韓国人パパの人生と育児 with 哲学

育児と人生について日常から気づくことを書き残しています。思考の軸は、インドの哲人クリシュナムルティ(J. Krishnamurti)。5年目ブロガー。21年冬Amazonペーパーバック出版。これからもぼちぼち続けていきたいと思います。コメントや批評全てご自由に。

(日記) 踏切と不思議な午後

f:id:olewakbh:20210706104631j:image

遠くから聞こえる踏切の音。

金色の夕日を切り離す扉。
灰色のマンションに降り注ぐ夕焼け。
...そしてその真ん中を突っ切る電車。

足を組んで本を読んでいる人。
振動に合わせて居眠りをする人。
窓の向こうをぼうっと眺める人。
スマホの中で何かを探している人。
疲れ果てた目で何かを考える人。
空いている席を気にする人。

目の前にいる人が...
全て自分のように感じる感覚。

誰かの言葉や推測ではなく、
思想や理論では理解できない感覚。

言葉や何かの感情からではない、
ただ何となくそう感じる...
不思議な午後。

...

過去や未来。
そのどこかにいる自分の姿が、
目の前で蘇る感覚。

人の表情や行動...その全てが、
記憶や心のどこかで、
既に...経験したかのような感覚。

無数の過去と未来が...
その順番や場所に関係なく、
今、目の前で広がっているような、

それで...目に映るあらゆる人から
自分の姿を見つけ、戸惑い、苦笑いをする、
不思議な午後...。

f:id:olewakbh:20210706104928j:image

***
流れる景色と同じ速度で
自分を眺める思考。

そして自分は...思考がある時しか
存在しないという気づき。

目の前の何かから自分を
見つけている限り、
あの窓の景色のように
思考が流れているという気づき。

今日もあの景色のように、
自分が作り出した速度と視野で、
あの美しさに気づくことなく、
時間に追われ、またもや...
自分自身を眺めている気づき。

過去や未来。
執着や不安、そして...
その不安から生まれる期待。

時間の流れと関係なく、
執着や不安とは無縁の、
ただいつも、そこにあるその何かに...
気づくことはできるだろうか?

窓側から眺める残像のような、
部分的で断片的に気づくのではなく、

視界に入るもの、入らないもの、
まるであらゆるもの全てが
とまっているかのように、
その全てに...気づくことはできるだろうか?

f:id:olewakbh:20210706105028j:image

執着や不安...
あらゆる感情から自由になり、
過去や未来から自由になり、
感情や時間を作り出す自分という
ものから自由になって、

その自由をもって、
その全てに、全体的に...
気づくことはできるだろうか?

それでそこには...
もう執着も不安も期待もなく、
その全てを作り出す自分もなく、

ただ「気づき」だけがある自由を、

目の前にいる自分が...
全て消えて無くなる感覚を、

誰かの言葉や推測ではなく、
思想や理論では理解できない感覚を、

言葉や何かの感情からではない、
ただ何となくそう感じ、行動する、
そういう人生を生きることはできるだろうか。

 

...カン、カン...。

読んでいた本を閉じて、
振動に揺られ、ぼうっと窓を眺め、
何かを考え込む自分が、
あらゆる姿をした自分が...

疲れ果てた目で今日も、
人生の真ん中を突っ切る。

f:id:olewakbh:20210706104755j:image

 

#한국어번역(韓国語翻訳)

lcpam-k.hatenablog.com

 

lcpam.hatenablog.com

 

【抜粋】主体的に見ること。

f:id:olewakbh:20210629213703j:image

エーリッヒ・フロム | 聴くということ

(中略)

今日では、ほとんどの人々がそのような能力を失っています。人々は、ただ物事をいわゆるリアリスティックにしか見ることができません。

これは第一の意味の現実判断能力です。つまり、彼らは世界をよく知っているのですが、それは世界が操作可能であるかぎり、という条件つきなのです。

しかし、彼らは自然のなかのものであろうと、人間であろうと、それをきちんと主体的に見ることができません。

他に何の目的も持たずに、ただ見えたもの、聞こえたもの、動いているものを体験するということができないのです。

したがって、次のように言うこともできるでしょう。

外界の現実を見ることができないのを病んでいると言うなら、それと同様に、主体的に見ることができないのも病んでいると言える、と。

でも、私たちがある人を精神病だとか病気だとか言うのは、決まって外的現実を判断できないときだけなのです。

もしある人が主体的にものを見る能力を持っていないとしても、私たちはその人が病気だとは言いません。しかし、第一の能力がない場合と同様に、病気なのです。

その理由は簡単です。
私だちが病気と呼ぶのは、それが社会的機能を妨害するときだけなのです。病気という概念は、本質的に社会的なものです。

f:id:olewakbh:20210629214902j:image

ある人が精神遅滞だとします。情緒的な面、芸術的な面での精神遅延であり、物事を何一つ理解しようとしません。何も見ることができないのですが、お金の実用的な価値だけは理解しているとします。

すると、こういう人は、現代ではとても賢い人物だということになります。最も成功する人でしょう。

働いているときにかわいい女の子が近づいてきたとしても、チャーリー・チャップリンのように、それに気をとられて、止まらぬベルトの上で機械を放置してしまうなんてことはないでしょう。

何も感じないならば、主体的経験をまったく持たないならば、この社会には最もふさわしい人です。この社会で重視されるのはすべて、実行すること、実利的に実行することだからです。しかし、まさにその理由によって、より健康になるということはありません。

いわゆる、精神病の人といわゆるリアリスティックな人のどちらがより病気なのか、という問いは、未決のままです。

思うに、多くの統合失調症者は、オフィスの内外で無用な商品を売ろうとするより、統合失調症になるほうが幸せなのです。

f:id:olewakbh:20210629212909j:image

このことに関してよい例を挙げましょう。

それは、とても成功しているけれど、妻に完全に支配された男性の話です。

皆さんよくご存じのタイプ、典型的なアングロ・サクソン系の、小柄でかわいらしい女性です。とても控えめで、とてもやせていて、騒がしくしゃべることはほとんどなく、ごくごく目立たない感じの女性でした。

彼女はこの家族を独歳者のように支配しましたが、この罪のない、いわば無害で、ときどき甘く、ときどき甘くなく、しかし実際にはやりすぎの感があるほど謙慮で引っ込み思案な振る舞いによって、その独栽者ぶりを隠したのでした。

その男性は、晩年になり、入院を余儀なくされました。医者たちは、とても賢明なことに、妻が訪ねることを禁じ、息子に訪ねさせました。男性は息子に言いました。

「人生のなかではじめて幸せを感じているよ」と。

うつ病患者として入院していることを考えると逆説的な話ですが、完全に真実なのです。

彼の人生のなかではじめて、彼は自分が自由人だと感じていました。つまり、抑うつになるもならないも、それは彼の自由なのです。この状態が、彼が自由になるための最善の環境だったのです。

退院して回復してしまえば、バタンとドアが閉められます。彼は再び囚われ人となり、もはやその状況に耐えられないでしょう。

- 主体的な現実認識能力を失った現代人 -

 

lcpam.hatenablog.com

ただいま...

