韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について日常から気づくことを書き残しています。思考の軸は、インドの哲人クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)。5年目ブロガー。21年冬Amazonペーパーバック出版。これからもぼちぼち続けていきたいと思います。コメントや批評全てご自由に。

今。そして人生の価値について考えること。

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10代、20代、30代・・・

歳を重ねる度に、よく口にする言葉。

「毎日(今)が、前より何倍は速く流れる」

 

そう。振り返ってみると、「バブル崩壊・リーマンショック・IT世界到来・デフレ経済」といった言葉を並べなくても、人生における世界は、その程度を連日更新しながら、生きづらい世の中になっていて、今も進行中だ。

そして、多くのマスコミ、有識者と言われる専門家らは口を揃えて「世の中の生きづらさ」を嘆く。まるで「競争の激化と目まぐるしく変化する、世の中についていかないと生きていけない」かのように・・・。

 

それで、私たちは、歳を重ねる度に自分の周りの世界を、ますます生きづらく、その生に対する競争も激しさを増していくと無意識的にいや、意識的にも考えてしまう

 

その無意識と意識を持つことが、自分の人生にもたらす影響。

私たちは、このことについて・・・真剣に考えたことがあっただろうか。

それが自分だけではなく、子どもや周りの人にも多大な影響を与えている「進行型」であることの意味について…。

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一体、何が、私たちを生きづらくしているのか。

 「目的と手段」としての人生。

 

「AI時代に生き残るための教育とは」

「成功のための子育て」

「成功を導く世界リーダーの名言」

 

私たちの意識の中に、その思想と思考に、深く根をおろしている、「資本主義思想」とそれに基づく思考。誰もが成功を叫び、「成功(目的)」への努力(手段)を、人生における「最大の価値」のように掲げる

 

そして、それは違うというと、冷たく罵倒し、その人の無能さと無力さを指摘し、民衆に勝ち負けを判断させる…。誰の言葉に説得力があるかという論理で。

 

幸せを含む人生の全てを手に入れたかのように見える、いやそう思わせる権力者」によって、私を含むそうではない「殆どの非権力者」は、思考する余裕・時間も持てないまま、それをいつの間にか人生の価値として当たり前のように受け入れては、その事実に気づかない。いや、もっと言えば、気づきたくないのかもしれない。

 

それは、資本主義において金(資本)が、時間として、時には思考そのものとして大きくその力を行使しているからであり、生きづらいけど、それでも生き延びること。

さらに、その中で「成功」することへの憧れや価値をおくことが、この世界における最大の価値と定義されているからに他ならない。

 

そうやって、「成功」は、私たち個人(の自我)に、人生における目指すべき「目標」として認識(思考)されるとたんに、最初からそうだったかのように、人生の絶対王者の如く振舞い始めるのである。

 

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人生における価値とは何か。

… 周りの世界と自分としての「自我」、そして家族などそれをまさに「全体」として見渡し、感じ、見つめながら、その中から日常に隠れた価値に気づき、喜び、分かち合い、時には悲しむなど、といった全体と一部としての感覚に基づいて自分と人生を見つめ、見出し、それをありのまま受け入れること。

 

今私たちは、ごく限られた「物質的な世界」を「全体」とみなし、そこで生き残ること、そしてそのための競争に勝ち抜き、誰よりも優位に立つ「成功」を手に入れることを、人生における最大の「価値」としてみなし、生きているのではないか。

また、そういう価値について、その本来の姿について深く考えることなく、子どもたちに押し付けているのではないか。

 

その「限られた一部としての価値」を、全体としてみなし、何よりも重んずるとき、「今」はその価値という目標を達成するための「手段」に他ならない。

それは、たとえば、大学合格のための厳しい勉強期間を、未来への「価値ある投資」として捉え、今の辛抱や努力に対する代償をその未来に向けることに似ている。そして、それを助ける者は、さらにこう言うかもしれない。

「過去は変えることはできないけど、今の努力次第で、未来は変えられるんだ」と。

 

「現実が辛い、もっと上を目指したい」人にとって、恐らくこの言葉は大きな希望となるだろう。

孤独で辛い自分の「今」に対し、自分次第ではあるが、果てしない「報い」を約束するかのような願望という欲望。

そして失敗とみなす「今」を挽回できるチャンスのようにみえるだろう。

 

その願望と欲望通りに、ある人は、それを行動をもって実現させようとするかもしれないし、一部の人はそれを実現するだろう。

勿論こういった行動やそれを助ける人が間違っているとは言わない。今の自分に満足せず、未来への希望を目標とし、さらにそれを行動に移すことは個人としては素晴らしいことであり、またそれによって得られた結果や過程から学ぶことも多いだろう。私は決してこういったものを否定・非難するつもりはない。

 

ただ、その根底にある視点や価値によって失われるもの、いや気づかないもの。そう。気づかないものについて考えてみたことがあるだろうか。その根底にある「人生の価値」を見出すことの意味について。

 

