韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について日常から気づくことを書き残しています。思考の軸は、インドの哲人クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)。5年目ブロガー。21年冬Amazonペーパーバック出版。これからもぼちぼち続けていきたいと思います。コメントや批評全てご自由に。

(日記) 散歩と瞑想

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重い玄関のドアを開けると、思わず手を上げたくなるような日差しが、セミの鳴き声とともに激しく地面に注いでいた。その向こう側には、丁寧に描かれた漫画の1コマのような積乱雲が、不自然に電柱に掛っていた。

娘のおねだりで重い腰を上げて出てきた外は、その思いのせいか、予想よりも遥かに暑かった。湿った風に揺れるアスファルトの陽炎で、目まいがするほどの熱気を感じながらも、不思議にも、娘と繋いだ手は少しもあつくなかった。それはどちらかというと「温かい」に近い気持ちいい熱さだった。

 

「こっちだよ!こっち!」
「はやく!はやく!」
アスファルトの照り返しが全身に伝わる真夏のど真ん中を、全く気にもせず、三歳の女の子はそのたくましいステップで大人を引っ張っていた。

 

「クルマ!!」「あ!あぶない!」
その高い叫びと同時に道端に走っていく姿、そしてけっして繋いだ手を離さないその何気ない姿を見た時、「時間」はその意味を失い、止まっていた。

その不思議な感覚に、私が驚きと感動を味わうやいなや、思考は「今しか見れない大切な瞬間」と、それを言語化・記憶化しようとしていた。そしてその言語と記憶が、止まっていた時間を再び流れさせた。

 

けっして見たことのない青さで透き通っている空、直視できないほど輝く桜の葉っぱ、燃えるように揺れる道路、黒いキジバトの影、遠くのエンジン音、微かな花の香り…その全ての中で娘との10分足らずの散歩は、自分にとって十年もしくはそれ以上に重くリアルに「今」という存在感をもって激しく目の前にあった。

 

それを感じた時、「三十九」と「三」という数字はその意味を無くし、そこにはけっして記憶や経験として蓄積できない、けっして思考によって呼び起こせないという気づきがあった。

日常での些細な気づき、私と呼ばれる自己(自我)によって呼び起こされることのない、ただ思い浮かぶ、その受動的に訪れる気づき、その気づきが感受性であり、「瞑想」である。

…。

 

瞑想とは、お寺や寺院やモスクなど特定の場所や特定のやり方を固執することだろうか。また、神のお言葉や特定の霊的指導者の教えに従い、苦しいポーズや断食などを行うこと、そしてそのあらゆる段階的努力をもって、特定の到着点に向かうことだろうか。

ジムに通うように、一時間三千円の座禅コース体験やそういった何かのビジネスとしての物々交換で得られる何かだろうか。

ヨガマットの上で誰かをマネすること、それによってリラックスする心地よさや喜びで感じる癒しや慰め、それを繰り返したいと願うその願望のことだろうか。

それは「そう、この感覚だ。これこそ瞑想だ!」と言うや否や消えてしまう何かであり、けっして特定の感覚を呼び起こしたり、自分の意思によって選択せず、毎回新しい気づきがあるだけではないだろうか。

それは、けっして専門技術のように、トレーニングによって一定のレベル達することでも、学位や資格によって得られる何かの結果でもない。また、「悟り」や「サマーディ」「自己超越」、あらゆる言葉で表現される何かに到達するための理論の手段やノウハウ、また古くからの言い伝えの解釈やその果てしない修正によって得られるものでもなかった。

瞑想が特定の理論や特定の権威に閉じ込められるや否や、それは今という日常から離れ、ちっぽけな理論の一部として、特定人物の自己満足やその「無知の押し付け」としてとどまるだけである。

 

あらゆる理論やノウハウを疑い、到達点など何も求めることなく、ちっぽけな自分の知識で解析したり、分析したりすることの無意味さに気づき、その気づきをもって自らそれをやめるとき、そのとき自分に何が起こるだろう。

 

そのとき、目の前に広がる風景、あらゆるものがとてつもなく色鮮やかになり、その存在感と同時に生命力に溢れ始める。その中で「気づき」や「瞑想」という言葉は何も重要ではなくなる。

ただ、自分を引っ張るあの温かい手の感触が、とてつもなく強烈に感じられるだけである。

そして私は思わず、あの小さい手を強く握りしめていた。

 …。

 

青く高いセミの鳴き声を背景に、娘は真夏の日差しより眩しく、そして温かく輝いていた。その時「人生は今をもって全てであり続ける」。

 

 

... 「ありがとう」。

言葉ではない何かが、頬を伝って胸の奥に落ちていく。

生きるために生きる。

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真夏の昼下がり。

窓を開けると、日差しより少しさわやかな風が頬を伝って向こうに流れていく。

目の前には、高い雑草がしなやかになびいていて、その上を紫色のトンボが風に逆らい、まるで止まっているかのように、飛んでいた。

柿の木の下には、蝉が動きもせず横たわっていて、その前を小さな虫やイモリが行く道を急いでいた。

庭の隅で疲れ切ったように葉っぱを垂らしているトウモロコシ。突然現れた黄緑の蝶は、その派手な羽ばたきで、自分の絶頂期を懸命に生きていた。

狭い庭であれ、広大な山々であれ、自然はけっして互いを批判し、対立することなく、共存する方法を知っていた。

茂った雑草や害虫、その他諸々が問題になるのは自然の中ではなく、常に人間の中である。

あらゆる昆虫や動物、そして自分の名前に無頓着な雑草たちは、調和や共存を学ばなくても自らそれに気づき、その気づきの中で懸命に生きていた。

「生きること」が「目的そのものである」とき、「生」にいかなる分離もないとき、「生きること」はそれ自身をもって調和(共存)であり、美であり、愛であり続ける。

 

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… 「生きること」って何だろう?…

 

それは、朝起きて朝食を取り、出勤をし、仕事をこなし、暗くなったら家に帰って夕食を食べ、子供や家族の面倒をみたり、少し休息を取る、そういったことだろうか?

一ヵ月後であれ、何十年後であれ、けっして終わらない「未来の目標」に向かって勤勉に努力を続けること、やがてそれを達成する、その繰り返しのことだろうか?

その努力に疲れ、少し休みを取って余暇や娯楽を楽しみ、またその繰り返しに戻ること、「より良い生活のため」と言い、いろんなものを買い込んでそれに囲まれて満足することだろうか?

それとも、特定分野のスキルを取得し、専門家というステイタスに上ること、それで生計に困らない経済的・心理的安心感を見つけ出すことだろうか?

家・車・ブランド、所有物や年俸を優先し、常に「よりよい」ものへと動くこと、またはそういった物を手放すことで何かが得られると思い、「無所有」「ミニマリスト」に走ることだろうか?

CEO・COO・CFO・理事・会長・代表取締役・教授・首相等々言葉やイメージによって作り上げられた社会的権威(指導者)になり、多くの人の上に立ち、そして虚しい笑顔で謙虚さを装うことだろうか?

もしその全てが「生きること」なら、その人生は他人と何が違うだろうか。

その判で押したような生き方、この社会に適応しようと努め(子供にそれをおしつけ)、それによって生まれるあらゆる葛藤で苦しむこと、それでそこから逃げたり、傷ついた自分を慰めたりする日常の繰り返しが、本当に「生きること」だろうか。

「生きること」とは、それらとは全く違う「何か」ではないだろうか。

…。

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「遊び」って何だろう?

「健康促進のために」と何かの目的をもって遊ぶことをはたして「遊び」と言えるだろうか。

無垢な子供を観察すれば分かるように遊び」とは、ただ何かを達成するための手段ではなく、「ただ遊ぶため」として行動となる。

「ただ遊ぶために遊ぶ」とき、そこには目標と手段としてのいかなる分離もなく、ゆえに比較も競争もない純粋な「遊び」だけがある。

そのとき、子供の中には、その行為を心から楽しむ、無垢な「何か」が現れるのではないか。

 

… 生きること。

 

「余暇・娯楽」

「成功・出世」

「安心・安全」

「所有・無所有」

「権威・指導者」

ありとあらゆる目標を掲げ、それに向かって努力することが、本当に「生きること」だろうか?

目標があるとき、「生きること」はその目標を達成するための手段になるのではないだろうか。

そして、その目標を失ったとき、目標を得られないと感じるとき、恐怖や不安に怯えるとき

人はその手段としての「生」に絶望し、自ら「生きること」を放棄するのではないだろうか…。

 

最愛の子供を亡くした親にとって「生きること」は、そういった目標や所有とは無縁の「何か」、子供が「ただ生きていること」だけではないだろうか。

 

「生きるために生きる」

 

「生きること」が「目的そのものである」とき。

「生きること」が、目的や手段として分離されないとき。

そのとき「生きること」は、それ自身をもって調和(共存)であり、美であり、愛であり続ける。

 

その「愛」の中で、子供や妻や夫 … あらゆる対象を見つめるとき、そこに全く違う関係、全く違う生き方が現れるのではないだろうか。

そして、それが「生きること」ではないだろうか。

 

 …   今、あなたは生きていますか?