f:id:olewakbh:20210528092719j:plain


…笑って

…怒って
…戸惑って
…涙を流して
…また笑って…
そうやって子供と、誰かと…
夢中になっている自分の姿。

どうして笑っているのか。
どうして怒っているのか。
どうして戸惑っているのか。
どうして涙を流しているのか…

…気づく瞬間がある。

遠い過去の記憶。
楽しい思い出や出来事。
思い出したくない傷やトラウマ。
黒板と小さな先生の背中。
荒れた母の手とその上に落ちる涙。

亡き祖父の声と笑顔の写真。
異国で眺めた貧困と贅沢。
そしていつのまにか…
歳をとっている自分に…。

馬鹿みたいな笑い方が、
父に似てきた怒る顔が、
感動や傷で流す涙が、

ありとあらゆる感情が全て…
どこか…自分の中にあるどこかから、
跳ね返ってきていることに…。


楽しい。
悲しい。
苦しい。
あらゆる感情が…こだまのように
ただ戻ってきていることに…


…気づく瞬間がある。

そして何故か…途方もない感情が、
どうしようもない涙が溢れ出す。

f:id:olewakbh:20210528120053j:image

叶えたことと喜び。
叶えなかったことと悔しさ。
楽しい思い出と苦しい思い出。
記憶が呼び起こすあらゆる感情。

そうやって…
いつも意識のどこかで…
記憶と感情を見つけ出し、
笑ったり、泣いたりしている
自分を「私」と言い張るもの。

記憶を選別し、都合よく解釈し、
今という日常の上に広げて…
「良い」「悪い」「正しい」
そう言いたがるもの。

それで常に…
目の前にある今を見ないで、
記憶という過去とそれっぽい
未来で覆い隠すもの。

それは誰?それが「私」?

どこかの国で生まれ、
限られた環境で育ち、
何かを受け入れ、
また受け入れずに…
場所と環境とその受け入れと反動…
その積み重ねでしかない、
…それが私?

それはただ…
過去としての記憶が、
その記憶の積み重ねが、
経験を選び、そうやって…
選んできたものを価値観と呼び、
そこから何かを眺め、蓄積してきた
ただの過去の記憶とその蓄積でしかないのに。
どうして僕はそれにしがみつくのだろう…。

目の前に広がる「今」をみないで…
その記憶と知識を並べて笑って怒って…
涙を流しているのは…誰だろう?

それが私…?

f:id:olewakbh:20210528120109j:image

「私」「自我」「エゴ」…
いくらそれっぽい言葉で飾っても…
彼もただ…もう一つの記憶と
その蓄積でしかないのに…。

それで…
「観察するものは観察されるもの」
という事実を…どうして彼は、
みることができないだろう…。

画用紙に描いた円のように…
自分が描いた「私」という境界線が、
無数の「私ではない」ものを同時に
作り出しているという事実を…。

だから…本当は…
目の前の「今」には、
「あなた」も「私」もいなくて…

ただ…
無数の同じ「人」がいるだけなのに…。


あの不安。
あの感動。
あの悲しみ。
あの嫉妬。
あの恐怖。
あの傲慢。
あの虚栄。
全て他人ではなく、
全て自分なのに…。

どうして今日も自分は…
また誰かに向かって大きな声で
怒ったり、笑ったり…そうやって
夢中になっているのだろう…。

f:id:olewakbh:20210528120941j:image

***
少しずつ夕陽に染まっていく雲。
清々しい風と高い自転車の音。
無数の電線とすずめの鳴き声。
大きな古木を揺らす暖かい風。
記憶や経験…過去や未来…。

そして努力も意識も…
その全てに気づく「私」も
いなくなるとき…。

そこには…
一度も見たことのない「今」が、
過去や未来には存在しない「今」が…
あらゆるところで眩しく輝いている。

そして何故か…途方もない感情が、
どうしようもない涙が溢れ出す。

f:id:olewakbh:20210528120638j:image


「お・か・え・り!!」

娘の大きな声が
目の前から聞こえる。

その声に…
今日も僕は笑っている。

 

(ただ…いま…)


♬遠くまで イノトモ

 

lcpam.hatenablog.com

 

【抜粋】頼らないで生きていく。

f:id:olewakbh:20210526102024j:image

理論や理念に頼らないで生きていく力を、
どのように見出したらいいのですか?

それでは、理論と理念に頼って生きていく力を、あなたはどのように見出していますか? 方式・理想・理念などを使用して生きていこうとする、途方もないエネルギーを、あなたはどのように手に入れているのですか?

あなたはこういうやり方と一緒に生きている。そのエネルギーはどのように獲得しているのでしょうか。しかしそのエネルギーは、心の葛藤のために消耗してしまっているのではないでしょうか。

理想が彼方にあり、あなたという現実はここにある。そこであなたは理想に近づこうとして悪戦苦闘する。そこには分裂・抵抗があり、エネルギーが浪費されている。

だから、あなたがこのエネルギーの浪費を悟った時、理想・方式・概念に引きずり回される愚かさを知り、これらが間断なき葛藤を招いていることに気づいた時、あなたはこれらのことを捨て去って生きていくエネルギーを獲得するのです。

その時、あなたはエネルギーに満ちあふれる。というのは、もはや葛藤のためにエネルギーが浪費されることがなくなるからです。しかしながら、私たちの心は(環境や教育や知識などに)条件づけられているので、そのような生き方を恐れるのです。

私たちは、他のみんながしていることだからと言って、方式や理想という構造を受け入れているのです。私たちはこういうことと同居し、葛藤が生じても(それを)人生の一部として受け入れてしまうのです。

 

f:id:olewakbh:20210526102314j:image

 

しかし、この間の事情が明確に自覚された時、言葉の上で理論的・知的にとどまるようなそういう知覚ではなく、実際にそのような生き方の空しさを自ら体得した時...

私たちは葛藤の無い生話だけが知ることのできる、溢れるエネルギーを経験するのです。その時、存在するのは事実だけとなり、他の幻想は消えています。

その時、あなたには「貪欲という事実」のみが残り、「貪欲であってはならない」という理想(浪費の原因)は消え去っているのです。しかしこの貪欲という事実は、今の世界では...積極的かつ能動的に働く力をもつ存在となっているのです。

ですので、これこそ唯一の事実である。だから、その事実をあなたは全身全霊をあげて注視する時、あなたは…理想、原理、信念に頼ることなく、エネルギーを獲得し、その事実自体に負けずに、自由に生きていくことが出来るようになるのです。

そしてそれが愛することであり、過去と訣別する(過去に死ぬこと)ことなのです。

 - J.krishnamurti (自由への道) -

 

f:id:olewakbh:20210526105016j:image

lcpam.hatenablog.com

 

{(笑)後書き}

「余裕」
「好奇心」
「習慣」
「マナー」
「お返し」
「生計」
「クリック・ミスw」

誰かの記事やリンク...

あなたはどのような気持ちで
それをクリックし、眺めていますか?

毎日数えきれないほど流れてくる
広告や写真付きの近況案内や
深刻な問題提議や....
その他溢れるちっぽけな自慢話を...

