輝く朝日を一度も見ることなく、
スマホに目を囚われ電車に乗って
会社に運ばれる人たち。
ぎゅうぎゅう詰めの満員電車で、
華やかに笑ってる広告を背景に、
無表情で疲れている人たち。
ゲームをする人、
本を読む人、
LINEを送る人、
大きな鞄を背負った制服の人、
子連れの母親...。
果たしてその中に
喜んで電車に乗っている人、
喜んで自分の目的地に向かう人は、
どれぐらいいるんだろう。
子供の泣き声にも、
妊婦のマタニティーマークにも、
明らかに足が不自由な年配の人にも
群衆に隠れ、又は気付かない人たち。
仕事への不安、
人間関係に対する不満、
昨日の言葉と無数の傷、
数え切れないイメージに囚われ、
自分しか見ることができずにいる、
日々の日常に気づかない人。
電車が揺れるたびに、
どこかのすみませんという声と
険しい表情が醸し出す空気が、
この果てしなく長い電車の中に
無表情と共に充満している。
そして今日も誰一人、笑う人はいない。
時折窓から注ぎ込まれる朝日の眩しさも、
いつもの景色というマンネリ化に過ぎず、
慎重にブラインドを下ろす人。
鞄の大きさに過剰に反応する隣の人と、
収縮した筋肉をさらに収縮させる仕草。
無意味にエスカレートを歩いて登っては、
また波のように周りと同じ歩幅で改札口を通過する人たち。
朝日に喜ぶ鮮やかな並木を見つめる余裕も、
ベンチに腰を下ろして少し本を読む余裕も、
自分の人生について少し考える余裕も与えられないまま、
私はただ時計の針が九時に近づかないように、
それに合わせて歩幅を変えていく。
会社玄関のエレベーターで、
そのほんの数秒間、
「私は彼(人たち)であり、彼は私であること」への気づきと「自由」について考えている間に、
…。ドアが開き、人工の朝日と共に、また一日が終わる。
「自由とは、今不自由さを感じている(不愉快など)ことに対する反動によるものでも、自由になりたい、あれを達成するためには自由でないといけない等々で思われる自由ではありません」
「自由であるには、内的な全ての依存に対して反逆しなくてはなりません。そして、なぜ依存するのかを理解しなければ、反逆はできないでしょう。内的な依存の全てを理解して、本当に離れてしまうまで、決して自由にはなれません。なぜなら、その理解の中にだけ自由はありうるからです。しかし、自由は単なる反動ではありません。
反動とは何か、知っていますか。もし私が君を傷つけるようなことを言ったり、悪口を言うなら、君は私に対して怒るでしょう。それが反動で、依存から生まれた反動です。自立はさらに進んだ反動です。しかし、自由は反動ではありません。反動を理解して、それを超えるまで、決して自由ではないのです。」 <j.クリシュナムルティ>