(日記) 幸せと足跡

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気持ち良い風が吹く朝。久しぶりの陽光を喜ぶかのように、アゲハチョウが畑の上を優雅に飛んでいた。そしてその羽ばたきに合わせるかのように、雑草が風に揺られてなびいていた。

 

「あ!アゲハチョウだ!」

私の声に、飛び出してきた息子が大きな窓の前でアゲハチョウを注意深く眺めていた。そして先までの雨が嘘のように、雑草は色鮮やかな生命力に満ち溢れていた。

 

その朝、有り余るほどのパンを見て笑っている子供の無垢な笑みが、時間に追われ、食事を急かすいつもの平日では贅沢のように思えた。

 

アイスと引き換えに付き合ってもらった自然食のお店で、二人は飽きもせずはしゃぎ回り、行く所々に、足跡のようにその無垢な笑みを残していた。

…。

 

まっすぐ伸びた巨大な竹の木、秩序なき秩序の中で茂っている名もなき木々。どこまでも続く黄緑の田んぼの海が色鮮やかに光り輝いていて、山々の頂には透明な白雲が静かにかかっていた。

 

「バカ・ウンチ!!」

息子の言葉に弾くような笑い声が車窓から溢れ出す。そのとき、私は決して「幸せ」について悩み、追い求めていなかった。

 

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「幸せ」とは何だろう。

 「幸せ」は、記憶や知識、あらゆる過去から思い起こされた一つの観念だろうか。

 

「幸せ」が観念になるや否や、目標やその目標を達成するための努力が問題となる。そして「経済的成功」のように人生における「精神的成功」として、達成すべき気高い目標(価値)として現れ、人を支配し始めるのではないだろうか。

 

目標とその目標を達成するための努力。人生論・宗教論・哲学・心理学・スピリチュアルに至る… あらゆる専門家とあらゆる書籍が、幸せへの「努力」とそのための「HOW TO」や「メソッド」を掲げる。

 

「こうしなさい」

「こうしてはならない」

「幸せは〇〇〇にある」

そして「私(指導者)は知っている」…。

 

その中で「幸せ」は、

もう一つのイメージとして、もう一つの達成すべき目標として、さらに区別・分離され、他の問題がそうであるように「もう一つの知識」として、ただ蓄積されていく。

そして「幸せ」は、自分が「不幸」だと感じれば感じるほど、より色鮮やかで、より魅力的な目標や羨望として自らを変えていく。

 

「幸せ」という言葉への自分の偏見と先入観に、そして絶え間なくそれを達成しようと努力していることに気づくとき。

その努力が、絶え間なく「不幸と幸せとの区別」を生み出していることに気づくとき。

「幸せ」もまた「過去への気づきの一つ」に過ぎないということに気づくとき。

 

その気づきという自由の中で「幸せ」は、

決してその言葉に縛られることなく、

あの足跡のように「常に新しい無垢な笑み」を、

日常の中に残すかもしれない。

 

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【抜粋】新しい心で人生と出会う

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私たちの多くが熱心に受け入れ、当然と思っていることの一つが、信念の問題であるように思われます。何も信念をこぎおろそうとしているわけではありません。

私たちがしようとしているのは、なぜ自分たちが信念を受け入れるのか、その理由を掘り出すことです。


そして信念を受け入れる動機、原因を理解できれば、自分たちがなぜそんなことをするのかが理解できるばかりではなく、ことによったら、それから自由になれるかもしれないのです。

政治的並びに宗教的信念、国家主義的信念、その他様々なタイプの信念が、いかに人々をバラバラにしていることか、いかほどの対立、混乱、敵意を生み出していることかーこれは紛れもない事実ですーは分かります。しかし、それでも私たちは信念に見切りをつけようとしません。

ヒンドゥー教の信仰があり、キリスト教の信仰があり、仏教の信仰があり、数えきれない程の宗派、国家の信条があり、様々な政治的イデオロギーがあり、そしてその全てが戦い合い、相手を自分の方に引き込もうとしています。

信念が人々をバラバラにしているということ、偏狭さを生み出しているということが手に取るように分かります。


では、信念なしに生きることは可能でしょうか?
信念とのつながりの中で自分自身を注意深く観察できさえすれば、それを見出すことは可能です。

一つの信念も持たずに、この世の中で生きていくことは可能でしょうか?
信念を変えるのでも、一つの信念を別の信念に置き換えるのでもなく、あらゆる信念からすっかり自由になり、その結果、一瞬ごとに新たなる心で人生と出会うことは可能でしょうか?

あらゆる物事に、一瞬一瞬、条件づけをもたらす過去の反応を交えずに新しい心で出会い、そうすることによって、自分自身とあるがままとの間の障壁となる累積的な影響を受けないようにする力を持つこと、つまるところ、これが真理なのです。

【四季の瞑想 クリシュナムルティの一日一話(2月13日)・こまい ひさよ 訳】

雨と沈黙 : 恐怖なしに生きる。

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*七月の空と海風。

 

「雨の予感」を説明するのは難しい。

それは、風の向きや激しい雲の流れだけでなく、そこに、いつもと違う独特の空気、そして沈黙があるからである。もちろん空気も必ず湿っているわけでも、カラッとしているわけでもない。それは決して数式や条件など何かの公式によって導かれるものではなく、刻々変わりつつある何かへの刻々の知覚である。しかし、なぜか人はそれを感じ取り、こう呟く「あ、…雨が降りそう…」と。

振り返ると、その知覚には常に沈黙がある。

庭の草の沈黙。ぬるい時には冷たい風の沈黙。蝶の羽から伝わる緊張の沈黙。茂みの中のカエルの沈黙。遠くの山々が雲を運んでいく壮大な沈黙。帰路を急ぐ鷹の羽の沈黙。

そしてその全てを見つめ観察する私の沈黙。

その雨に、全ての注意を払っている、そのほんの一瞬。

思考はその沈黙をもって、時間(思考)から自由になり、その時初めて、思考の外側(時間ではないものの中)で、それら全てに気づくことができる。

しかし、常に多忙な日常の中で、その沈黙に出会うことはごく僅かである。素晴らしい夕日を眺める、その僅かな瞬間でさえ、思考はそれを昨日もしくは思い出のと比較し、自分が作り上げた過去のイメージを通してそれを眺める。そして「そういえば、あの時の夕日は素敵だったな...」と考える。

イメージ(過去)を通してモノや人を眺めるとき、人は決して目の前の対象と向き合うことができない。その時、向き合っているのは現にあるモノではなく、自分自身のイメージに過ぎない。日常で時々遭遇する僅かで貴重なその沈黙は、そうやって一瞬にして消えてしまう。

しかし、私たちの日常において思考はいかなる手段よりも強い力を持っている。思考は、成功や目標を達成したいという自らの野心を叶う手段として経験(過去)をその拠り所とし、常に自分を今と未来(目標)とに分離させる。またそれ自身の動き(時間)の中で、願望の実現のために独裁者のように拳を突き上げ、自分を奮い立たせる。しかし、思考は決して彼自身が、独裁者(非行為者)であると同時に愚かな民衆(行為者)であることに、気高く掲げたあらゆる目標や願望その全てが自分を苦しめる葛藤と苦悩の源であることに気づかない。


「〇〇になりたい」
「〇〇であり続けたい」…

死ぬ瞬間まで(もしくは死後も)自分を突き動かしているその願望。

思考を忍耐強く観察すると、思考は決して「無」からは生まれないこと、また願望には必ず「恐怖」が存在することに気づく。

 

失敗への恐怖がないとき、人は「成功」という「願望」を必要とするだろうか。

「絶望」が存在しない時、はたして「希望」が必要だろうか...。

思考において成功への願望には必ずそれを失う、もしくは失敗する恐怖を内包しているのではないだろうか。

 

大学への合格、事業の成功、良い結婚と育児、良い父親や母親、そして心理的な達成や克服といったありとあらゆる願望。その裏側に潜む未獲得や未達成の恐怖が、人を願望に突き動かす原動力ではないだろうか。しかし、恐怖がないとき... はたしてその願望が居場所を持つだろうか。... それに気づくとき、目の前にあるその問いは、「いかにして願望を達成(成功する)できるか」ではなく、「いかにして恐怖なしに生きるか」に変わる。

 

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「恐怖なしに生きる」

育児・仕事・人間関係・キャリア・家族・老後・趣味・健康・介護・宗教... あらゆるもの、あらゆる対象を抱えているこの日常を生きる私たちが、はたして恐怖なしに生きることができるだろうか。

それは、仏教やインド宗教、キリストなどで掲げる「無願望」「無所有」「無限や不朽の愛」といった何かの思想や概念ではない。もしその思想や概念を注意深く観察すれば、その思想を実現しようとする行為こそ「もう一つの願望」であることに気づくかもしれない。

仕事や収入を失う恐怖。
妻や子供、家族を失う(絆が壊れる)恐怖。
立派な大人や親になれない恐怖とそれを非難される恐怖。
社会的成功や地位が得られない恐怖。
癌やボケ、あらゆる病気と死の恐怖。
天国や地獄…来世で幸せに暮らせない恐怖。

思考は、決してその無数の恐怖を作り出しているのが他ならない自分(思考)であることに気づかない。また、その恐怖をありのまま見つめようとせず、「願望」で覆い隠し、それを叶うべく未来への「努力」を通して恐怖からの逃避を試みるが、思考(源)が存在し続ける限り、恐怖は絶え間なく生まれ続け、決して消え去ることはない。

にもかかわらず、思考は自分が恐怖そのものであることを決して認めない。そしてその二元性(分離)が全ての葛藤や苦悩を引き起こす原因となる。

思考の動きは、それ自身の動きをもって、自分に「時間」という絶対的な感覚と同時にそれによる限界をもたらす。絶えず目標や願望を作り出し、それらへの努力を行う過程、つまりその心理的時間の中で、人は自分が作り上げた時間を、時には物理的時間と混同しながら、何の疑いもなく、それに縛られて生き、そして死ぬ。

その中で、人は必然として現れる苦悩と葛藤という事実に直面し、その苦悩と葛藤を「快」と「苦」に分離させ、苦」だけを取り除く手段として、ブッタ・イエス・フロイト・デカルトその他◯◯◯…「哲学」「宗教」「心理学」ありとあらゆる過去(知識)にすがり、そこから自分に都合の良い教えや手段を見出すが、その過程もなお、日常を生きるその思考と同じものに過ぎない。

 

人間が充分に生きることができないのは彼が死を恐れるゆえである。

そして逆に言えば、彼が死を恐れるのは充分に生きないからである。- ルネ・フェレ -

(クリシュナムルティ 懐疑の炎(大野純一訳))

........