あなたはどのような気持ちで
眺めていますか...?

そして「眺める」とは何か...
自分に聞いてみたことが...ありますか?

(笑)

한글 번역 (韓国語翻訳) 
COMING SOON... 

RECENT BOOK & MUSIC
📚 聴くということ(エーリッヒ・フロム)
📚 子育てのパラドックス(ジェニファー・シニア)
♬ 糸(オオタユキ)

自画(自我)像

f:id:olewakbh:20210515021028j:plain


ぼやっとした思い出の感情。

「あの時に戻りたい!」
つい叫びたくなる懐かしい時間。

ありきたりな日常とかけ離れた
別世界のような…穏やかなひととき。

そして繰り返し、繰り返し、
何度も眺めたくなる誰かの
そして自分の言葉…。

仕事に、人間関係に、家事や育児に、
常に過去や何かに没頭している
自分を止めたとき、

愚然…訪れる少しの余裕と余白。

しかし今日も僕は、
そのありがたい偶然を…
その美しい余裕と余白を…

「そういえば… あの時...」
「これからどうしたら…」

ありのまま眺めることなく、
その美しさを感じ取ることなく…
またもや、ありきたりな思考に
夢中になってしまう。

ほんの一瞬の間…
眩しく輝いていた、
あの余裕と余白が…
思考や夢中に埋もれていく。
そしていつも後になって
自分がやらかしたことに気づく。

「ありきたりな日常」…

その気づきと同時に…
また僕は…今日という瞬間
そう
名付けて…嘆く。

転んで泣いて、怪我をして…
誰かの愚痴や行動を非難して
時間を守らない子供に怒って
そして怒っている自分に怒って...
穏やかであるべき日常を脅かす
あらゆるものと戦う、今日という瞬間を…。

f:id:olewakbh:20210515021227j:plain


…ふと、

自分こそ「私」であると言い張る、
自分勝手で貪欲で、終わりのない
心地良さや快楽だけを追い求める
自我やエゴの存在に気づき、

その限界とちっぽけさに驚き、
それが他ならない自分自身である事実に
唇を噛みしめ、黙り込み、立ち尽くす。

虚偽を虚偽として観、
真理を真理として観、

虚偽の中で真理を観る。

言葉では、頭(思考)では理解し、
分かっているつもりでも...
それが目の前の日常となると、
また誰かと、無数の何かと戦ってしまう。

結局...自分の人生も、
あれほど否定していた誰かの人生と
あまり変わることなく…
似たり寄ったりしていることに気づく。

そうやって常に、
虚偽としての人生を「私」というやつは
決してそうではないと…
今日も
必死に言い張っている。

そこには…
そのために、必死に
戦い続ける
哀れな日常を生きる、何の変哲もない
ただの
中年男性が一人いるだけなのに...


人生や生きる意味というものを...
日常と離れた何かから見つけようとし、
今日もその二つを区分し、分離したまま…
仕事に向かい、家に帰る。

 

そしてまた…その全てが終わった少しの間、
一定の枠に捉われて何かを判断し、
それっぽい言葉で誰かを説得し、
そういう自分を...たまにチラ見して微笑む。

 

f:id:olewakbh:20210515021334j:plain


"나 다시 돌아갈래!"
「おれ、(あの時に)戻りたい!」

迫ってくる高速列車に向かって
主人公が叫んでいた最後の言葉。

あの古い映画の主人公のように...
自分も、死ぬ間際まで…
やりきれない気持ちを抱え、
その苦しみにもがき、
哀れな自分の自画(自我)像に、
涙を流しているだろうか。

それとも、ただ...その全てを、
目の前にある虚偽を噛みしめ、
今という真理を生きるだろうか。

今日も...
繰り返し、繰り返し、
何度も、自分の問いを眺める…

f:id:olewakbh:20210515021507j:plain


それでは以上のことを話し合いましょう。ご質問はございませんか?「
今話されたことは、日常生活においてどんな価値があるのか?」と尋ねても構いません。

「僕は生きていかなきゃならない。そのために会社に通わなきゃならない。家族があるし、上司もいる。それに競争も厳しい。いったい今の話は、こういう現実と、どう関係があるっていうのさ?」と、おそらくそのようなご質問があるかも知れません。しかし、その質問者は、今朝の私の話について来なかった人でもあります。

瞑想とは、毎日の生活からかけ離れたところにあるわけではありません。部屋の片隅に消えて行き、十分間瞑想し、部屋から出ると「肉屋」になる。これは比喩ですが、事実でもあります。

膜想は、きわめて真剣な行いの一つです。あなたは毎日実践しないといけません。会社の中であれ、家族と一緒にいる時であれ、「君が好きだよ」とささやく時であれ、子供のことを考える時であれ、みんな瞑想を必要とするのです。

そうでないと、子供を教育して、軍人にし、殺戮・愛国・国旗禁拝というコースになる、つまり子供を訓練させ、みすみす現代社会の落し穴に導いていくことになってしまいます。

こういった事態を見つめ、そこで果すあなたの役割を自覚するということ、その全てが瞑想の一つなのです。

あなたがそういう瞑想を行う時、すばらしい美しさをそこに見つけるでしょう。あなたは、刻一刻を正しく生きていけるでしょう。ある一瞬間違うことはあっても、あなたはすぐに立ち直って軌道を修正するでしょう。くよくよしていて時間を浪費することがありません。瞑想は、人生の一部であり、人生とかけ離れて存在するものではありません。

「J. クリシュナムルティ The flight of the Eagle 1971 (自由への道 瞑想について)」

 

【あとがき】

それがいつ、どこであれ、
書きたくなったら書く。

「続けること」
「続けることこそ大事」
という理想と思考は...

気づき、眺め、
その後を残さず...その場で殺す。

そして書きたくなったら書く。
...それだけのこと。

 

♩夜明け | ビューティフルハミングバード

 

#한국어번역(韓国語翻訳)

lcpam-k.hatenablog.com

 

lcpam.hatenablog.com

 

(日記) 思考と自然

f:id:olewakbh:20210512131543j:image

久しぶりの雨に洗われた木々が
透き通った空を背景に、色鮮やかに輝く。

そよ風に波打つ葉っぱの上を
黒い鳥たちが静かに飛び交う。


子どものお描きのような緑が
無邪気に彩られている山々。

「昨日の何か」
「いつもの何か」…。


過去に過ぎない記憶や、
その記憶と共に
呼び起こされる感情が…
やがて言葉として吐き出される。

「懐かしい」
「美しい」


そうやって今日も人は、
目の前に広がる「未知の何か」を、
「過去に決して存在しなかった何か」を…
自分の記憶から、その反応から眺める。


そしてその感情に心酔し、その全てを
言葉として表現することに夢中になる。


しかし、まさにその心酔と夢中が…
目の前の何かを歪め、曇らせていることに…
それにこだわればこだわるほど、その表現を、
さらに…
ちっぽけなものにしていることに
気づくことなく、

