子供の習い事と親の自己満足について
子どもとフェミニズムについて色々考える最近です。
今回は、子ども(=私たちの幼児期も含む)の価値観形成に莫大な影響を与える幼児期における親の接し方について、思うことを少し書いてみました。
根拠もなく、故に誤解満載の内容となります。
どうかお手柔らかに読んでいただけると嬉しいです。
「いつか役に立つから」
「学んでおくとあなたのためにもなるよ」
「英語話せないとこれから生きていけない」
「すべてはあなたの未来のため」
聞き覚えのある言葉ではありませんか。
もしくは、正に今子どもと自分に言い聞かせている言葉かもしれません。
個人的な話になりますが、
私は親の勧誘(選択肢はない)で小学生の頃2年間弟とピアノレッスンに通わったことがあります。
弟はかなり器用で上達も速く、いつの間に同年代でトップレベルになりましたが、あまり指が速くなかった私は毎日先生に叱られながら(指を叩かれながら)、時には馬鹿扱いされ、それでも我慢し続けた記憶があります。
そのせいでしょうか。今もピアノを見ると、未熟な自分と痛い指の感覚、そして弟を思い出してしまうのです。
それから30年が経った今も時々親から
「その時、ピアノ学んどいて良かったでしょ?」と言われたりします。
私たちは、過去の出来事においてそれが重要であればあるほど、「自分の選択は正しかった」と確認したい(もしくはされたい)傾向があります。
過去の子育てで「親としての役割を果たした、その選択は正しかった」というある意味=自己満足を、正にその対象から確認したいのは自然な欲求かもしれません。
しかし、時には良かれと思ってやったことが当事者にはトラウマになることだってあります。
これは特にその行為と受け取る側との立場(主客)が反対の場合によく起こる気がします。
つまり「その行為は誰のためなのか」という問題。
その行為が「やりたい主体(子供)の気持ち」からではなく、「やらせたい客体(親)の気持ち」から成立していないのか。
これは、幼児教育全般に大きな判断基準となり得ます。
その習い事って
「やりたいのは自分なのか?子供なのか?」
このシンプルな問いを、私たち親はあまり真剣に考えていない場合が多いです。
行為の主体は、「目の前の子ども=足りない子ども」ではなく、親が思い描いている「未来の子ども=理想の子ども」になってはいないか。
「いやだ!これがやりたい!遊びたい!」
と叫ぶ子どもを、一人の人格ではなく、未来への備えもできない、精神的に未熟な「こども」として見てはいないか。
「子どもの成功と達成=自分の成功」
親は、一人の人間として1回の幼児期しか経験することができません。
誰もが経験するこの幼児期でのキーワードは大きく3つ。
「愛情」と「抑圧」そして「否定」
これらはいろんな形で幼児期の柱となり、個人の性格や価値観形成に莫大な影響をもたらします。
例えば、親に甘えられなかった「否定」された子どもはその「甘えたい感情」を「抑圧」する事で、「お利口さん」を演じ親に違う形で愛を受け取ろうとします。
「愛情」を求めるありのままの自分が「否定」される。感情の「抑圧」は、体と共に価値観として確立されて行きます。否定された悔しさと満たされない愛情。
「彼氏・彼女」「夫婦間」そして「子供」へと
その気持ちは年齢と社会的位置によって変化、対象を変えていきます。
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ここまで書いてエネルギーが尽きてしまいました。最近チャージ後やたら電池消耗が激しいのはやはり年齢のせいでしょうか...
今日も素直になれず言い訳で逃げるおっさんです。
では、おしまい。
続き書きますので、あまり期待はしないでください。最後に、誰も気にしていないと思いますが、そこそこA氏後編、そこそこ悩んでます。
*参考*
子どもの精神発達についての研究「発達心理学」「遠藤利彦」の書籍や論文、そしてその他多数の本影響されまくり。