 

そうやって私が自分の思考にとらわれている間、突然雨が降ってきた。その雨は全てを呑み込みそうな勢いで、あらゆる場所に激しく降り注いでいた。

私は窓を開け、まだ工事中の庭を心配そうに眺めた。そして自分の足が少し泥で汚くなっていることにイライラを感じていた。

同じ時間、違う場所では多くの避難民が屋根の上で救助を待っているというのに... 。

 

恐怖なしに生きる........。

その言葉に、私はただ、

沈黙することしかできない。

(日記) 不在と父親

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2018
2019
2020…。

いつからだろう。
正確には覚えていないけれど、

年末のカウントダウンで感傷に浸ることも、除夜の鐘で目標や意志を改めることも、全て無くなっていた。それは今年からいきなりというより「… 振り返ると、そうなっていた」に近い感覚だった。

自分の記憶と感情は、過去の映像で編集された恒例の思い出番組みたいに、都合よい記憶と感情だけが思い起こされていた。

派手な映像と音楽。その無意味な祭り騒ぎが、過去への感傷がまた新しい願望として正当化されていくのを、ただ覆い隠しているように見えた…。

「3!2!1!… ハッピーニューイヤー!」

歓声を上げる群衆を背景に新年を伝えるアナウンサーの複雑な表情。テレビの前・部屋の中・夜中のコンビニ・神社の一角・高い山々の頂上… ありとあらゆるところに、その「何か」は存在していた。いや、正確に言うと「そう感じている自分がいるだけ」だが。

…。

正確には覚えていないけれど、
「… 振り返ると、父親はいつも不在だった」

彼が家にいるときはそれは長い旅行の休息か、それともその長い旅の前日だった。だから、私の幼年時代に父親との記憶はない。

無責任な行動や浮気、返す当てもないローン、念願のマイホームを担保にした消費者金融、数えきれないほどの督促と喧嘩…。

40年前の80-90年代の世界がそうだったように、私の幼年時代は決して明るいとは言えない、薄暗く湿った感触のような思い出で埋め尽くされていた。

それから、ちょうど父親が今の私の年齢になったとき、突然彼は「良きパパ」を演じはじめた。

彼は十年以上の空白は気にもせず、料理をしたり、キャンプやプールにつれて行ったり… まるでこれまでのことを挽回するかのように振る舞った。しかし、それは表面的にとどまり、決してその深くに存在する「空白」を埋めることはできなったし、その方法も彼は知らなかった。

そして、彼は最後まで一度も「父親とは何か」と真剣に問うことなく、それについてあらゆる知識から学ぼうともしなかった。ただ唯一彼が信じている「自分の中の父親」という役割への羨望が、間違っていることに気づくことも、またその無知による愚かさを、ありのまま知覚することもできなかった。

自分の人生と相反するその説教と行動に、常に「二重性」を感じていた子供たちにとって、その行動がその空白を埋める手段になることは決してなかった。

にもかかわらず、彼は世の父親がそうだったように、常に「強い父親」「揺ぎ無い信念を持つ男」であろうとした。その願望が、ただ自分が描く幻にすぎないということに気づくこともなく...。

「彼がその無知から逃れることはない」
そう気づいたとき、私は心の中で「父親」を捨てた...。

やっと手に入れたマイホームが家族の意思とは関係なく、しかも暴力的な手段によって失われたとき。私は片手にローンの督促状を、片手に離婚届けを持って冷静に母に向かって離婚を話していた。彼にこれ以上家族が振り回されたくないと誓ったとき、私はまだ18歳の高校生だった。

「父親の不在」

貧困層にとって日常は生計との闘いそのものだった。離婚後、非行に走る弟を母親が必死に説得する日々が続いた。


「何があっても、あなたは諦めない」
苦労の深さだけ家族の絆は深かったが、絆と貧困はそれぞれ違う現実として互いに無関係に存在していた。

「結婚式」

私は、自分の結婚式に「親として二人で祝ってあげたい」という母の願いを伝えるために、パートナーと一緒に15年ぶりに父親の新居を訪れた。

彼は、15年前と同じく彼自身が置かれた立場や状況を把握することが出来ず、相変わらず幻の中で今と過去を解釈していた。

私の話に、再婚相手との同席が当たり前だと語るその姿は、昔も今も何一つ変わっていなかった。そして、私はデジャヴのように「これが父親との最後の日になる」と気づいた。

彼は、その正当化と執着が、パートナーやこれから生まれる孫… ファミリーという大切な絆、その全てを失くしていることに気付いていなかった。

きれいな部屋とリビング、こまめに管理されている透明な水槽の魚。時々再婚相手と笑顔で話を交わしている彼を、私は決して動揺せず、何の感情も起こさずに静かに見つめていた。

その父親と呼ばれた彼の頭の上に、聖母マリアが赤い涙を流しながら私を悲しい目で見つめていた。

******
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「父親とは何だろう?」

ケヴィン・ハート(アメリカの俳優・コメディアン)が言っているように、子育てを決めるのは「その環境」である。

間違った子育てを繰り返しているのは、親本人が間違った子育てによって育ったからである。しかし、だからといってそれを言い訳にし、自分の行動を正当化したいと思うなら、それこそ間違いであることを、果たしてどれぐらいの親が自覚できるだろう。

多くの父親が、自分に閉じこもったままちっぽけな視野で人生を見、ひとかどの者・野心家になろうと社会的・道徳的「成功と願望」を追い求める。それに「時間・金・エネルギー」を注ぐことを「信念」や「人生哲学」と呼び、またそれを揺ぎ無く貫くことを「人生のロマンや価値」と見なしていないだろうか。

ルーティンな長時間労働と無意味な飲み会。ゴルフやその他数えきれない付き合い。「人脈」や「ネットワーク」という響きの良い言葉で覆い隠された「合法的な趣味」の数々。その陰で家族との絆が壊れ、妻や子供が傷ついていく。さらに、この全てをありのまま見つめようとせず、狭い視野の中で、それでも自分は「マシな父親だ」と思いたがる。しかし、あらゆる暴力においてもっとも危険な行為は、行為者のその「無知」「無自覚」ではないだろうか。自覚の無い暴力は、防ぎようがなく、ただただ繰り返されるだけである。父親にとってその無知こそ、暴力で犯罪である。

 

前科者であることは恥ではない。

犯罪者であり続けることが恥だ。

- マルコムX (1925 – 1965)-


「良き父親になろう」
「尊敬される父親・夫でありたい」


洒落たポーズや写真で育児を語る有名人の記事を読む時間はあっても、子供の不満話をじっくり考えるほんの少しの余裕もない父親。

子供やパートナーと向き合うことなく、育児マニュアルやベストセラー…〇〇専門家が語る答えを探すことだけに精一杯である父親。

現実をありのまま見つめず、解決すべき問題やミッションとして捉え、解決する方法やその手段を崇拝する父親。

問題集に挑む受験性のように、あらゆる実例から導かれた、解決のポイントを、我が子に適用させることだけに夢中な父親。

そういう父親であり続ける限り、問題解決のための答えを探し続ける限り、その答えは、社会的成功者が語る二頁足らずの記事の中にも、テーブルを囲んで親子の話を聞いているその専門家の言葉の中にも、あらゆる育児手引書やあらゆる団体の中にもあり得ない。

大事なのは「答え」ではなく、
また「答えはない」という性急な結論でもない。

それはただ、子供や妻の話に本当に向き合い、耳を傾け深く気づくこと。そしてその気づきから「正しい問い」を見出すことである。

「正しい問いがあるとき、答えは既にその問いの中にある」ように…。

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lcpam.hatenablog.com

lcpam.hatenablog.com

 
参考映像「ドキュメンタリー」
ケヴィン・ハートのやらかした!?
父(シーズン1 エピソード2)
https://www.netflix.com/jp/title/81010817

暴力と平和

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Malcolm X / CBC Radio · 

https://www.cbc.ca/radio

 

独立する方法は1つ
他人に頼るべからず
自分の手でつかめ

誰も独立をくれない
誰も自由をくれない
平等も正義も
他人からは得られない

人間ならば自分でつかめ
できぬなら得る資格はない

- Malcolm X, 1925.5.19 - 1965.2.21 -

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#blacklivesmatter

https://blacklivesmatter.com/


Black Lives Matter
African-American Civil Rights Movement

私を含む殆どの東洋人は、アメリカで黒人であることの意味を、彼らがどんな思いで人生を生きているのかを知らない。そして同じく彼らもまた、日本・韓国・中国・インドなど東洋を囲む長く重い歴史の影と伝統の中で生きることについて理解できない…。

今もなお、どれほどの黒人が、民主主義を装った拝金主義、政府のプロパガンダやそれによる不条理な法律、巨大な刑務所産業を掲げて堂々と気高く正義を語る政治家によって合法的に抑圧されているかに目を向け、その意義を見出そうとする人はあまりいない。