今日もまた…
目の前で広がるあの美しさから目をそらし、
ちっぽけな自分の表現を眺め、微笑む。

***

f:id:olewakbh:20210512132342j:image

記憶も、感情も、言葉も…
それで全ての思考も持たずに、
好きな部分だけを選び取ることなく、
自分の視界に入ってきた自然を
その全てをありのまま…ただ眺める。


そのとき人は、
無数の葉っぱを垂らしている木々が
その間を静かに流れる小川が、
あらゆるものを自分の住み処とする
数えきれない命が…

過去ではない今を懸命に生き、
その懸命さという秩序をもって
自ら調和を保っていることを…

そして愛は…
まさにその調和の中にあることを
見つけるかもしれない。


それは、決して…
セメントや高価な何かでは作り出す
ことのできない美しさであり、
過去や未来…人が生きている時間という
思考に縛られない自由という安らぎであり、

それで... 決して劣化することのない、
ただそこに…いつも新しく存在している
何かである。


しかしそれを言葉にしようとするとき…
まさに、その言葉と思考が、
止まっていた時間を動かせ、その時間と共に、
思考者を介入させるや否や…

愛は、自由は、その美しさは…
触ることのできない、
あのか弱いアサガオの花びらのように
バラバラに壊れてしまう。

***

f:id:olewakbh:20210512132628j:image

美しい森や山々を背景に
堂々と聳え立つ高層マンション。


四角いべランダーが無数に並ぶ
築何年から始まる、灰色のセメントビルを
好き嫌い…という言葉無しに眺める。


金や物、名誉や権威、愛や同伴者…。

人は常に…何かを所有したがり、
その所有が自分に与えてくれる
地位や自己満足に喜び、微笑み、
そしてそれを他人と比較することで、
安心と安らぎ、そして…何かの自由を見つけ出す。


またその狭い枠の中で、何かを眺め、
その全てが…未来には無いかもしれないという
不安に怯えながら、目の前の美しい景色ではなく、
自分自身を眺める。


そして今の教育は…
あの狭いビルの中で…より良い部屋、
より良い展望の持ち主になるように、
その必要性や方法を植え付けるだけで、


比較や競争の無意味さ、自己満足の虚しさと悲しみ、
その危険性…そして、それら全てを見出すことの
必要性については…
決して教えない。


自然の大切さや調和の必要性は…
図書館の中で誰かを待っている
あの古びた絵本の中に…

「自然は大事にすべきだ」という
親や先生が、子供に読み聞かせる、
もう一つの観念や理想としてのみ存在する。

f:id:olewakbh:20210512133050j:image

しかし、それは本当に…
私たちの日常とかけ離れた観念、
もう一つの「こうあるべき」何かだろうか?


それは本当に…教え、押し付けることで、
親や先生を喜ばせ、満足させるための
何かだろうか?


彼らが夢中になって、子供に教えようとする
その何かは…思考が作り出した無数の絵本や
美しい写真、広告混じりのその動画の中にある
何かだろうか?


果たして…自然の美しさや自由を、
それを見出す
必要性を学ばないといけないのは、
本当に…子供だろうか?
それとも…私たち親だろうか?


自ら感じ取ることができないというのに…
自分の理想や安心や安らぎという
狭い枠を通して、子供を眺めているというのに…
どうやって…それを子供や他人に
教えることが
出来るというのだろうか…。

人は...
子ども
を、誰かを…そして自分を...
本当に愛したことがあっただろうか…。

***


… 問い、悩み、苛立ち、憤り…
ちっぽけな自分の思考が止むとき…

今日も庭の片隅で…か弱い水色のアサガオが、
過去ではない今を懸命に生きていた。

 

♩眩しい季節のなかへ | ビューティフルハミングバード

 

#한국어번역(韓国語翻訳)

lcpam-k.hatenablog.com

 

lcpam.hatenablog.com

【抜粋】共感と愛

 

f:id:olewakbh:20210507144931j:image

 

皆さん、他人と意志疎通するには愛がなければなりません。結婚すべきかどうか、誰と結婚すべきか、セックスの問題、創造性、等々こういったすべての問題が起こるのは、私たちが愛を持っていないからです。

 

しかし、あいにく愛は学び取ることのできないもの、翻訳できないものなのです。それは、あなたが何の問題も持たないときに生まれ出るのです。

 

あなたは時々、自分が歩いているとき、星を見つめ、空や日没を見つめながら、なぜか知らずに幸福を感じたことがありませんか? このようなとき、あなたは他人と腕を組みたくなり、真に共感するのです。

 

f:id:olewakbh:20210507144548j:image

 

しかしあいにく、私たちは自分自身の思考や問題や恐怖や羨望でいっぱいなので、共感を持つひまがないのです。あなたは、自分の妻を知らないのです。自分の夫や子供たちを知らないのです。

 

あなたは子供を持っていますが、しかし何の愛も持っていません。なぜなら、あなたとあなたの妻は孤立しているからです。手製の壁の向こうに身を隠しており、その壁をとりこわさないかぎり、共感はありえず、そして共感するには愛がなければなりません。

 

愛無しには、単なる純潔、独身を追求することは不貞であることです。愛があるとき、そこに純潔、純粋さがあり、不壊なるものがあるのです。

- J.krishnamurti -

 

f:id:olewakbh:20210507144828j:image

 

Actually, We Have No Love

https://youtu.be/q5n1MsD17bY

 

lcpam.hatenablog.com

 

(日記) 蝶と平和

 

f:id:olewakbh:20210424225314j:image

どの花とも異なる色の蝶が、

静まり返った空き地の上を

優雅に飛んでいた。

 

何の迷いも何の抵抗もなく、

軽々しく花から花へと飛び回り、

時々花には何の興味も無いかのように

仲間と戯れ合っているその姿に

見入っていると…

 

あの蝶の名前は?

次はどこに?

 

静まり返ることのない思考が

今日も頭の中で飛び回り始める。

 

そうやって思考に囚われたまま

蝶を追いかけても、蝶は常に…

決して見たことのない弧を描きながら、

狭い自分の視界(思考)から消えていった。

***

 

f:id:olewakbh:20210424182751j:image

いつもそこにあるという思い込み、

いつでもそれに触れることができる

という安心感とその積み重ねである惰性。

 

当たり前すぎて…つい通り過ぎてしまう

のどかな日常の美しさと平和を...

今日も僕は、ありのまま見ることなく

狭い自分の思考を通して眺めていた。

 

そうやって自分が、

目の前の対象を自分の知識や経験から...

そこから浮かび上がった狭い思考から...

眺め、評価していることに気づくとき。

 

まさにその気づきと知覚が…

あの蝶のように...ここからあそこへと

次々と飛び回る思考を静まり返らせる。

***

f:id:olewakbh:20210424183052j:image

一度も見たことのない雲と空。

茂った草の間を行き交うあらゆる昆虫。

息もせず静かに何かを待っている蜘蛛。

風になびく葉っぱと花々の波しぶき。

 

気づいていなければならない。

沈黙しなければならない。

これこそ観察で、瞑想である。

 

誰かの権威や言葉から眺めることなく、

そう自分に言い聞かせることなく、

それで、その沈黙をもって静かに...

その全てにただ...とどまる時。

 

雲も、昆虫も、雑草も、花も、

それら全てに触れるあの風も...

