韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について、クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)の言葉から気づく日常を書き残しています。コメントや批評全てご自由に。

【抜粋】主体的に見ること。

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エーリッヒ・フロム | 聴くということ

(中略)

今日では、ほとんどの人々がそのような能力を失っています。人々は、ただ物事をいわゆるリアリスティックにしか見ることができません。

これは第一の意味の現実判断能力です。つまり、彼らは世界をよく知っているのですが、それは世界が操作可能であるかぎり、という条件つきなのです。

しかし、彼らは自然のなかのものであろうと、人間であろうと、それをきちんと主体的に見ることができません。

他に何の目的も持たずに、ただ見えたもの、聞こえたもの、動いているものを体験するということができないのです。

したがって、次のように言うこともできるでしょう。

外界の現実を見ることができないのを病んでいると言うなら、それと同様に、主体的に見ることができないのも病んでいると言える、と。

でも、私たちがある人を精神病だとか病気だとか言うのは、決まって外的現実を判断できないときだけなのです。

もしある人が主体的にものを見る能力を持っていないとしても、私たちはその人が病気だとは言いません。しかし、第一の能力がない場合と同様に、病気なのです。

その理由は簡単です。
私だちが病気と呼ぶのは、それが社会的機能を妨害するときだけなのです。病気という概念は、本質的に社会的なものです。

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ある人が精神遅滞だとします。情緒的な面、芸術的な面での精神遅延であり、物事を何一つ理解しようとしません。何も見ることができないのですが、お金の実用的な価値だけは理解しているとします。

すると、こういう人は、現代ではとても賢い人物だということになります。最も成功する人でしょう。

働いているときにかわいい女の子が近づいてきたとしても、チャーリー・チャップリンのように、それに気をとられて、止まらぬベルトの上で機械を放置してしまうなんてことはないでしょう。

何も感じないならば、主体的経験をまったく持たないならば、この社会には最もふさわしい人です。この社会で重視されるのはすべて、実行すること、実利的に実行することだからです。しかし、まさにその理由によって、より健康になるということはありません。

いわゆる、精神病の人といわゆるリアリスティックな人のどちらがより病気なのか、という問いは、未決のままです。

思うに、多くの統合失調症者は、オフィスの内外で無用な商品を売ろうとするより、統合失調症になるほうが幸せなのです。

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このことに関してよい例を挙げましょう。

それは、とても成功しているけれど、妻に完全に支配された男性の話です。

皆さんよくご存じのタイプ、典型的なアングロ・サクソン系の、小柄でかわいらしい女性です。とても控えめで、とてもやせていて、騒がしくしゃべることはほとんどなく、ごくごく目立たない感じの女性でした。

彼女はこの家族を独歳者のように支配しましたが、この罪のない、いわば無害で、ときどき甘く、ときどき甘くなく、しかし実際にはやりすぎの感があるほど謙慮で引っ込み思案な振る舞いによって、その独栽者ぶりを隠したのでした。

その男性は、晩年になり、入院を余儀なくされました。医者たちは、とても賢明なことに、妻が訪ねることを禁じ、息子に訪ねさせました。男性は息子に言いました。

「人生のなかではじめて幸せを感じているよ」と。

うつ病患者として入院していることを考えると逆説的な話ですが、完全に真実なのです。

彼の人生のなかではじめて、彼は自分が自由人だと感じていました。つまり、抑うつになるもならないも、それは彼の自由なのです。この状態が、彼が自由になるための最善の環境だったのです。

退院して回復してしまえば、バタンとドアが閉められます。彼は再び囚われ人となり、もはやその状況に耐えられないでしょう。

- 主体的な現実認識能力を失った現代人 -

 

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