…。

 

全ての「命」において「選択」はない。そして全ての「生」において命は、必ず「存在し得る全ての選択の外側」にのみ存在する。だからこそ、全ての命は平等であり続け、同じ尊厳をもって受け入れられるべきである。
それは決して遺伝子・出身・言語…あらゆる環境の違いに左右されない何か。人が語り得るもの「それら全ての外側」で成り立つ「何か」であり、あらゆる言葉、あらゆる法律や憲法、いかなる手段を用いても説明することができない。命は、全ての表現の外にある「何か」、あらゆる環境の「違い」や人間の「理解」を超える「存在」そのものである。

…。

【暴力】【デモ】【人種差別】【Black Lives Matter】

しかし、普通の人にとって「命」とは、決して直観的には感じられないもの、それはただスマホの中に存在するニュースの話、有名政治家のまわりに付き纏う「遠い国の揉め事」それ以上もそれ以下でもない。

【パワハラ】【賃金格差】【コロナ疲れ】【育児休暇】

そう、私の目の前には常に「遠い国の揉め事」より遥か身近な問題、乗り越えなければならない「巨大な日常」という壁が、とてつもない威力を持って立ちはだかられているのである。
...。

 

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「暴力」とは何だろう。

それは単に、「被害者と加害者の関係」の中に限られてしまうものだろうか。目に見える殺人や事件、そして暴言やイジメ問題に限られたものだろうか。

比較と妬み、悪口と正当化を繰り返す日常に生きる私たちが、その中の無数の矛盾と偽善に苦しむ人々を見て見ぬふりをし続けること。ちっぽけな世界に閉じこもったまま、特定の経験や知識を盲目に従い、自分の日常とは無関係な出来事については簡単に結論付けて片づけること。それから再び日常の偽善に戻っていくこと。これら全てに気づかないことこそ「暴力」ではないだろうか。

暴力とは、指導者の政治判断によって変わる法律、その時代の常識によって定義されるものだろうか。それとも、日常を囲むこの全世界で、今行われていることを、「白か黒か」「左か右か」「またはそれ以外か」と… 自分の背景や利害関係から比較し、その中で都合の良いものだけを選び、関心を向けること。また同じく、都合の悪いことは非難したり、無視し続けることだろうか。

どうして人は、井戸の中の蛙のように、外の世界には目を向けず、自分をちっぽけな世界に閉じこめたまま、暗くて狭い井戸の中を飾ること、その中でよりきれいで、より居心地の良い場所を見つけることに、これほど夢中になるのだろうか。

...。

それは決して「暴力とは何か」を見出すことのなかった、私たち親の責任だろうか。それとも、その親も同じく暴力の犠牲者の一人にすぎなかったからだろうか。

私たちは今、人種や国籍、イデオロギーや宗教、あらゆる区別や分離を当たり前のように押し付ける世界。根強い拝金主義、その達成としての成功や幸せを人生最大の目標として掲げるこの世界を、ありのまま見つめているのだろうか。

 

もしその事実から目をそらし、ちっぽけな自分の世界だけを見つめている限り、

問題はいずれ偉大な指導者が解決するであろうと考えている限り、

自分はただ平和に暮らしたいと思い続ける限り... 人はこれからも軽い論評でそれらについて語り、傍観者であり続けるだろう。

 

数年・数十年後に過去を振り返り「そういう時代もあったよな」と、全世界への一部、その責任を担う当事者としてではなく、新聞を読む購読者のように、読まれる対象(世界)と読む対象(自分)とを分離し、無関係な部外者として見つめ続けるだろう。


「平和に暮らしたい」

組織やシステムに押しつぶされ、目標や成功そしてその達成で感じる自己満足や快楽を追い求めるだけの人生。長い人生の中で、決して「自己満足とは何か」「平和とは何か」を問うことなく、「平和的な服従」の中を生きる人生。

その目標と願望への「ステップとしての今」を生きることで精一杯である私たち親は、その平和的服従が、社会の力を巨大化させ、個人を無力に感じさせていることに気づくだろうか。

それどころか、自らが「個人の無力さ」を言い訳にし、自分そして子供たちを、その狭い目標と願望の中に閉じ込めていないだろうか。

 

#BlackLivesMatter


ハッシュタグやあらゆるコメントの中、自己満足や互いへの非難の中にあるもの。自分の中にある日常と世界との分離が、それによる比較が、存在し続ける限り、私たちは人種・国籍・地域・教育・伝統… ありとあらゆる無意味な比較によって作り上げられた色眼鏡で物事を考え、人生という狭い井戸の中を生き続けるだろう。

そしていつものように、都合の良い、それっぽい信念を掲げ、自分の人生を正当化し、子どもと自分に、言い聞かせるだろう。

 

人は、羨望と願望が、それらから成る揺るぎのない「信念(正当化された執着と排除(分離))」が、自分と家族の日常に、何をもたらしているか見つめない。

世界で起きているあらゆる差別と残酷さが、自分の日常とかけ離れていないことに気づかない。

差別による殺意と無数の暴力が、自分を否定する者に抱くその感情と少しも変わらないことに気づかない。

そしてもし気づいたとしても、「願望を捨てること」「平等であり続けること」「非暴力」という、また新しい願望を作り出し、それを達成しようとするだけである。

...。

 

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「平和」とは何だろう。

平和とは、暴力の反対側に存在し、暴力によるあらゆる問題を解決する観念もしくは理想だろうか。

それは、核兵器・最新鋭戦闘機....それらのための軍備拡大、防衛・自衛・抑止力を掲げ、あらゆる暴力を正当化する、政治家が口酸っぱく語る、その偉大なる価値だろうか。「主権」「国民の安全」という名目の下で、その暴力的な手段によって生まれた犠牲の後に、やがて訪れる「結果としての何か」だろうか。

常に今この瞬間には存在しないもの、この矛盾と暴力が立ち去るときに初めて現れる「未来のどこかに存在する何か」だろうか。

 

人生の矛盾と偽善に気づくことなく、決して自ら「平和とは何か」と問うことのない私たち親が、その問いを子どもに託す資格があるだろうか。

見出しからではない、手段の正当化としての平和。

どうして「平和」は今もなお、外部からの脅威や恐怖がある時にのみ生まれるのか考えたことがあるだろうか。

 

政党の利益や政治家のその「信念」によって、あらゆる暴力が正当化されているその裏で、今も子供たちが戦場に行かされ、またその暴力の手段として使われている事実を見つめることができるだろうか。

政府の政策や憲法の中にある「平和」、そしてその日常を生きる「私たちの平和」は、昔も今も何も変わっていないことに、私たち親は気づいているだろうか。

 

「平和」とは何か...。

 

平和は理性の結果ではない。にもかかわらず、もし組織宗教を観察してみれば、それらがこの精神による平和の追求に囚われていることが分かるだろう。真の平和は、戦争が破壊的なのと同じぐらい、創造的で単純だ。そしてその平和を見出すには、人は美を理解しなければならない。

(略)

もし君たちが、たんに財政的その他の安定によって、あるいは一定の教義、儀式、言葉の反唱によって平和を持つだけなら、そこには何の創造性もない。そこには、世界の根本的革命を引き起こそうとする、何の切迫感もない。

そのような平和は、たんに自己満足とあきらめに帰着するだけだ。が、君たちの中に愛と美についての理解があれば、そのときには、たんなる精神の投影ではない平和を見出すことだろう。

創造的であり、混乱を除き、そして自分自身のなかに秩序をもたらすのは、この平和なのだ。が、この平和は、それを見つけようとするいかなる努力によっても訪れない。それは、君たちがたゆみなく見守っているとき、醜いものと美しいもの、善と悪の両者、人生の全ての有偽転変に対して鋭敏なときに起こる。

平和は、精神によって作りあげられるような、ちっぽけなものではない。それはとてつもなく大きく、限りなく広く、そして心が豊かなときにのみ理解されうるものなのだ。

- Jiddu Krishnamurti / 未来の生 -

 

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#ビール・ストリートの恋人たち

 

 

(日記) 育児と健康

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「娘の咳と肌を治してあげたい」
振り返ってみると、全てはそこから始まった。

慢性の咳と肌の炎症に苦しむ娘。
肌は常に乾燥していて、生まれた時から刺激に弱く薬を塗らない日が珍しいぐらいだった。その原因を探って3年。長年の通院と1ヶ月弱の入院生活を経て医者は「原因不明の肺炎(今は完治)」と「乾燥肌」という病名を与えた。それから保湿剤とロコイド等、薬を塗り続ける生活が始まった。

「親とは何か」
「親としてすべきことは何か」

答えのない問いと共に、その原因と対策を模索しアクションに移すことが日常となった。そして、その問いへの答えを探れば探るほど、この世界が直面している危険性と問題、そして自然に対する恐ろしいほどの「無関心と無知」が、事実と共に浮き彫りになってきた。

その一。空気
娘は今の家を建ててちょうど1年後に生まれた。ホルムアルデヒド・トルエン・キシレン・エチルベンゼン… 数えきれないほどの化学物質が、家の材料として使われていて、それら全てが室内の空気中に放出されていた。成人に比べて明らかに気管支の弱い幼児がその影響を受けやすいことはあまりにも明らかだった。それで、まず家の中の化学物質をモニターできる機械を設置し、室内空気汚染状況を常に細かく確認できるようにした。

それから3年。家中のあらゆるものから放出される化学物質とそれらによる空気汚染は、私の想像を遥かに超えるものだった。花粉やPM2.5など話題の健康被害を心配する、まさにその裏で、幼児への健康被害やリスクが懸念され、しかも研究データすらない多くの化学物質が、人々の関心事からすっかり除外されていた。