決してバラバラではなく、互いが

互いを支え合っている一つであることを...

 

人は、誰かの言葉や知識からではなく、

自分の感覚で感じ取り、気づき、

そしてそこにある、美しさと平和を見つける。

***

 

f:id:olewakbh:20210424222150j:image

平和とは何だろう?

 

それは...眉間にシワを寄せて、

声高に掲げる気高い理想だろうか。

 

自国や自分の平和のために、

誰かの平和を犠牲にする、それで...

その手段としてのあらゆる暴力を

正当化する、何かの目標や信念だろうか。

 

また、立派なスーツで授賞式に参加し、

無意味な演出に喜び、それを褒め称えたり

自慢したりする、その何かだろうか。

...

 

それとも、平和は...

思考では見つけられない、感じ取れない、

それで...決して言葉にはできない何かだろうか。

 

果てしなく捨てられるゴミや自然破壊。

食べられるために生まれる命。

便利さと安さに失われる健康。

原発・新しい発電や電波による危険性...。

 

そのとき、自分の小さな信念や価値観から

何かを眺め、その反動や反応から憤りを

覚えたり、受け入れたり、諦めたりする、

その中に、平和はあるだろうか。

 

自分が信じたい何か...

決して否定されたくない大事な何か

守るために...人は今日も平和や未来を掲げ、

誰かを説得したり、納得させることに

夢中になっていないだろうか。

 

果たしてその中に、平和はあるだろうか...。

***

 

f:id:olewakbh:20210424222205j:image

空き地に響き渡るセミの鳴き声。

鳥のダイナミックな羽ばたき。

湿った庭の片隅でくつろいでいる蛙の背中。

そしてその全てを眺める、しなやかな

ユーカリの葉っぱ。

 

灰色の雲に姿を消した蝶の代わりに...

白いたんぽぽのわたげが...

静まり返った空き地の上を、

優雅に舞上がっていた。

 

lcpam.hatenablog.com

 

【抜粋】瞑想と行動

f:id:olewakbh:20210421082245j:image

わたしたちは誰もがみな、葛藤のない生き方を求めているはずです。

人々はそうした生き方を、例えば僧院生活の中に求め、僧侶としてあちこちを放浪したり、俗世を逃れて洞窟や象牙の塔の中に引きこもったりすることで、苦しみや悲しみが存在することのない生き方を見いだそうとしてきました。

 

にもかかわらず、人類は内側の世界においても外側の世界においても戦いに明け暮れる生き方に身を委ねてきたのです。

 

たとえ僧侶になろうと、さまざまな苦闘、混乱、不安を経験することから逃れることはできません。わたしたちはもはや人生を戦場として受け入れて反目しあうだけでなく、自己の限られた意識の内側においてすら分裂を招いています。

 

わたしたちは騒乱を引き起こすような生き方しか知らないので、さらなる不安や絶望を招くような行動しかとれないのです。

 

f:id:olewakbh:20210421081823j:image

 

それでは、そもそも葛藤を生まない行動というものは存在するのだろうかという問題を考えてみましょう。

 

行動とは、どう行動すべきかというイデオロギー的な概念を指すのではありません。まさに今この瞬間になされる行為、それが行動です。

 

これまでになしてきた行為、あるいはこれからなそうとしている行為のことではあり得ません。前者は行為の記憶に過ぎず、後者は過去の行為を現在の視点から投影したものに過ぎないからです。

 

わたしたちは行動について思案を巡らせ、それを現在において実行し、必要とあれば修正を加えます。つまり、行動とはわたしたちが過去に巡らせた思考によってもたらされたものなのです。

 

したがって、今この瞬間を起点とする行動というものは決して存在せず、そこにはつねに過去の影が差しているのです。ここで言う影というのは記憶や経験や知識のことであり、いかに行動すべきかを規定するイデオロギーや概念のことです。ですから、わたしたちが真の意味で行動することは決してないのです。

 

f:id:olewakbh:20210421081919j:image

 

今ここに過去をもち込み、それによって未来の結果を生みだそうとする分裂した行動は、すべて思考のなせる業です。思考は過去の産物であり、それゆえつねに新鮮さを欠きます。

 

思考の中には何ら新しいものが存在しないため、思考に支配された行動はもはや行動ではなく、単に結果や効果たらすためのものに過ぎません。しかし、生きることや感じること、関係性をもつことは常に現在のできごとであり、現在とは刻々と移ろいゆく過程なのです。

 

このように、あるがままの現在とこれまでの過去との間には絶えず矛盾がつきまとうため、どのような行動をとっても必ず軋轢が生じるのです。

 

普段、行動と呼ばれているもの、およびそこから生じてくる葛藤にまつわる以上のような仕組みをすべて理解できたとき、思考ではなく、静寂と沈黙そのものの精神状態によって行動が導きだされることはあり得るのかという問いかけが生じてきます。

 

こうした場合においてのみ、結果だけを目的とするのものとは異なる行動が可能になり、また、そこから苦痛や悲しみが生みだされることも無くなるのです。

 

f:id:olewakbh:20210421082356j:image

 

瞑想とは、過去によって占められた精神を空(empty)にすることです。そうすることができたとき、もはや行動そのものが瞑想になります。

 

なぜこれが必要なのかといえば、わたしたちの生活とはつまるところ、関係性における行動によって成り立っているからです。過去のイメージから精神を解放するためには、瞑想という行為が必要なのです。

 

- アートとしての教育 クリシュナムルティ書簡集(小林真行訳) -

 

lcpam.hatenablog.com

  

lcpam.hatenablog.com

 

人生について...少し話をしませんか。

 

f:id:olewakbh:20210415102222j:image

 

人生について…

違うようで似ている、
あなたと私の、人生について…
今から、少し話をしてみませんか…?

 

…勿論、いつものように、
スマホ画面をスライドしながら、
内容を読み飛ばし、たまに…
写真の前で少し止まるような、
そんな感じでも構いませんので…

 

心地よいソファーに包まれて
コーヒーを片手に、そうやって
気楽に互いの話に耳を傾ける
昔からの友人のように…

あなたと私、二人で、
私たちの人生について、
…少し話をしてみませんか?

 

f:id:olewakbh:20210415093542j:image

 

あなたが好きなあのドラマのように
笑ったり、泣いたり、感動したり…
そうやって感情を揺さぶる激しさは
ないかもしれませんが…

 

白い泡がゆっくり弾くコーヒーのような

癒される何かはないかもしれませんが…

 

…それどころか、少し違和感を感じたり、
心のどこかでずっと押しやってきた何かを、
二度と眺めたくなかった何かを突きつけられ、
不快感と苛立ちを覚えるかもしれませんが…

何事も、真剣に話し合う二人の友人のように…

 

未来の予定など気にすることなく、
今ここで話をするためだけに、
そうやって…互いに向き合って…
話をしてみませんか?

とてつもなく大きな木の下で、
気持ちいい朝の日差しとそよ風に
揺れている葉っぱの光を感じながら…
言葉にはできない、忘れていた
あの懐かしさの中で、一緒に座って、

 

...少し話をしてみませんか?