「物質的な世界」と「成功」を、

「全世界」と「最大の価値」とみなすとき、

「今」はその価値達成のための「手段」となってしまう

やがてその姿勢が、自分の人生全般に大きな負の影響を与えていることを、私たちは気づいているのだろうか。

それは今までの人生における価値が「今この瞬間」ではなく、いつか来るべき「未来の瞬間」に向けてその焦点が全て当てられていたことへの気づきでもある。

 

それは、成功ストーリーや数多くの証拠を手にし、それを都合よく集めては思考という理性(実際は非理性的な思考にも関わらず)を通して、それが妥当で、人生の目指すべき正解であると、結論(意味)づけ、それを自分に言い聞かせながら正当化していく過程そのものである。そしてその揺るぎない結論としての価値を子どもと妻、そして周りの人に押し付けるのである。

 

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ヒグラシの鳴き声や、名もなき雑草の美しさや、夕日に染まる非日常の色、蛙を追う子どものステップ、蜘蛛の巣を見つめる輝く子どもの目、腕を歩く蟻の感覚、アゲハ蝶の美しい羽ばたきに・・・その無限の価値に気づいて喜ぶこと。

 

この気づきと喜びは、「未来の瞬間」に向けた感覚からは決して得られない。「今この瞬間」を見つめることによってのみ感じられる思考ではない、つまり「感覚」である。

 

勿論その感覚は、自然からだけではなく、子供や家族のちょっとした感情の変化に気づくこと、そしてランダムに見える日常の出来事を今の価値として解釈し、そこから人生の価値を見出す姿勢にも繋がる。

 

また、「今この瞬間」は、今でありながら、常に「未来その瞬間」であり続けることに気づくとき、内面における人生の価値とは「過去」「今」「未来」のように時間という思考により区別されるのではなく、全て「今この瞬間」を如何にして生きるかによって、見出すことができることに気づき始める。

 

いつか訪れるであろう「願望の未来」への過程としての「今」ではなく、「今この瞬間」の価値を見つけ、喜ぶことで満たされる「今」として生きることは、「未来」もまた「今」と同じであることに気づく過程。

 

・・・話を元に戻し、

そう。「毎日が、前のより何倍は速く感じる」のは、「今この瞬間」ではなく「未来への悩みや不安」を歳を重ねるほど多く抱えているからかもしれない。

 

また、そういう悩みや不安としての「今の視点」は、人生における視点を狭くすると同時に素晴らしい日常の価値に気づかせてくれず、「明日」「未来」にだけ目を向かせ、更なる悩みと不安を感じさせているのかもしれない。そしてその悩みと不安は、「今の私」をありのまま受け入れることを拒む姿勢に繋がる。

私が望む、「私」は「未来の私」。「何かになりたい私」であって、それは常に「今の私」ではないからだ。

 

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・・・自分の人生の中で、一番幸せな時期はいつですか?

この質問に、多くの人(幼児期に傷を負っている人もいると思いますが)は、「幼児期」を挙げるかもしれない。

もしそうだとすれば、ワクワクする今の価値に気づき、毎日をそういう視点に基づいて生きていたからではないだろうか。

恐らく毎日(今)に溢れる価値を見つける喜びとその感覚により長く感じられていたのである。

「記憶の量≒時間の感覚」は、「感覚の量」に比例するのかもしれない・・・。

 

・・・歳を重ねながら、知識を増やしながら、そして経験と自我を確立しながら・・・私たちは「今この瞬間」にある素晴らしい価値を忘れ「欲望や願望の未来」を追いかけてきたかもしれない。また、その「目的」を達成するために、大切な「今この瞬間」を「手段」とみなし、犠牲にしてきたのではないか。

今一度「今この瞬間」だけでも・・・少し立ち止まって考えてほしい。

 

本当にその目的や目標を達成することが、

自分の人生における最大の価値なのかを。

 

競争から勝ち抜いて、人の優位に立ち、高価のマンションを買い、成功と呼ばれる誰しも羨ましがる生活を送ることが、貴方にとって本当に人生最大の価値なのか。

知識を極め、ノーベル賞を受賞し、名誉ある人生として有名になることが、人生いや、我々人類における最大の価値なのかを・・・。

 

「どうせ・・・できっこないから、どうせああいうすごい人生って、自分には不可能だから」という諦めからの正当化ではない。

 

既知の思考や知識に頼らず、人生の価値を自ら見出すことの意味。

「何かになりたい」「何かであり続けたい」その欲望により作られた私という「自我」ではなく、今の価値に気づき、共感し、喜んでいる「私(心)」が見出す「人生の価値」の意味について。 

その見出しで見えてくる「今この瞬間」の価値を、今そして「これからの今」につないで生きたい

そして、ありのままの自分を受け入れる一人の親として「人生の価値」と「それを見出すことの意味」について、子どもと共に考えていきたい。

 

 

・・・最後に、故J.クリシュナムルティ並びに、故岡本夏木氏に深い尊敬の念をお伝え致します。 

 

長い文章をお読み頂き、有難うございました。