では、化学物質過敏症(CS)、その他原因不明の症状を起こす汚染物質を、どうしたら排除できるだろうか。あの派手なCMのように、本当に我が家を、わが娘を救えるのは、あの立派で高価な空気清浄機だろうか。いくら最新の機械やフィルターを買い替えても、山から下りてくる自然の風に勝るものはなかった。しかし、その自然もますますその力を失っている。


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世界の平均二酸化炭素濃度は、2019年に歴代最高値である400ppmに到達した。それを証明するかのように比較的きれいな地域にある我が家の二酸化炭素濃度は、いくら長い時間自然換気をしても400ppm以下になることはなかった。24時間換気システムをフル稼働しているにも関わらず、こまめな換気を行わないと比較的短時間で体に影響が出始める1,000ppmを軽く超えてしまう。また、空気汚染は単に二酸化炭素による影響だけでなく、化学物質やPM2.5など様々な有毒物質の蓄積を意味し、特に幼児健康においては長期的なリスクに子供が常に晒されているという事実を、モニターは黙々と伝えていた。

オーブントースターや電子レンジなど調理用機械、消臭スプレーや殺虫剤、毎日欠かさず動かす食洗機… 100均で買ってきた折り紙やおもちゃ… 「オーガニック」「植物由来」「無添加」を謳うエコ洗剤や身近な日用品に至る、ありとあらゆるものが例外なく有害物質を放出していた。そして多くの人が寒い又は暑いという理由で、「99.9%」完璧を謳うエアコンや空気清浄機を頼りに、自然換気もせず有害物質に囲まれ、暮らし続けている。

持続可能な経済成長のために、自然の持続可能性が犠牲になる。気候変動や自然破壊、日常の危険性を叫ぶドキュメンタリーや映画の現実が、その画面の外で、自分の日常にありのまま投影されているとことに気づく人は多くない。多くの人が、産業工場の近く、話題の汚染スポットにいるわけではないという安易な認識で、事実を「ニュースの事実」として認識し、全く同じ日常を生きている。また、時間があれば、少しその気になれば、ドキュメンタリーやYOUTUBEなどで好奇心を満たして、次の好奇心に向かうことを繰り返すだけである。

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その二。添加物
日本が世界的な添加物大国であることはよく知られていることである。その名の通り、あらゆる食品の中に必要以上に添加物が乱用されている。コンビニのパンや子供のお菓子、おにぎりやオーガニックと自然食を謳う食品でさえ、添加物は欠かせない。規制によりヨーロッパなどには輸出すらできない加工食品が毎日スーパーで飛ぶように売られている。もはや日常生活の中でそれらを完全に排除することは不可能に近い状況に至っていた。

ナイアシン、イーストフード... 子供のパン、あらゆる加工食品の裏に当たり前のように書いてあるこれら添加物の多くが、既にヨーロッパでは毒性成分が認められ使用が禁止されている。不要に長い賞味期限を代償として、またその安さを引き換えに、私たち親は子供にまだ十分検証もされていないもの、既に使用禁止になっている添加物まみれのお菓子や食品を与えていることに気づいていない。それどころか、オーガニックや自然食などで育った子がインスタントを食べて死亡したニュースを根拠に、親は少しの添加物はこれから乱れるであろう子供の食生活への予防だと正当化する。


多くの人が加齢とともに慢性的な肥満や糖尿病など生活習慣による、正確には食生活の乱れによる疾患を患っている。では、個人ができることは何なのか。それは「自然環境と健康な生活習慣」か。しかし、何が健康な生活なのか、何が非健康なものなのかを突き詰める人はそう多くはない。それは各個人が、健康に関する自分の知識を過信しているからではないだろうか。それは、自然食を選び、それらを食べ続ければ解決されるというシンプルなものではない。自分の知識や偏見を捨て、まわりのあらゆるもの、ごく当たり前のように食べ続けてきたもの全てを疑うことから始めない限り、少し健康食や自然食をとったからと言って日常が変わることは決してないように思える。

 

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「便利さ」と「安さ」を引き換えに、私と子供たちは何を失っているのだろう。

自分にとって都合の良い事実やものだけを選ぶのではなく、安さと便利さの危険性をみつめ、その危険性に気づくことができるかが重要ではないだろうか。その気づきによる自らの変容こそ、私たち親に必要ではないだろうか。

しかし、自分への気づきやそれによる変容は、有名人のブログや本を読むからと言って、ドキュメンタリーを見たからと言って得られるものではない。気づきと変容は、決して他人から教えられるものではない。感化による気づきは一時的で、必ず次の感化、自分にとってより都合の良い、より大きな感化に、取って代わられるだけである。


化学物質の乱用による環境破壊や食肉食品の産業化などによる健康被害は、ドキュメンタリーに限った話ではなく、今日あなたが寄ったコンビニの中に、そして家族と囲むその食卓… 遺伝子組み換え(GMO)すら分からない添加物まみれの食パンを子供に与え、糖分過剰で賞味期限が半年以上のイチゴジャムをだっぷり塗り、カルシウム摂取のためと言い、子供に牛乳を無理やり飲ませる… 食卓の中にありのまま現れている。

慢性の疲れを紛らわすために、プラスチック樹脂でコーティングされた紙コップのコーヒーを毎日飲み続け、仕事に向かう人々。カフェインと加工食品や肉中心の食事により体は既に悲鳴をあげているのに、その原因を「体重」や「カロリー」「運動不足」とみなし、またビタミンサプリ等「栄養」補充だけに夢中な人々。

持続可能な自然を叫びながら、「自分へのご褒美に」と頬張るそのお菓子が、それを作る工場や企業の経営を、持続可能にしていることに気づかない人々。子供とファーストフードを食べる日常が当たり前のように繰り返されている限り、その隣で食品の品質や安全性ではなく、粗悪なプラスチックおもちゃを派手に宣伝するあのCMはこれからも流れ続けるだろう…。

 

「親とは何か」
「親としてすべきことは何か」...。


「無知であることは、
知識がないことではない。

無知とは、自覚の欠如のことである。
そして自我の諸様相についての理解が
無ければ、知識は無知に等しい。

自分自身を理解することが、
知識からの「自由」である」

<j.クリシュナムルティ>

 

 

lcpam.hatenablog.com

 

健康って幸せ?

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「青嵐」

あおあらし。夏嵐、風青しとも言い、5~7月ごろ青葉を揺り動かして吹く南風。

 

5月の公園に足を踏み入れると、まさにあの青嵐が気持ちよく吹いてきた。熱いプラスチックベンチに腰をかけ、いつもの音楽を聴きながら400円のお弁当を食べていると、目の前には綺麗な雑草の花が、風に合わせて揺られていた。しかし、その爽やかな余韻も束の間、タバコの匂いが、花の香りもお弁当も、全てを台無しにしていた。

 

「改正健康増進法」

四月から始まった制度によって、あまり陽光や風を感じることのなかった喫煙者の健康が増進されたことは間違いなかった。そして快晴(かいせい)の中、彼らは公園に群がり、密かにとも堂々とも言える何とも異様な雰囲気を醸し出しながら、まさに気持ちよくタバコを吸っていた。

 

「せっかくのランチ時間が…」

険しい顔でお弁当を食べ終えた私は、彼らを冷笑しながら、堂々とスタバに向かっていた。彼らと私。第三者から観察すると、それはただタバコがコーヒーになっているだけで、どっちも似たり寄ったりであまり変わらないように思えた…。

 

 

健康って、そして幸せって何だろう

タバコを吸っている彼らに、健康はなくても、ある種の幸せは見えるし、スタバに並んで甘いコーヒーを待っている私や、健康を叫ぶヴィーガンが仮に健康だとしても、そこまで幸せそうにもみえなかったりする。

 

タバコを吸うこと、砂糖を食べること、肉を食べること。

もしその中に「幸せ」があるとすれば、その「幸せ」はある意味、快楽に近い感覚、つまりただの感情の断片に過ぎないかもしれない。

 

「幸せって何だろう?」

肥満や糖尿病などいろんな病気を患いながらも、趣味を楽しみ、その中から快楽を見つけているならば、その人にとってそれも幸せだと言えるだろうし、また何不自由なく健康で理想的な生活を送っていても、とてつもない孤独を感じたり、生きる活力を失っていれば、決して幸せだとは言えない。そこで、人は考え始める。どうしたら「幸せ」になれるだろうかと…。

 

そうやって私が「幸せ」という言葉にこだわればこだわるほど、そこから何かとてつもない価値を見出そうとすればするほど、その「幸せ」は一つの目標や生きる意味、そして何かの意義となりはじめる。そしてやがって人生の中でとてつもなく重要な何か、人生という一つの組織の中で最大の権威や価値として、現れはじめるのではないか。幸せな人生や幸せな時間を過ごすことは、もちろん誰もが目指し、夢見ることでもあるし、平和で生きている感覚を味わせ、生まれてきた喜びを与えてくれるものでもあるけれど、それでも何か釈然としない、この何かは何だろう...。

 

それで、少し離れた場所で、その「幸せ」というやつを観察してみる…。

 

するともしかしたら、高いところで輝いていた「幸せ」という言葉が少し落ち着き始め、ただ今を生きることで感じる自分の感情の一つに過ぎないことに気づきはじめるかもしれない。

 