 

f:id:olewakbh:20210415084432j:image

 

「否定されるかもしれない」
「ただ頷いているだけかもしれない」


そういう心配や不安に悩まされることなく、
まるで赤ん坊を観察するかのように、
語られる話に自分が出来る全ての注意を
払って見守るかのように…

あなたの人生の話を...

 

数々の出来事と喜怒哀楽を、
そしてそこから学んできた全てを…
それで…思わず一緒に笑ったり、

泣いたり、怒ったりする、その話を…

「良い」「悪い」と言わずに、
否定したり、無闇に共感することなく、
それで何の意図も何の目的もなく、


語られるその話を、ただ…ありのまま傾聴し、
言葉と、言葉ではないその全てを感じ取るように、

あなたに対する記憶やイメージを全て忘れ、
それで、話をしているのはあなたではなく…
まるで自分自身であるかのように…

 

そうやって…互いに向き合って…
少し話をしてみませんか?

 

f:id:olewakbh:20210415085338j:image

人生とは何でしょうか。

それは朝九時から夕方六時まで仕事に出かけ、家に帰ること。それで、次の仕事までの間、疲れを癒したり、何かの娯楽を楽しんだりする、その日常のことでしょうか…?


生計のために何かのスキルを習得し、宣伝をし、競争に勝ち抜き、それからは決まりきった日常から安心感を感じ、それを継続させるために日々悩み、苦しむことが人生でしょうか?


そして経済的余裕ができれば、精神的余裕を求め、気高い社会貢献やボランティアに専念すること。それで、自分の信念や価値観が間違っていないことを何度も、正当化し続け、それをまわりに、子どもに何気に自慢し続けること。


無数の目標を作り出し、それを達成するために頑張り、それで、自分を認めてくれる誰か、花まると共に、喜んでくれる誰かを期待しながら生きていくこと。

 

毎日自ら作り上げた葛藤と苦しみを、持ち帰って相手を憎み、ストレスを発散し、そして次の朝には何もなかったかのように誰かと出会うこと。

 

…それが、人生でしょうか。

 

f:id:olewakbh:20210415085445j:image

 

もし、そうではないもの、

その全てを否定すれば...

そのとき初めて...

本当の人生というものが、

言葉では伝えることのできない何かが、

 

ゴールや最後の目標にではなく、

まさにその否定と同時に...

最初に現れるのでしょうか?

 

... 私には分かりません。

ですが、人生とは...もしかしたら...

それらとは全く違う何かかもしれません。

 

また、この全ての話を、

何年も同じ話をしている、

私のちっぽけな信念や価値観とは、

全く無関係な何かかもしれません。

 

それで... もしかしたら、

これまで正しいと思ってきたことは、

何もかも間違っていたかもしれません。

 

...ですので...

 

人生について…

 

違うようで似ている、

あなたと私の、人生について…

今から、少し話をしてみませんか…?

 

最後にあるゴールや結論ではばく、

最初が、常に最後である...

私たちの話を…。

 

f:id:olewakbh:20210415102056j:image

(予選通過) 写真コンテストに応募しました。

f:id:olewakbh:20210412082917j:image

#写真について説明して下さい。

 

恒例や安心という言葉が、異例や不安に変わっていく日常の中で迎える入学式。


初めての小学生という人生の一大イベントに、子も親も…不安と同時に希望や期待に胸を膨らませるのではないでしょうか。


しかし、すっかり「コロナ」という言葉に慣れてしまった日常で、「自粛」という言葉にも親も子も「萎縮」されてしまったのではないかと思う今頃です。

 

そう、振り返ると、「4月」や「桜」という言葉には、いつも「希望」と「期待」が、校庭のどこかで、咲き乱れる桜の下で、また少し緊張した一年生の小さな肩の上で、眩しく輝いていたのを覚えています。


しかし、いつのまに…その「希望」と「期待」は、慎むべき「何か」、遠慮すべき「何か」として…その姿を消しつつあることに、そのもどかしさに、親は大人は…ついつい寂しい表情になってしまうのではないでしょうか。

 

今回応募した写真は、人生初めてのスーツを着て、入学式予行練習に出かけた息子の後ろ姿を撮ったものです。


憧れのランドセルと桜道、ピカピカのイギリス風スーツに、予行練習や入学式のことは、すっかり忘れて息子は笑いながら踊っていたのを覚えています。

 

また、ランドセルの上で踊る桜の影は…まるでランドセルそのものが、ワルツに合わせて入学を喜ぶかのような、そんな錯覚を呼び起こすほどでした。

 

そういう錯覚も大事にしたいと思い、作品名もシャッターと共に頭に流れてきた、ワルツ「美しき青きドナウ」から、「美しき青きランドセル」としました。

 

…あなたの「希望」と「期待」は、今、どこで踊っていますか?

***

 

#本コンテストへの意気込みをご記入ください。

 

意気込みを聞かれる、これを読んでいる方に、私はこう尋ねたいと思います。

 

「写真に必要なものは何でしょうか」と…。

それは、派手な構図やテクニックによる、一度も見たことのない何かでしょうか。


それは、今は廃盤となった幻のカメラで撮る何かでしょうか。最新テクノロジーで武装した、目が回るような速度と設定で、あらゆる被写体を完璧にとらえる、それでその完璧さをもって何かを伝える何かでしょうか…。

 

それとも、写真とは…
ファインダーを覗き、自分が見たい何か、自分が渇望する何か、自分が探し求めているその何かを、ありのまま自ら眺めることでしょうか。

 

ですので、写真とは、もしかしたら被写体ではなく、被写体を眺める「自分自身そのもの」なのではないでしょうかと。

 

その時、大事なのは、あらゆる数字やコントロールに長けているノウハウやスキルではなく、目の前の何かをありのまま眺めることができる、その無垢さという感受性ではないでしょうか。そしてその感受性こそ、写真に必要なものではないでしょうか。

 

もちろん写真には、特徴溢れる被写体や斬新な構図、その目新しさも大きな魅力であるとは思います。ですが、そこに感受性が無ければ…、被写体を、自分自身をありのまま眺めることが出来なければ、斬新な構図、その目新しさが何の意味を持つのでしょうかと尋ねたいと思います。

 

それで、自分の写真にそういうのがあるかどうか... 私には分かりません。


ですが、それは互いの非難や否定ではなく、ただ…ともに眺める、それでともに見出す、そういう問いではないかと思いました。

 

ありがとうございました。

 

-「さくら芸術文化応援団」応募内容より -

 

(日記) 抵抗とエネルギー

 

f:id:olewakbh:20210405214737j:image

 

ちゅうりっぷだ!

 

心配事や時間に追われ、

玄関と車を何度も行き来している

自分の隣で...娘はそう叫んでいた。


少しの無駄も許されない、

少しの余裕や休息も...与えられない、

息が詰まりそうな平日の朝という

世界からかけ離れたところで…

 

娘は、ただひとり…

大きく見開いた瞳を輝かせながら、

キラキラ光る、小さい靴を止め...

赤い鉢の中で、静かに朝日を浴びている

チューリップを眺めていた。

 

「いち、にい、さあん、よおん、ご!」

「ごこもある!」...

