもの」ではないことに気づくこと。

当たり前だと分かっていることですが、その意味について本当に理解し、気付くことは思ったよりもはるかに難しいように感じます。

 

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「写真を撮るか」OR

「あるがままを見つめるか」

カメラを取り出し、ファインダー越しに目を向ける瞬間。私は何を見ているのでしょうか。

 

「あるがままの子ども」を見ているでしょうか。それとも「おしゃれな構図」「きれいな写真」「感動の瞬間」のための被写体として子どもを見ているでしょうか。

 

そう。構図やおしゃれ、綺麗さもしくはその後のことを気にする「私」は、果たして子どもの「あるがまま」の姿を見ることができるでしょうか。

 

「あるがままを見ること」と「あるがままを残すこと」。前者は常に「今」であり、後者は「過去」であるがゆえに、決して二つは同時に存在できません。

 

…では、「私」はどちらを優先すべきでしょうか。

 

最新機種・高度なテクニック・色鮮やかなフィルターや後処理技術。勿論カメラにある程度の性能は必要です。常に動き回る子どもを正確に撮ることはなかなか難しく、撮りたい瞬間を的確にレンズに収めることは至難の業です。だから、オートフォーカス機能・速いシャッター速度は頼りになる技術です。

 

しかし、それらを超えるもの、過度なボケやフィルター機能、プロ写真家やマニアの言う構図ノウハウ・あらゆるスキルが重要視されるとき。

カメラは「あるがまま」を「あるべきもの」へと「分離」する手段になってしまうのではないでしょうか。

 

「あるがまま」の子どもに、ありきったポーズや人為的な演出を強制するとき。インスタやSNS投稿を意識した構図を撮るためにカメラを向けるとき。子どもの声がけにも、まるでその場にいない第三者としてシャッターを切るとき。

…そこに「あるがまま」はあるのでしょうか?

そこにある「あるがまま」を、私は見ることができるでしょうか。

 

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… 親にとって写真とは何か。

「あるがまま」を残すためにはどうしたらいいのか。

ファインダーを覗くとき、私は何を考え、何を捨てればいいだろうか。

写真に求めるのは「テクニック」か「感受性」か。

インスタ栄え・各種写真コンテスト入賞…そのおしゃれで素晴らしい写真に「あるがまま」が欠いているなら、何の意味があるだろうか。

 

「あるがまま」の意味と価値、「手段」としての「カメラ」を見つめること。考えすぎかもしれないけど、そしておそらく答えはないだろうけど、親にとって写真とは…。

もしかしたら「あるがまま」を残したい「自己満足の手段」である同時に、子どもの成長・親自身の成長に合わせて日々変化するその意味を、まさに「変化のまま」受け入れていくことかもしれない。

 

・・・ふーむ。やっぱり考えすぎねw

 

おわり。

 

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