「幸せ」とは、あの高い天辺に、光り輝くところにあるのではなく、ただ今を深く生きること、自分と周りのあらゆるものとの関係をありのまま見つめ、気づくこと。

その気づきの中で、いかなる比較も基準も対象を持たない「その安堵感を振り返る一瞬の気づき(過去)」に過ぎないかもしれない。

 

しかし、その一瞬の感情(過去)に何か特別なイメージをつけたり、繰り返して感じようとそれを目標とし、執着するとき、私は自分が作り上げたイメージとしての「幸せ」にこだわり、縛られてしまうのではないだろうか。


「では、健康って何だろう?」

タバコ・放射能・化学物質・添加物・過剰な糖分や肉や飲酒… 自分の身体に害を与えるものの危険性に気づき、それらを避けること。

ヴィーガンか肉食かどっちかを一方的に追いかけることなく、バランスの良い食事を取ること。また、単に◯◯専門医や医学番組に頼り、その時だけ特定の病気や効果に夢中になることではなく、いつもと同じ日常の中で身体からのアンバランス信号に敏感に気づき、自らできるかぎりの注意を払って原因を見出していくことなのかと思ったりする。

 

もしかしたら、健康とは決して目標ではなく、絶え間ない自らの気づきに敏感であるとき、その結果として得られる付加的なものかもしれない。

 

では、あなたにとって… 健康って幸せ?…。笑)

 

*今日の結論:悩みはブログに走らないで、かかりつけのパートナーにご相談下さい。

 


健康って何?What the Health - Trailer

 


『あまくない砂糖の話』予告

 

 

ミニマリズム: 本当に大切なもの 

Minimalism: A Documentary About the Important Things (Official Trailer)   www.youtube.com 

思考と願望

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久しぶりの外出。

閑散とした電車の中で、虚ろな目をした少女が私の前に立っていた。

数日は洗っていないような髪。ぼろぼろのスニーカーとトレンドとは程遠い小汚いジャージー。 何か不安そうにスマホを触る彼女は、明らかにまわりの視線を意識していた。

「ホームレス」「ネットカフェ難民」… 思考はあまりにも勝手に、あまりにも頻繁に、目に見えるあらゆる対象をイメージとして固定させ、それを評価し、分析したがっていた。またその対象がいなくなるや否や、常に新しい対象を持ち込んでくる。

そうやって思考は、決して休むことなく自分のことや他人のことで、常にいっぱいだった。その思考は、やがって「悩み」と「葛藤」となって自分を苦しめ、そして今度はその苦しみからの解放を望む「願望」「夢」「希望」が現れる。

思考は「思考そのものが、全ての苦しみと葛藤の原因である」ことを、決して認めようとしなかった。その代わりに、眩しい夢や希望を掲げ、自分を正当化することで、この単純でシンプルな事実から逃げているだけだった。

 

...。

「良い学校・良い職場・良いパートナー・良い結婚・良い育児・良い離婚」「良い老後・良い死に方」… 無数の「良い〇〇」の中にある「夢」「希望」「生きがい」と言ったあらゆる「願望」

そこには必ず、その「願望」と、そうではない「現実」との「ギャップ」がある。そして親とこの社会は、夢に向かって努力する人生に、無限の敬意と愛を与えていた。

「ああなりたい・こうすべきである・こうしてはいけない」... 願望を作り出せば出すほど、「今」という現実は「何か足りないもの・もっと努力すべきもの・未来へのステップ」としてさらに強調され、その価値を失っていく。

そうやって人は「願望」それ自体が「ギャップ」を作り出していること、またその「ギャップ」が「苦しみ」「葛藤」「悔しさ」「傷」などあらゆる感情を生み出し、自分を苦しめている事実に気づかない。そして、ヨガなどスポーツのように「無心」「無執着」「禅」「マインドフルネス」といった新しい何かの中で、苦しみを解決する新しい願望としての方法やノーハウだけを探し求める。が、「理想」と、それを叶うための「方法」への「努力」が存在する限り、そこから絶え間なく「人生の生きがい」を見つけ出す限り、決してその「苦しみ」が消え去ることはなかった。

 

願望のない人生。

 

「良いパートナー・良い市民・良い〇〇」無数の「良い」を捨て、願望や理想への努力を終わらせることができるだろうか? 

はたしてそれは無意味な人生、無責任で無能な生き方だろうか?

人生とは必ず、ひとかどの人物に、特定分野の専門家など、何かにならないといけないものだろうか?

... どうして親そしてこの社会は、その問いを投げかけることがないだろうか。

 

パートナーや子供、そして自分自身への思考が止むとき、全ての対象への願望が全て止むとき、そこにあるのは、無意味・無責任・無能な人生ではない、とてつもなく大きな意味を持つ「今」が、静かに輝いているだけである。

 

追記 :

より深く掘り下げてみたい方には、こちらの本も参考になると思います。

 

既知からの自由

https://www.amazon.co.jp/dp/4434108557/ref=cm_sw_r_cp_api_i_VcMREbTKCM684

(日記) 自由

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「大変、ご迷惑をおかけしました...。」

 

沈黙の電車の中で流れるアナウンス…。

その独特の軽さとリズムは「週明けの朝」という日常となり、その本来の意味を失っていた。

そして、その違和感に気づくことも、異議を唱えることもない「日常」が、見慣れた景色のように人々の頭の上を通り過ぎていく..。

 

そこには、何もかもが新しく始まるはずだった四月の景色が、相変わらず眩しく輝いていて、「美しい...」としか言いようがない透明な「何か」で満たされていた。

 

「...他の方のご迷惑になります。」

「... 咳エチケットをお願いいたします。」

そして、お詫びの次に流れるその言葉に、違和感を感じているのは、自分一人だけのようだった。

 

輝く景色を背景に、空虚な言葉が、マスクと共に揺れているのを見るのは不思議な感じだった。私を含む多くの人が、その景色には目もくれず、小さいスマホや本の中で「何か」を必死に探し求めていた。

 

成功・大学合格・暇つぶし・いいね・非難・代理満足・快感...。

形は違っても、人はその中で自分を慰めてくれるもの、恐怖や苦痛を忘れさせるもの、自分を認めてくれるものを絶え間なく探し求めていた。

しかし、人々が探し求めるその「何か」は、スマホや小説・参考書などあらゆる手段の中には決してなかった。

 

それは「日常」と言われる見慣れた景色の中で、決して気付かれることのない平凡さをして、今日も、人々の頭の上で眩しく輝いていた..。

 

***

自由とは何だろう...。

それは、不安と恐怖を抱えたまま仕方なく出勤をし、そういう自分に怒ることのように、そういった何かに対する反動としての感情を吐き出すことだろうか...。

また、自分を束縛しているあらゆるものからの解放を望み、そうできない自分を嘆き、「私には自由がない」と言うとき、そこに... 本当の自由があるだろうか...。

 

自由とは、感情や思考の単なる反動として、その都度私の必要に応じて生まれるものだろうか。
それとも、その反動や自分の思考、それら全てを見つめ、自ら自覚すること。それで、その不安と恐怖から逃げることなく、観察し続けることだろうか。

 

その観察の中、自分が抱える虚しさから目を逸らし、逃げることの無意味さに気づき、承認欲求に隠れた正当化と快楽を見つめられる自由。死ぬまでこの全てを抱え続け、絶え間なく悲しみを作り続けているのは「他ならない自分である」ことに気づく自由に気づくことができるだろうか。

 

それは「これが本当の自分の姿だ!」と言うこと、自分の都合や社会の基準による選択の自由と呼ばれるものだろうか。

 

それとも、思考や反動を伴わない「無選択な気づき」の中で、ただ見つめるとき初めて現れる何か、如何なる対象も、如何なる原因も持たない「それ自体として存在する」何か、その観察を持って、その全てに「ノー」と言える、言葉で言い表すことのできない、何かだろうか。

 

では、私に、この全ての虚しさと悲しさを見つめ、それを即座に否定する自由があるだろうか?...。

 

自由について問い続けている間は、私は働き続けるべきだろうか。

それとも、その足を止めて悲しさを即座に終わらせ、自分に問うべきだろうか?

...。

 

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向かい側には、楽しくお喋りをしている四人の女子高校生と、ブランドのスーツを纏って目を閉じている会社員が、並んで座っていた。

制服とパンプス、そして靴下まで同じである彼女たちは、派手なブランドの会社員とは対照的に、生き生きとしたエネルギーに溢れていた。

その高い笑い声と笑みは、窓越しから点滅する鮮やかな景色の光のように、電車の中を明るく照らしていたが、隣の彼は全く気付いていないようだった。

 

自由は、決してブランドやきれいなスーツ、ニュースをチェックするその真剣さの中にはなかった。それは、素直に喜ぶ笑み、そこから溢れるやさしさ、そしてそれら全てが自然に引き出す素敵な笑顔の中に、疲れている友だちに喜んで席を譲るその思いやりの中にあった。

...。

 

「社会のために」

「弱者のために」

「腐敗した政権を審判するために」

政府や誰かを非難している政治家。きれいなスーツと派手な選挙カーに乗って、今日も彼は人々の頭の上で「自由」や「権利」を叫んでいた。そして「投票」こそ「民主主義」であり、腐敗した政権を変える正当な手段、新しい歴史を作る「国民の選択」だと訴えていた。空虚な非難と約束が、あのアナウンスのように人々の頭の上を流れていった。

 

その中には、無能な政府かそれを非難する政治家を選択する自由、それらから無関心である自由はあっても、「その全てを否定する自由」、「繰り返されるだけの悲しみと虚しさを拒む自由」は決してなかった。

私には、そのどちらを選ぶこと、それとも選ばないことで無責任だと言われる、自由という名前で覆い隠された「束縛」と「制限」があるだけだった。

...