 

言葉では言い表せない花びらと香り。

その下で色鮮やかに煌めく青い葉っぱ。

 

それはまるで...世界一の染料を、

花びら一つ一つに染めたような、

目が痛くなるほど、強烈な色彩と光を放つ、

これまで一度も見たことのない花だった。


はやく!はやく!遅刻しちゃうよ!


しかし今日も僕は...

まるで何かから逃げるかのように、

朝日で輝いている、あの小さい手を

無心に、強引に...引っ張っていた。

 

f:id:olewakbh:20210405084628j:image

 

「約束」「遅刻」「生計」...

何かへの心配事や不安。

そしてそれらを作り上げた社会や

特定の対象に抱く不満と憤り。

 

しかし手を引っ張り、車を走らせても

...どんなにそこから逃げ出しても...

自分に「不自由」を感じさせる、あの感覚が、

その中でもがく自分への苛立ちや自己嫌悪が...

消え去ることは... けっして無かった。

***


抵抗。

何かから不自由を感じるのも、

その不自由の反動として自由を追い求めるのも、

その目標としての自由に辿り着けない自分に

苛立ちや自己嫌悪を感じるのも、

全て... 自分が作り出した葛藤、

そして...抵抗でしかなかった。

 

人生という果てしなく続く川の中で、

比較、競争、快楽、無慈悲、暴力...

激しい流れに溺れないように...

それで自分自身を頼りに、ただ一人、

立ち向かわせる、生きるエネルギーが、

今日も...終わることのない葛藤と抵抗で

消耗されていく...。

 

そして... それが、何千年も何万年も...

果てしなく続いていることに...

その大きな「悲しみ」の川に...人は生きていた。

 

f:id:olewakbh:20210406083640j:image

 

葛藤や抵抗を抱えずに、

それで生きるエネルギーを消耗せずに、

生きることは、可能だろうか?

 

何かの不自由から自由を求めるのではなく、

自分に苛立ちや自己嫌悪を感じることなく...

 

その全ての不毛さと危険性に気づき、

その気づきという、「自由」の中で...

生きることは、可能だろうか?

...

私は、ただひとり…

自分自身を眺め、そう問うていた。

そのとき...。

咲き乱れる香りと色彩で輝く朝が、

これまで一度も見たことのない、

途方もなく美しい朝が... 目の前に広がっていた。

 

f:id:olewakbh:20210406142234j:image

 

 

lcpam.hatenablog.com

 

(日記) 傷と愛

f:id:olewakbh:20210321130608j:image

 

傷。

目の前で動く、あの時計のように、

道端に咲いた、あの一輪の花のように、

実際に存在する、一つの事実のように、

 

人の意識の中で、

日々の日常の中で、

傷は...人生の一部分として

常に自分の居場所を持っていた。

 

「昨日の些細な傷」

「何十年前の深い傷」

「コンプレックス」

「トラウマ」...。

 

...そこには常に

吐き気と違和感が、

不快感と怒りが、

そしてそれらから生まれた

痛みと悲しみがあった。

 

しかし人は...常に...

その痛みと悲しみの反対側、

より居心地よく、より安心できる

どこかを探し求め...できるだけ、

自分の傷から遠く離れたどこかに

それを少しでも忘れさせてくれる

誰かに逃げていた。

 

そうやって人は...

自分とは別々の何かのように

常に離れた場所から、傷を眺める。

 

そのとき、傷は、

癒されるべき何かとして

治癒されるべき何かとして

解決されるべき問題として

常に...人生の一部分として

その居場所を持ち続ける。


しかし人は...

自分や傷という感覚は

全て思考の動きの一つに

過ぎないということに...

そこには、けっして距離も区別もなく、

それで「傷=自分自身」であることに

気づくことなく、そしてその気づきの

必要すら感じることなく、

 

いつも自分と傷を区別し、

その区別がもたらす、痛みと悲しみを

当たり前の事実のように受け入れ、

傷を背負った犠牲者としての

傷ついた被害者としての自分自身に...

今日も涙を流していた。

 

***

f:id:olewakbh:20210320033555j:image

 

昨日より気高く、

昨日より慈愛深く、

昨日より高いレベルに...

 

「こうあるべき自分」

「これこそ本当の私」

 

毎日、無数に作り上げられる

「自分」「私」というイメージ。

 

自分が描くイメージを通して

夫(妻)や友人や子どもを眺め、

喜び、怒り、涙を流し、

今日もまた無数の傷が作られる。

 

そして人は...

それを関係と呼んでいた。

 

「自分が描く自分」

「あなたが描くあなた」

 

しかしその時、関係は、

ありのままの、変わり続ける刻々の

自分とあなたの関係ではなく、

互いのイメージによるものにすぎなかった。

 

そして人は、自分のイメージが壊れたとき、

「傷ついた」「侮辱された」と叫び、

今日もまた...新しい傷を作り出していた。

***

 

f:id:olewakbh:20210321224222j:image

 

傷は...

それを作り出した誰かを許すことで、

和らぎ、無くなるような何かだろうか。

 

それは本当に...

人生に欠かせない何か、

癒され、治癒されるべき何かだろうか。


それで...人生とは、

その果てしない痛みと悲しみを

受け入れながら、生きることだろうか。

...

人は、

その痛みと悲しみからその反対側に、

自分を慰めてくれる誰かに逃げることなく、

また「傷」という言葉を付けることなく、

自分に「傷ついた」と言うことなく、

ただ...それと共にとどまることができるだろうか。

 

それで...いかなるイメージも、いかなる傷も

作り出すことなく、生きることは可能だろうか?

...

...自分。

目の前で動く、あの時計のように、

道端に咲いた、あの一輪の花のように、

実際に存在する、一つの事実のように、

 

「自分」という感覚も、ただ...

一つのイメージに過ぎないことに気づく時、

 

その気づきの中で、

自分に、そしてあなたに向き合う時...

 

その時、

あの雑草のように、

関係が、愛が...

静かに、花を咲かせるに違いなかった。

 

 

lcpam.hatenablog.com

 

【抜粋】自然と責任

f:id:olewakbh:20210306112915j:image

 

川辺に一本の木があり、私たちは数週間、来る日も来る日も、朝日がまさに昇ろうとするころに、その木を見ていた。木々の向こうの地平線にゆっくりと日が昇ってくると、この木は不意に黄金色になる。

すべての葉が生命に輝き、見つめて時間がたつにつれて、木の名前は何でもかまわないが―大事なのはその美しい木だから―とてつもない質の高さが、川の上やあたり一面に広がっていくように思える。

太陽がさらに高く昇るにつれて、葉は揺れてダンスを始める。そして、時間ごとに木はその質を変えていくように思われる。太陽が昇る前には物憂げで、静かで、遠くて、威厳にあふれている。

 

f:id:olewakbh:20210306112943j:image

 

一日が始まると、光を受けた葉が踊りだし、すばらしく美しいものが有する特別な感覚をこの木に与える。

真昼に向かって影は濃くなり、太陽を避け、木に守られて木の下に座れるようになる。木が一緒にいてくれるから、まったく寂しくない。座っているとき、木々だけが知っている深くて変わらぬ安心で自由な関係が、そこにはある。