 

「...他の方のご迷惑になります。」

 

輝く景色を背景に、空虚な自分の言葉が、あの違和感と共に揺れている。

 

* BGM : 海辺の街まで | ハンバートハンバート

 

#追記:

自由とは、
権利や義務のように、国から与えられるものでしょうか。それとも、それは私たちが一度も感じたことのない全く違う「何か」でしょうか。

自由のない生活。
その繰り返しに苦しむ理由は、
本当に自由がないからか、それとも
本当の自由を知らないからか...。
正直よく分かりませんw

 

 

lcpam.hatenablog.com

 

(日記) 責任

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「私が伝えたいことは、私たちはあなた方を見ているということです。そもそも、すべてが間違っているのです。私はここにいるべきではありません。私は海の反対側で、学校に通っているべきなのです。

 

あなた方は、私たち若者に希望を見いだそうと集まっています。よく、そんなことが言えますね。あなた方は、その空虚な言葉で、私の子ども時代の夢を奪いました。

 

それでも、私は、とても幸運な1人です。人々は苦しんでいます。人々は死んでいます。生態系は崩壊しつつあります。私たちは、大量絶滅の始まりにいるのです。なのに、あなた方が話すことは、お金のことや、永遠に続く経済成長というおとぎ話ばかり。よく、そんなことが言えますね。

 

30年以上にわたり、科学が示す事実は極めて明確でした。なのに、あなた方は、事実から目を背け続け、必要な政策や解決策が見えてすらいないのに、この場所に来て「十分にやってきた」と言えるのでしょうか。

 

あなた方は「私たちの声を聞いている、緊急性は理解している」と言います。しかし、どんなに悲しく、怒りを感じるとしても、私はそれを信じたくありません。もし、この状況を本当に理解しているのに、行動を起こしていないのならば、あなた方は邪悪そのものです。」

グレタ・トゥーンベリ 国連での演説より

https://video.mainichi.jp/detail/video/6088893757001

.... .... ....

 

「アジアにおけるように世界中でとてつもない貧困がある一方で、アメリカにおけるようにとてつもない富があります。冷酷さ、苦しみ、不正、愛の感情のかけらもない人生があります。こういったすべてを見て、人はどうしたらいいでしょうか。

 

宗教はいたるところで、自己改善し、徳を養い、権威を受け入れ、一定の教義や信念に従い、大きな努力を払って適応する必要があると強調してきました。

 

私は、より気高く、より親切に、より思いやり深くなり、より非暴力的にならなければならない。社会は宗教の助けを得て、自己改善をもたらしてきたのです。それが私たち各々が絶えずしようと務めていることのなのです。

 

私たちは自分自身を改善しようとしているのですが、それは努力、規律、適合、競争、権威の受け入れ、安心感、野心の正当化を合意しています。そして自己改善はたしかに、一定のはっきりした結果を生じさせます。それは人をより一層社会に適応するよう志向させます。それには社会的意義はありますが、それ以上の意義はありません。なぜなら、自己改善は究極の真実在(リアリティ)を開示することには至らないからです。」

J.クリシュナムルティ 1955.アメリカ・オーハイ

 

 

 

「本当の自分とは…」あるJKとの会話。

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JK R:「本当の自分とは何か」…。

ある日の午後、JKの呟き(Twitter)にリプライを送った。

 

lcpam2:

どうして「本当の自分」が必要でしょうか。

どうして人はこうも…「自分とは何か」にとらわれているでしょうか。

時々「問いそのもの」が、そしてその問いへの答えを探し求める行為それ自体が、答えを閉じ込めてしまっているように感じます。

どうして本当の自分が必要でしょうか…。

 

JK R:

自分とは何かに囚われているのは、

自分は紛れもなく自分であるという

ことを確信したいからではないでしょうか。

確かなものなんてひとつもなくて、

せめて自分は自分であることを信じていないと、

信じられるものが無くて不安定で、不安だから、

自分を探し求めるんじゃないですかね。

 

lcpam2:

自分とは何かと問う自分と、

ありのままの自分との間に分離があるとき。

そして、こうありたいと何かへの安心や安定を求めるとき。その分離と求めが不安と葛藤を生み出していないでしょうか。

 

確かなものなんてひとつもない」という事実を前に、安心・安定を求めてそこから逃げることなく、それを観て、その事実に留まることができますか?

もしできれば、何かまた違う視野が生まれ、そしてその視野が自分の知覚全体に影響を与えるかもしれません。

 

大学・正社員・結婚 ... 未来の安心・安定を求めるかぎり、こうありたい・何かになろうと絶えず努力するかぎり、葛藤や悩みが止むことはないかなと。

 

確信を持つことは一つの事実もしくはイメージにとらわれ、それ以上問わなくなること、その過去に満足し安心していることではないでしょうか。

 

私の周りの殆どの人がそうだと感じます。

そしていつも確信やらイメージやらでいっぱいですw 答えを求めずに問い続けることが大事だと感じます。

 

「今」は常に変化し変わっています。

確信や安定も同じく変わるものなら、まぁそれは頼りになるかもしれませんw

 

...。

 

その後、リプライはなかった…。

そう。その日の午後、おじさんの説教が、気持ち悪い迷惑になったのは明らかだった…。

 

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 ・・・・

「あれが、彼の本当の姿なんだ... 。」

誰かを非難するとき、その非難と同時に自分に何が起こるだろう。

 

「悪い」「がっかり」

「みっともない」「だらしない」

自分の思考が瞬時に言葉となり、その言葉が作り出したイメージを通して、誰かを非難・評価し、「あれが本当の姿だ」と言うとき。

… そのとき、私に何が起こるだろう。

 

人は、決してその結論やその確固たるイメージが、自分の偏見や先入観から作り上げられていることを疑わない。そして、絶え間ない自分への疑いや見出しの煩わしさから逃れ、また自己主張という快楽に浸りたがる。そうやって、人は、刻々と変化する対象を、自分の決めつけや結論から判断し、一定の枠にはめていないか。

 

妻や夫・子供・友人・芸能人・政治家… あらゆる対象との関係の中で、一定のイメージが固定されるとき、私はその対象を注意深く観察しようとするだろうか。そこには、貴方と私、対象と私との関係ではない「イメージとイメージとの関係」があるだけである。

 

そして、自分に対しても同じ関係を求めるとき、「本当の自分とは何か」と問うのではないか。

 

カフェでの一息を喜ぶ自分。
スマホの中の政治家を非難する自分。
子供を笑顔で見守る自分。
仕事を失うか怯える自分。
彼氏の愛が足りないと不満の自分。
誰かの言葉に感化の涙を流す自分。
特定の人を助けることで喜びを感じる自分。
エコやボランティアを崇拝する自分。
他人との比較から安心を見つける自分。

… そして、これら全てから「本当の自分」を探そうとする自分。

 

「本当の自分」という言葉と、それを探し求める動きの中に「より高い価値の自分でありたい」という欲望と願望が、「変化しない・確かなものとして」の安心感や快楽があるのではないか。

 

「好き」

「ほっとする」

「これが私の生き甲斐」

「貴方といると幸せ」....


人は、その快楽が大きければ大きいほど、そしてそれが社会的に価値が高いと見なさればみなされるほど、その一部分としての自分に「本当」というレッテルを貼り、そこから安心と満足という更なる快楽を、永遠に求めていないか。

 

どうして本当の自分が必要でしょうか…。

その問いを自分に向かわせていると…

Kのある言葉が頭に浮かび上がった。

 

「… 私は知らない。そして知りたくない」

 

...。

 

追記:

...あなたの「自分探し」はもう終わりましたか?それとも、まだ進行中ですか?

... あるJKとの会話から自分探しについて少し書いてみました。

... 誤解はしないでください。

 

それも、一つのイメージに過ぎませんから。

ありのままを観るとき、そこに本当の関係が生まれるのです。

...。

(日記) 雑草と美

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... 道端に咲いた花。


その名もない花に興味を持つ人はどれぐらいいるだろう。

 

その花の前に、自分の足を止め、意識を向かわせ、自分ができる全ての注意を払って観察する人はどれぐらいいるだろう。

 

この長い人生の中で、

雑草を見つめ、それを注意深く観察することに、人はどれぐらいの時間を使っているだろう…。

 … 道端に咲いたその花は、私にそう聞いているようだった。


私が決してそうしないのは、その行為には価値がない、人生の限られた時間を有効に使うことだけが大事で優先されるべきことだと思っているからだろうか。

 

…「そんな余裕、そんな無駄な時間なんてないんだ」

そうやって私はその限られた時間を有効に使わないこと、その価値に沿わないことを「無駄」と決めつけてはいないだろうか。

 

「余裕」とは何だろう...。

このとてつもなく長い人生の中で、私に「余裕」とは何だろう。それについて、私は一度でも真剣に考えたことがあっただろうか...。

もしかしたら私は、その考えこそ「無駄」だと決めつけ、考えることをやめようとしていたのではなかろうか。

 

「余裕」とは何だろう...。

それはやるべきこと、優先的に行われるべきこと、価値が高いこと全てが片付いてから…それらをやらなくてもいいときに訪れる余った時間のことだろうか。

その余裕は、私の人生の中でどこにあったのだろう。

無邪気な幼年期、大学合格後、数回の夏休みや冬休み、社会人になったばかりのとき、彼女とデートをしている間、子供が生まれ引っ越す家を片付けている間…無数の過去の中で、果たして余裕はどこにあったのだろう…。もしその中に余裕がないというならば、どうして私は「余裕」を無くしてしまったのだろう。

振り返ってみると、私は常に「無駄」を無くそうと必死だった。「余裕」は、常に「安定や目標の中」にあるものと信じ、ずっとそれを追い求めていた。

 

どうして私は、道端に咲いた花に気づくことも、それを踏みにじっていることも、気づかないまま「余裕」を探し求め、どこかに向かっていたのだろう。

 

たとえ花に気付いても、私は決して花を観ようとせず、ただそれを「雑草」と言い、片付けてしまっていた。

そうやって、それ以上の価値・それ以上の「何か」を見出そうとせず、常に何か少し遠くにあるもの、決して届くことのない日常とは無縁の、優雅で立派でそして素晴らしいものの中で、人生の価値を探そうとしていた。そしてその「価値」「余裕」「幸せ」が、いつもそれらを探し求めている自分のとなりを、通りすぎていくことに気づかない。

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…  

私は、どこかに向かう足を止め、しゃがみ込んで足元に咲いた花を観た。

そこには、ほんの少しの力でもつぶれそうで、あまりにもか弱い花びらと葉が鮮やかな色で、人工とは無縁である、自然そのままの形を纏っていた。そしてその眩しい鮮やかさとか弱さを残したまま決して周りを意識することなく、静かに道端で花を咲かせていた。

誰も描くことのできない花びらの色やグラデーション、それぞれ異なる形をしたバラバラの葉っぱが魅せる「個でありながら全体」としての一体感とその香り。それは自らが一つの花であり、全ての自然そのもののようだった。

 

美とは、決して花の絶好期にだけあるのではなく、その全体にある…。

固く強い種の中に、柔軟で力強い茎の中に、どこでも新芽を育もうとするそのエネルギーこそ美である…。

それは決して私が、その名前や特徴など言葉や写真あらゆる知識を持って理解したり、それによって気づいたりするものではなかった。

その美を、花は言葉や知識ではなく「その存在全て」を通して静かにそして強烈に教えていた。


「きれい」「かわいい」「いい香り」… 反動としての自分の言葉(思考)をただ見つめ、見守るとき。

その感情と言葉が、時間と共に萎んでいく様子を決して「良い」「悪い」と言わずに、ただゆっくり観察するとき、それら(思考や感情)はまるで早送り動画を見ているように徐々に花を咲かせ、萎んでいく。

やがってそれら全てが無くなったとき、思考という花が咲き枯れて消え、反動や感情を伴わない観察だけが残るとき、私に何が起こるだろう。

 

私に、その「私」という思考すら無くなるとき、目の前にある花と自分の間に、思考によって生まれる無数の感情やイメージ、そして無数の区別が全て無くなるとき、私に何が起こるだろう…。

 

そのとき、花は、まるで人生で初めてそれを発見したかのような新鮮さと驚き、そして輝きを持って存在していた。その観察の中で、私は花であり、花は私である。

 

花とは

その形 香り 色 美しさであり

その全体が花なのです

花を手にとって引き裂いたり

言葉によってバラバラにしてしまうと

花はなくなってしまいます

かつてあったものの記憶が残っているにすぎません

それはけっして花ではありません

 

瞑想とは

咲いているときも

枯れはてようとしているときも

その美しさをたたえた

花の全体にほかなりません

 

‐ j.クリシュナムルティ-

 

 

追記:感染病がなくても、日常は常に混乱し苦悩と悩みでいっぱいのように感じます。これから、「コロナ」という言葉が日常からなくなるとき、その空白だけ、私はまた何かを埋めていくのかなと思うと、怖いのは感染病なのか、そういう自分なのか...笑)


自己流です。非難も同意も何でも構いません。それでほんの少しでも余裕と無駄について見出すことができればそれで充分です。

 

(日記と回想) 執着

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「毎日が綱渡り」

 

短いけど重い妻の言葉を、

私は同意も非難もせず、ただ見つめていた。

 

そう。その朝、

二人が仕事と食事の支度に追われ、逃げるように家を出るその日常に、子供たちと自分を保育園と会社に送るその繰り返しである日常に、明らかに疲れを感じていたことを...

私はその言葉をみて思い出していた。

 

その思い出しの中で、未知の「何か」が明確な言葉になること。そしてその「言葉」が自分から放つとてつもない力が、さらなる「感情」と「イメージ」を作り出させていることに気づいた。

 

... 「私たち、あまりにもいろんなものを抱えていて、それらを出来るだけ手放そうとしないから、毎日が綱渡りとなるのかな」

 

... 自分の返事は、

それが言葉として吐き出されるや否や、自分を離れていき、数分も経たないうちに、自分とかけ離れたところに独り立ち、独特の違和感を纏っていた。

 

......

 

「全ての執着を捨てろ」

 

キリスト・カトリック・仏教・禅...あらゆる宗教と思想が、執着を捨てること、執着から自由になることを促す。また、それら全てが、その執着に気づくこと、その危険性と愚かさを見抜くこと、その気づきと見抜きの中で「人生」を見つめることを教えていた。

しかし、皮肉にもそのどれもが「その教えへの執着」「その言葉への執着」をも捨てろとは教えていなかった。

 

その二重性という矛盾の中で「執着」は、「批判すべき・捨てるべき執着」と「守るべき執着(教え)」にと絶え間ない分離を繰り返し、地獄・天国・極楽...など人が想像できるあらゆる「イメージ」を使って、自分の教えだけが「真実」であると、説得や言い回し、時には脅かしを通じて説かれていた。

 

二十年前のある教会で、私はバイブルを前に、ある牧師を眺めていた。

拳を突き上げ、力強く語るその仕草と言葉を傾聴する大人たち。彼らは、牧師のお言葉に登場する人の愚かさを嘲笑いながら、自分たちの矛盾とその二重性には気づいていなかった。そしてバイブルや言葉を疑い、それらには決して存在しない、その本質にある「何か」について自ら問い、自ら見出そうとする人は、一人もいなかった。

...

「生きることが、どうしてこんなに苦痛だろう?」

二十年後。妻の言葉を前に、私は自分にそう問うていた。その問いと共に、私はその反応と反動としての「怒りと不満」に満ちていた。

 

反応や反動は「苦痛」をありのまま見つめ、その深淵にある原因を見出すことを拒む。そして一刻も早くそこから逃げ出すようにと、必死に私を促していた。

その必死さは、即座に「現実」「世の中」「生計」「責任」…という言葉を呼び起こし、私の思考の中に並べ始めた。そして私はいつものように、その言葉が意味するもの、それらを失う「恐怖」に怯えるのである。

...

反応と反動の外、恐怖を外から眺めるとき、

「その恐怖に怯えている限り、その中でもがき、逃げている限り、決してその深淵にあるもの、その原因を見出すことはできない」

という感覚が静かに浮かび上がってきた。

 

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...。

 

突然彼は言った。

「先日聞いた話をしておかなくてはならない。古代インドの話です」

「いろいろなことを修得し、峻厳で有名なヨギがおりました。彼はたった二枚の腰布をもっているだけでした。一枚は洗濯用、もう一枚は着用です。

 

彼は国の都を訪ねます。

すると彼の名声は国王の耳に達し、国王はヨギを宮殿に招待しました。

 

王はヨギに言います。

『ここにある私の宝物のどれでもあなたに差し上げたい。好む物を言ってください。それはあなたのものです』

 

しかしヨギは昂然と断りました。

『世俗的な所有物は私にとって何の意味もありません。この世で私が所有しているのはこの二枚の腰布だけです』

 

王は感銘して彼に言います。

『どうか一、二日逗留して、あなたの偉大な無執着と智恵の秘密をご伝授願いたい』ヨギはこの招待を受け入れます。

 

召使いがその夜過ごす家具ひとつないがらんとした部屋に彼を案内します。

真夜中にあたりがひどく騒がしくなり、人々の叫び声や走る音がします。

誰かが彼の戸をいきなり開けて大声を出しました。

『逃げないと命があぶないよ!宮殿がかじになったのだ!』

ヨギは部屋から飛び出しました。

廊下には炎と煙が充満して、人々が逃げ惑っていました。

彼が闇の中に飛び出すと、王が衣服をまとって彼の隣にいました。

宮殿が炎の中に崩れ落ちるのを二人で振り返ってみていたとき、王はヨギに言います。

『ああ、私の全宝石が、全宝物が焼けていく。しかし、私は平気だ。あなたがわたしに所有物は大したことではない、必要なものは簡単な着衣だけで十分だと教えてくれたから』

 

その言葉を聞くと、ヨギは突然振り向いて燃えている宮殿の方へ走っていこうとしました。死に行くようなことをしている彼のことが理解できない。そこでヨギを追いかけて走っていき、彼をとらえて言いました。

『何をしようとするのですか?気でも狂ったのですか?』

『焼け死んでしまいますぞ。なぜそんなことを?』

 

ヨギは顔に恐怖と苦悩を浮かべて王の方を向いた。

『私の腰布、もう一枚の腰布。あれを宮殿に置き忘れた。あれを取ってこなくては、あれは私の全財産なのだ」

王は急に笑い出しました。

『たかが腰布のために命までなくそうというのかね?』

『あなたはわたしに執着を捨てろ、物を持つ心から自由になれと教えたではないか』

...。

 

追記:

毎日が綱渡り。
妻の言葉で思い出したこと。
そして執着について書いてみました。


... 書き終わって、
自分もあの牧師のようだと気づき、
笑ってしまいましたけどw

 

外出も何もなかなか厳しい時期に、
暇つぶしにでもなれば嬉しいです。