暮れかかって西の空が夕日に照らされるころ、この木はだんだんと物憂げに、暗くなって、自らを閉ざしていく。空は赤や黄色、緑色になるが、この木は静かにひっそりと夜に向けて安らぐ。

この木との関係を確立するなら、あなたは人類と関係をもつことになる。そのとき、あなたはこの木、そして世界の木々に責任をもつ。

だが、この地上の生き物たちとの関係をもっていないなら、あなたは人類との、人間とのどんな関係も失うだろう。

私たちは決して一本の木の質を深く見つめることがない。私たちは決してそれに触れず、その堅固さを、ざらざらした樹皮を感じないし、木の一部である音を聞かない。楽群を通り過ぎる風や葉を揺らす朝の微風の音ではなく、木そのものの音、樹幹の音、根の沈黙の音だ。その音を聞くためには、とてつもなく鋭敏でなければならない。この音は世界の雑音でもなければ、精神のおしゃべりの雑音でもなく、人間の争いや戦争の俗悪さでもなく、宇宙の一部である音なのだ。

 

f:id:olewakbh:20210306113019j:image

 

私たちが自然と、昆虫や飛び跳ねるカエル、丘陵でつがう相手を求めて鳴くフクロウと、ほとんど関係をもっていないのは奇妙なことだ。私たちは地上の生きとし生けるものへの共感をまったくもっていないように見える。

もし、自然との深くて変わらぬ関係を確立できれば、決して欲望にまかせて動物を殺さないだろうし、自分たちの利益のためにサルやイス、モルモットを傷つけたり、生体解剤をしたりしないだろう。私たちは自分の傷を癒し、身体を稽すために、他の方法を見つけるだろう。

だが、精神を獲すとなると、話はまったく別になる。その癒しは、自然とともに、あの木のセメントのあいだから顔を出す葉とともに、そして雲に覆われて隠れている丘陵とともにあるとき、徐々に進んでいく。

これは想像でもなく、ロマンチックな感傷でもなく、地上に生きて動く全てのものと関係性のリアルリティである。ひとは何百万頭もののクジラを殺してきたし、今も殺しているこの殺戮から私たちが得たものは全て他のの方法でも手に入れることができる。だが、ひとは明らかに生き物を、華奢なシカや美しいガゼル、立派なゾウを殺すことが好きらしい。

 

f:id:olewakbh:20210306113337j:image

 

私たちは殺し合うことが好きなのだ。

この人間の殺し合いは、地上の人類の歴史で一度も止んだことがなかった。だが、自然との、現実の木々との、数との、花々との、草や勢いよく流れていく雲との、深くて長くて変わらぬ関係を確立できたなら、ーそうしなければならないのだがーそのときには、私たちは、どんな理由があっても、ほかの人間を殺戮することは決してないだろう。

組織化された殺人は戦争であり、私たちは特定の戦争や核戦争、その他の戦争には反対してデモをしても、戦争そのものに反対するデモは決してしない。私たちは、他の人間を殺すことは地上最大の罪であるとは、決して言わなかったのだ。

 

抜粋 : Krishnamurti to Himself
(邦訳「最後の日記』平河出版社)

(日記) 反動と自由

f:id:olewakbh:20210222163001j:image

 

葉っぱの上で溶けていく雪。

どこかへ向かう静かな猫の足跡。

瓦の下で聞こえる鳥の鳴き声。

空き地の上で踊る鳶の黒い影。


「二月の雪」

 

人は常に言葉を通して、

その言葉が呼び起こす

イメージと感情を通して、

目の前の何かを眺める。


その時、

朝日で光り輝くあの美しさは...

春を待つ色鮮やかな葉っぱの

あのとてつもない生命力は...

いつも...その言葉の横を通り過ぎていく。

***

 

f:id:olewakbh:20210227151748j:image

 

「ライフ・シフト」

「経済的自由」

「FIRE」

「Nobody’s Perfect教育」...

 

仕事や生計のやりくりに、

果てしなく続く日常に感じる

ストレスと苦痛。

 

そのストレスや苦痛から、

そしてそれらが永遠と続く

かもしれないという恐怖から、

 

別々でありながら一つである、

その全てから逃れるために…

今日も人は、何かからの自由

追い求める。

 

その中で、自由は…

ストレスや苦痛の対義語として、

逃避の向こうにある終着点として

いつまでも未来の理想としてあり続ける。

 

生まれてから...このブログを読んでいる

今この瞬間まで...その数えきれない昨日の中で、

 

親や先生...無数の大人から教え込まれた

常識と言われる価値観と無数の正解。

 

そこにある無数の比較と競争。

意図と目的から始まる人間関係。

 

家庭、学校、会社、教会...

あらゆる所に溢れる常識と正解。

 

f:id:olewakbh:20210228045953j:image

 

「成功」「幸せ」「安心」

響きの良いスローガンで正解を押し付ける社会。

 

その中で、深い傷を負えば負うほど、

無力感を感じれば感じるほど...

 

人は、自分が受けた傷から、

その傷から導かれた経験から…

その反動として何かを眺め、受け入れ、

怒り、悩み、そして決意し、行動する。

 

そうやって...人生は何かの受け入れと、

その反発(反動)とで形作られていく。

 

しかし...

受け入れも、その反動も

どちらも束縛であることを、

自由は、決して束縛の中には

存在し得ないということを、

教えてくれる人は...どこにもいなかった。

 

f:id:olewakbh:20210228033459j:image

 

反動ではない人生。

国籍や遺伝子に条件付けられない人生。

伝統や教育の影響を受けない人生。

表面的な関係に傷つかない人生。

傷の反動から行動しない人生。

社会の常識と正解に振り回されない人生。

比較と競争の無意味さに気づく人生。

意図と目的に縛られない人生。

 

それで、成功や幸せ、そして...

ありもしない安心を追い求めない、

そういう人生を生きることは...可能だろうか?

 

「大きな夢を持ちなさい」

「幸せを見つけなさい」

夢や幸せという言葉で、

金儲けの近道やノウハウを、

そこに隠れた比較と競争を、

子どもに押し付けるのではなく、

 

束縛の危険性と自由の意味について

子どもが自ら気づき、見出させる教育は...

果たして可能だろうか?

 

私たち親は...今、

どんな人生を生きているだろうか。

 

その危険性と自由を見つめ、

そして自らの人生をもって、

子どもに何かを伝えているだろうか。

 

それとも...

単なる受け入れや、その反動から

作り上げられたちっぽけな価値観を

今日も、他人との比較と脅かしをもって...

子どもに押し付けているだろうか。

***

f:id:olewakbh:20210228060003j:image

 

日差しでキラキラ輝く雪。

その全てが終わるのを、

ただ静かに待っている猫。

 

気がつくと、僕は今日も...

目の前で舞い上がる雪を、

そのとてつもない美しさを

ありのまま眺めていなかった。

 

そして今日も、

自由は... 窓の向こうで、

自分の前を、通り過ぎていく...。

 

 

*くたびれ詩人|ハンバートハンバート

 

lcpam.hatenablog.com